EP 4
敵は岐阜県、領主は斎藤道三
「斎藤……道三殿だと」
信長の口から漏れた呟きに、愛知県庁の正庁講堂は水を打ったような静寂に包まれた。
道三。美濃のマムシと呼ばれ、一介の油売りから美濃一国を呑み干した希代の梟雄。そして、かつて正徳寺の会見で信長の器量を見抜き、愛娘の濃姫を嫁がせた義父その人であった。
信長の記憶にある道三は、長良川の戦いで息子・義龍に討たれ、無念の死を遂げたはずだった。その男が、信長と同じく令和の世に蘇り、再び美濃の主として北の空に君臨しているというのか。
「……くく、あはははは!」
突如として、信長は腹の底から笑い声を響かせた。
「道三殿か! あの老いぼれマムシめ、あの世から這い出してきて早々に、また美濃の玉座に居座りおったか! 生きておったか、義父上!」
「殿……! 笑い事ではありません!」
血相を変えて割って入ったのは、防災服の水野志保だった。
「岐阜県当局による『県境物流の全面許可制』の宣言です! 国道二十一号や二十二号、名神高速道路の県境ゲートに警察車両とバリケードが配置され、愛知からの大型トラックが完全に足止めされています! これは事実上の経済封鎖です!」
「落ち着け、志保」
信長は笑いを収め、鋭い眼光を志保に向けた。
「マムシのやる手口だ。あやつが真っ向から軍勢を繰り出してくるはずがなかろう。……トウドウ、岐阜の軍容はどうなっておる」
自衛隊の藤堂直人が、手元の資料をめくりながら硬い表情で答えた。
「はっ。岐阜県内には、航空自衛隊岐阜基地が存在します。ここは自衛隊が導入する航空機や装備品の試験・開発を一手に担う『飛行開発実験団』が置かれた、国内唯一の極めて重要な拠点です。また、陸上自衛隊の普通科連隊なども駐屯しており、防空・偵察能力においては愛知県警や我々警備部隊にとっても極めて厄介な戦力を有しています」
「飛行機の試験場か……」
信長は顎に手を当てた。空を飛ぶ鉄の鳥の威力を目の当たりにしたばかりだ。それを意のままに操る拠点が、すぐ隣の美濃にあるというのは確かに無視できない。
だが、信長の産業政策補佐官・井川澪が口を開いたのは、軍事的な脅威に対してではなかった。
「問題は、航空自衛隊だけではありません」
澪は眼鏡を指先で押し上げ、タブレット端末を叩いてスクリーンに新たな地図を映し出した。
「岐阜県の各務原市は、日本における航空宇宙産業の一大集積地です。川崎重工業の広大な航空宇宙システム工場があり、自衛隊の輸送機や哨戒機、民間航空機の胴体部品などを製造しています。さらに周辺には、高度な切削技術を持つ精密機械メーカーや金属加工工場が何十社とひしめき合っているのです」
「ほう……」
信長は目を細めた。
「鉄の鳥を造る工房が、美濃にあるのか」
「ええ。ですが、それは『岐阜県が単独で航空機を造れる』という意味ではありません」
澪は冷静に首を横に振った。
「岐阜の工場で機体を組み立てるためには、愛知県にある三菱重工の工場や、名古屋港から陸揚げされる特殊アルミ合金、炭素繊維複合材、炭素鋼、さらには愛知側の電子部品工場からの供給が絶対に不可欠です。愛知と岐阜の航空産業は、一つの生き物のように血管で繋がっているのですよ」
「……血管だと?」
「はい。愛知で作った主翼を岐阜へ運び、岐阜で作った胴体部品を愛知へ運ぶ。双方の職人と技術、資材が県境を行き来して、初めて一機の航空機が完成します。にもかかわらず、道三はその血管を自ら縛り上げたのです」
「愚かな」
信長は鼻を鳴らした。
「我が愛知から資材が入らねば、岐阜の工房とやらも干上がるではないか。自らの首を絞めるような真似をして、あのマムシは何を考えておるのだ」
「それだけではありません、信長様!」
志保が切迫した声で通信機を握りしめながら叫んだ。
