EP 3
トヨタを呼べ!
愛知県庁本庁舎の正庁講堂。重厚な近代建築の大会議室に、ただならぬ緊張感が張り詰めていた。
かつて愛知県知事や幹部官僚が座っていた上段の中央に、織田信長がどっかりと腰を下ろしている。信長の前には、スーツ姿の男たちが十数人、額に脂汗を浮かべながら深々と頭を垂れていた。
彼らは愛知県内に本社や主力拠点を置く、世界最大級の自動車メーカー――トヨタ自動車をはじめとする主要関連企業の役員や生産統括責任者たちであった。
「……して、そなたらが『トヨなんたら』の頭領どもか」
信長が値踏みするように眼光を光らせた。
最前列に平伏していた白髪交じりの役員が、恐る恐る顔を上げた。
「はっ……トヨタ自動車の生産管理本部を預かっております、森脇と申します。信長公、我ら一同、尾張の主君たる殿のお呼び出しとあれば、いかなる命にも従う所存でございます」
「うむ。話のわかる男は嫌いではないぞ」
信長は満足そうに頷き、身を乗り出した。
「先ほど、我が補佐官から報告を受けた。そなたらの工房は、平時であれば一年で数百万台もの鉄の輿を造り出すと聞いた。まことか?」
「はい。愛知県内のグループ工場だけでも、年間数百万台の四輪自動車を組み立て、国内外へ出荷してまいりました」
「数百万台……!」
信長は膝を叩いて哄笑した。
「凄まじいな! わしがかつて集めた堺や国友の鉄砲鍛冶ですら、月に百挺造れれば大したものだったぞ。それが年に数百万台とは、もはや人間の仕業とは思えぬ! これほどの巨大な鍛冶場があれば、もはや怖いものなど何一つないではないか!」
信長は立ち上がり、黒革のマントを翻して堂々と腕を広げた。
「森脇とやら、命ずる! 直ちにその巨大な工房のすべてを動かせ! 自衛隊にあるような、鉄の板を張り巡らせて機関銃を積んだ頑丈な軍用車両――装甲車という奴だな。あれを十万台、造れ! 十万台の装甲車で軍団を編成し、四十六か国を一気に踏み潰してくれるわ!」
講堂に轟く、覇王の豪放磊落な号令。
十万台の軍用車両で天下を平らげる。戦国武将らしい壮大な発想に、しかし――役員たちは歓喜の声を上げるどころか、顔を見合わせて真っ青になった。
「あ、あの……殿……」
森脇が喉を詰まらせ、途方に暮れたように視線を泳がせる。
「十万台というのは、その……物理的に、あまりにも現実離れしておりまして……」
「何だと? 年に数百万台造る力があるのだろうが! 十万台など、そのほんの一部ではないか! なぜ作れぬ!」
信長の眉間に鋭い皺が寄った。空気がピリリと凍りつく。
その怒号を切り裂くように、会議室の隅からコツコツと澄ました足音が響いた。
「――お静かに、信長様」
井川澪だった。
黒いスーツに身を包んだ彼女は、手に持ったタブレット端末を操作しながら、恐れる色もなく信長の正面へと進み出た。
「森脇さんたちを恫喝しても、装甲車は一台も生まれません。工場の生産能力と、今実際に作れる数量は別物だと、先ほど申し上げたはずです」
「澪! また貴様の講釈か。百万台造れる工房に十万台命じて、何が不可能だというのだ!」
「何もかもが不可能です。まず第一に、乗用車の生産ラインに鉄板を溶接したところで、自衛隊の装甲車にはなりません。防弾鋼板のプレス機もなければ、火器管制装置を組み込む設計データもありません」
澪は冷淡に告げ、手元の端末から部屋の大型スクリーンへと映像を投影した。
信長が思わず目を瞠る。壁一面に、細密画のように緻密な車の透視図が浮かび上がっていた。
「信長様、現代の自動車というものを、ただの鉄の塊だと思っていませんか?」
「……違うというのか。鉄を熱し、叩いて形作り、車輪をつけた輿であろうが」
「とんでもない誤解です。現代の自動車は、一台につき、およそ『三万点』の独立した部品から成り立っています」
「さ……三万点!?」
信長は絶句した。
「三万……そんな小細工の塊を走らせておるのか!?」