「県境の混乱は、産業だけじゃないんです! 愛知県内から岐阜県へ向かうはずだったトラックには、食料品や医薬品、日用品が満載されていました! 逆に岐阜県側からは、愛知の火力発電所に送るはずだった工業用水の供給調整や、県境付近の農産物、さらには愛知の病院へ向かうはずの重症患者を乗せた救急車まで、すべて止められているんです!」
志保は信長に食ってかかるように詰め寄った。
「県境の高速道路では、何百台もの車が立ち往生して大渋滞が起きています! 運転手たちは食料も水もなく、寒空の下で怯えているんです! このまま物流が止まれば、愛知と岐阜、両方の民が干からびてしまいます!」
講堂に重苦しい空気が満ちた。
軍事的な攻撃ではない。銃声一発響かぬまま、道路を塞ぎ、物資の流れを止める――それだけで、両国の生活と産業は麻痺の淵へと追いやられようとしていた。
「信長公」
藤堂が進み出た。その目には自衛官らしい厳しさが宿っていた。
「強行突破をお命じになりますか。岐阜基地の防空網は強固ですが、陸上輸送路の封鎖地点に警備部隊を派遣し、威嚇射撃とともにバリケードを排除することは可能です。装甲車を先頭に立てれば、力ずくで県境を開くことはできます」
「待ちなさい、藤堂さん!」
澪が鋭く制止した。
「愛知から先に発砲すれば、それは『愛知による岐阜侵略』と見なされます! 岐阜県民の反感を買い、送電線や水道管を切断されたら愛知だってタダでは済みません! それに、工場同士の信頼関係が壊れたら、二度と部品の融通なんてできなくなるんですよ!」
「では、このまま指をくわえて道三の兵糧攻めを見過ごせというのか!」
「武力で解決できる問題ではないと言っているんです!」
藤堂と澪の意見が真っ向から衝突した。
武力で押し通すか、それとも経済の破綻を恐れて耐えるか。
二人の諍いを、信長は黙って見つめていた。
その瞳の奥には、怒りも焦りもなかった。かつて桶狭間の合戦の前夜に見せたような、研ぎ澄まされた静寂が宿っていた。
「……トウドウ、澪、志保。騒ぐな」
信長の静かな、だが有無を言わせぬ一言で、三人は息を呑んで口を噤んだ。
信長は玉座から立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
愛知県庁の窓からは、名古屋の広大な街並みと、その遥か北に霞む濃尾平野の山並みが見渡せる。あの山の向こうに、斎藤道三がいる。
「あのマムシはな、損な商売は絶対にせぬ男だ」
信長は低く呟いた。
「美濃の油売りから身を起こし、守護大名を追い落として国を奪った男だぞ。勝てもせぬ戦に命を賭けたり、己の懐を痛めるだけの愚挙に出るはずがなかろう」
「では……道三は何のために県境を塞いだのですか?」
志保が恐る恐る尋ねた。
「値踏みよ」
信長は唇を吊り上げ、冷徹に言い放った。
「あやつは戦をしたいのではない。この尾張の主となった織田信長が、令和の世においてどれほどの器量を持つか、試しておるのだ」
「試している……?」
「そうだ。岐阜も内陸の国、海を持たぬ。愛知の港や大工房と切り離されては、いずれ立ち行かなくなることなど、あの老いぼれが分からぬはずがない。だが、向こうから頭を下げて『助けてくれ』と言えば、愛知の風下に立つことになる。だから先に手を打ち、県境を塞いで我が喉元に刃を突きつけてみせたのだ」
信長は振り返り、三人の補佐官を見据えた。
「『わしを臣従させたいなら、貴様らの国がどれほどの力と知恵を持っておるか見せてみろ』――マムシはそう言うておるのだ」
「なるほど……」
藤堂が唸った。
「軍事侵攻ではなく『許可制』という形を取ったのも、完全な敵対を避けつつ、交渉の主導権を握るための布石というわけですか」
「その通りだ。ここでわしが血気にはやって兵を出せば、『信長は力しか知らぬ短気な小僧よ』と笑われて終わりだ。逆に、困り果てて無条件で泣きつけば、美濃に主導権を握られ、愛知の工業を安値で買い叩かれる」