「ええ。エンジン、トランスミッション、電子制御基板、数千本の銅線束、窓ガラス、ゴムパッキン、ネジ一本に至るまで、三万点の部品がすべて揃って、初めて一台の車として息を吹き込みます。どれか一つでも欠ければ、それは動かないガラクタです。……そして、最大の問題はここからです」
澪が画面を切り替えた。
スクリーンに映し出されたのは、日ノ本列島の全図だった。そして愛知県を中心に、網の目のように四方八方へと伸びる無数の矢印と光の線が表示される。
「これが、自動車産業の『サプライチェーン』――部品供給網です」
「サプラ……何だと?」
「部品の調達網です。信長様、あなたは『トヨタの本社が愛知県にあるから、愛知の中で車がすべて作られている』と錯覚していませんか?」
「それは……そうであろう。この尾張の民が、尾張の土地で造っておるのではないのか」
「全く違います」
澪は首を横に振った。
「愛知にあるのは、主に最終組み立て工場や、主要なエンジン・車体の製造拠点に過ぎません。車に必要な半導体は熊本や岩手から。内装樹脂は三重や千葉の石油化学コンビナートから。特殊鋼は兵庫や岡山から。精密プレス部品は群馬や栃木から――日本全国、何十という県にある専門工場から、昼夜を問わずトラックや貨物列車で部品が運び込まれ、愛知の組み立てラインに届いていたのです」
「…………」
信長は固まった。
画面に映る日本地図を見つめる。愛知県という一点に向かって、東北から、関東から、関西から、九州から、無数の細い糸が結ばれている。
「企業の所在地と、実際に物を作る場所が違う……?」
信長の口から、乾いた呟きが漏れた。
「そうだとしたら……今、この日ノ本が四十七に分断され、県境が閉ざされたということは……」
「お察しの通りです」
澪は眼鏡のブリッジを押し上げ、冷酷な現実を突きつけた。
「他県からの部品輸送は、本日未明をもって完全に遮断されました。愛知県内の各工場にある部品在庫は、効率化のために極限まで切り詰められており、せいぜい数日分しかありません。つまり――」
森脇が、消え入りそうな声で言葉を継いだ。
「……現在の手持ちの在庫を組み立て終えた時点で、愛知県内のすべての自動車工場は、ラインが完全にストップいたします」
「新車を作るどころの話ではない、ということです」
澪が冷然と言い放った。
「装甲車を十万台? 笑わせないでください。今ある資材を無理やりかき集めて軍用車両を作ったところで、ほんの数百台で資材が尽き、その代わりに民間用の車を作ることも、直すことも二度とできなくなります」
講堂を重苦しい沈黙が覆い尽くした。
信長は拳を握りしめ、震える呼気を漏らした。
戦国時代であれば、領地の中に城があり、田畑があり、鍛冶場があり、すべてはその領内で完結していた。敵を討ち果たし、領地を広げれば、その分だけ富と兵が増えた。
だが、令和の世は違う。
愛知という国は、世界に冠たる工業大国でありながら、その手足は他県に、全国に、そして海の外に預けられていたのだ。
「……何という、脆弱な仕組みだ」
信長は吐き捨てるように言った。
「天下に轟く大工房が、他国から螺子一本届かぬだけで動かなくなるとは! まるで、一本の糸を切られただけで崩れ落ちる蜘蛛の巣ではないか!」
「その蜘蛛の巣のおかげで、人類史上例を見ない高度な文明と豊かさを享受してきたのです」
今度は、防災服を着た水野志保が進み出て口を開いた。
「信長公。どうか、軍用車両を造れなどという無謀な命令は撤回してください。いま愛知が直面している危機は、軍事ではなく、生活の破綻です」
「生活だと?」
「はい」
志保は必死の形相で訴えかけた。
「現在、県境が閉ざされたことで、愛知県内の七百四十万人がパニックを起こしかけています。食料をスーパーへ運ぶトラック、急患を運ぶ救急車、火災現場へ急行する消防車、ゴミを収集する清掃車……これら社会を動かしている車両が、もし故障しても直せなくなったらどうなると思いますか?」
信長はハッとして志保を見た。