「ならば……どうなさるおつもりですか、殿」
澪が問いかけた。
信長が答えようとした、まさにその時だった。
ピンポーン、と講堂内に澄んだ電子チャイムの音が響いた。
扉の脇にある受付内線から、県庁の秘書課職員が慌てふためいた様子で駆け込んできた。
「も、申し上げます! 県境の国道二十二号、一宮・笠松ゲートの岐阜県側警備本部より、愛知県知事官房宛てに親書が送信されてまいりました!」
「親書だと?」
「はい! 岐阜県知事特命全権・斎藤道三公の直筆とされる書面が、公用タブレットを通じて電子送達されました!」
信長は眉を上げた。
「電子送達か……つくづく便利な世よな。見せよ!」
澪が端末を受け取り、手際よく操作して講堂の大スクリーンにその書面を投影した。
白い画面の中央に、流麗でありながらも毒蛇のように鋭い筆跡で、墨痕鮮やかに書かれた日本語が映し出された。
戦国乱世を生き抜いた信長には、その文字の主の顔がまざまざと目に浮かぶようだった。
そこに記されていた文面は、短く、そして痛烈極まりないものだった。
『織田上野介信長殿
本能寺の灰から這い出たかと思えば、尾張七百万の民と天下無双の工房を手に入れたそうだな。まことに慶賀に堪えぬ。
だが、図体ばかり巨大な鉄の図体も、油が切れ、螺子が一本抜け落ちれば、ただの図体のデカい屑鉄よ。
貴様がかつてのように、ただ槍を振り回して天下を獲る気でいるならば、美濃の一歩たりとも踏み越えさせる気はない。
美濃の門を開いてほしくば――
まず貴様の国の値打ちを示せ。
民を飢えさせず、車を止めず、この令和の日ノ本をどう治める気か、その知恵の証を立ててみよ。
美濃国主 斎藤道三』
「……っ!」
志保が息を呑み、藤堂が拳を握りしめた。
あからさまな挑発。天下の織田信長に対し、「お前に国を治める知恵があるのか」と公然と問いかけているのだ。
普通の武将であれば、激怒して即座に出陣を命じるところだった。
しかし――。
「……ふ」
信長は腕を組み、喉の奥を鳴らした。
「ふふ……くくく……はーっはっはっは!」
講堂のシャンデリアを震わせるほどの豪快な笑い声が炸裂した。
「痛快よ! 流石はマムシよのう! 少しも衰えておらんではないか!」
信長はスクリーンに大股で近づき、道三の書状を見上げた。その瞳には、かつて美濃を攻めあぐね、知略の限りを尽くして戦っていた若き日の野望と闘志が、再び赤々と燃え盛っていた。
「値打ちを示せ、だと? 上等だ! あやつは最初から、このわしと取引をする腹づもりでおるのだ!」
「取引……ですか?」
澪が眼鏡の奥の目を丸くした。
「そうだ。道三は『戦う気はない』と自ら白状しておるのだ。知恵を見せろと言うなら、見せてやろうではないか!」
信長は踵を返し、三人の補佐官を指差した。
「志保! 県境で立ち往生しておるトラックの荷を直ちに改めよ! 岐阜へ運ぶはずだった物資の中に、奴らが喉から手が出るほど欲しがっておるものがあるはずだ!」
「は、はい! すぐに物流リストを洗います!」
「澪! 岐阜の工房が、愛知のどの部品がなければ一日も動かぬか、その急所をすべて暴き出せ!」
「お任せください。サプライチェーンのデータから、岐阜が最も痛烈に困る品目を割り出します」
「トウドウ! 兵を動かすなよ。だが、自衛隊の通信機と輸送車を志保と澪にすべて貸し与えよ。武力ではなく、物流の力で県境をこじ開けてみせる!」
「はっ!」
三人が力強く応じ、一斉に動き出した。
信長は再び北の空を睨み据えた。
戦わずして勝つ。
城を焼かず、民を殺さず、相手の喉元を経済と知恵で締め上げる。
令和の天下布武が、いま始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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