「部品が足りないのは、軍用車だけではありません。救急車の交換用タイヤも、給水車の予備バッテリーも、トラックのブレーキパッドも、あと数ヶ月で県内から枯渇します。もし物流の車が止まれば、農村から都市部へ米が届かず、名古屋の街はあっという間に飢餓に陥ります!」
「飢餓……」
信長の脳裏に、かつて兵糧攻めで飢えに苦しんだ城々の光景が蘇った。
敵に囲まれて兵糧が尽きるのではない。自国内の車が止まるだけで、民が飢えるというのか。
「藤堂、貴様はどう考える」
信長は、後ろに控えていた自衛官の藤堂直人に鋭い視線を投げた。
藤堂は一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「水野補佐官の言う通りにございます、信長公」
「軍人の貴様までが、武器を造るなと申すか」
「自衛隊にとっても、後方支援と民生の安定こそが防衛の基盤です。自衛隊の保有する整備補給部隊の能力を民間に開放し、同時に民間工場の技術と在庫を、警察・消防・医療・食料輸送車両の維持に最優先で割り振るべきです」
藤堂の言葉に、澪も深く頷いた。
「信長様。いま愛知がやるべきは、派手な新車の量産ではありません。県内にあるすべての部品在庫を厳密に把握し、重要度に応じて配分すること。そして既存の車両を少しでも長く延命させるための『保守・修理体制』を築くことです」
「……保守、修理か」
「はい。愛知の真の強みは、工場の設備だけではありません。ここにいる森脇さんたちをはじめとする、高度な技術を持った何万人もの技術者と職人たちです。彼らの知恵を使えば、他県から入ってこない部品を既存の設備で代用・再生し、救急車やトラックを動かし続けることができます」
澪は信長を真っ直ぐに見据えた。
「天下を獲るために、まずは足元の車を止めないこと。……信長様、産業を兵器作りに浪費する愚行をお止めいただけますか」
澪の言葉は、戦国大名に対するものとしては極めて不敬であり、一歩間違えれば手討ちにされてもおかしくない舌鋒だった。
役員たちが青ざめて息を呑む。
だが、信長は怒らなかった。
ゆっくりと玉座に戻り、深く腰掛け直すと、信長は静かに目を閉じた。
――勝てるのに攻められぬ。
――作れるのに作れぬ。
目の前に広がる令和の世は、己の知る戦国乱世とはまるで違っていた。刀の切れ味や弓矢の数、兵士の勇猛さなど、この巨大な社会の前ではほんの枝葉に過ぎない。
見えざる油の流れ。
三万点の部品が織りなす精緻な網の目。
そして、それらを維持するために奔走する人々の営み。
(……面白い)
信長の口元が、微かに歪んだ。
(まことに、恐ろしくも面白い世だ)
信長はカッと目を見開いた。
「森脇!」
「は、ははっ!」
「先ほどの命は取り消す。十万台の装甲車など、今は作らんでよい!」
役員たちの顔に、一気に安堵の色が広がった。
「その代わりだ」
信長は澪を指差した。
「この『数字の澪』の言う通りにせよ。県内の部品の数をすべて調べ上げ、米を運ぶ輿、病人を運ぶ輿を絶対に止めるな。職人どもを総動員し、足りぬ部品を繕い、この尾張の国を動かし続けよ!」
「は、ははーーっ! ありがたき幸せに存じます!」
森脇たちが一斉に平伏した。
信長は澪に向き直り、獰猛な笑みを浮かべた。
「澪。貴様の言う『サプライチェーン』とやら、よく分かったぞ。……要するに、現代の戦とは、この見えざる糸をどれだけ繋ぎ止めるかという勝負なのだな?」
「……ええ。概ねその通りです。理解が早くて助かります」
澪がわずかに驚いたように眼鏡を直した。
「ふん。天下布武とは、ただ力でねじ伏せることではない。天下の理を布くことだ。この令和の理が部品と物流にあるというなら、わしがそれをすべて束ねてみせるまでよ」
信長が初めて、現代の産業管理という新たな武器に目を輝かせた、その時だった。
バタン!
講堂の重い扉が乱暴に開け放たれた。
駆け込んできたのは、通信機器を抱えた自衛隊の情報通信要員だった。
「緊急報告! 北の県境にて、重大な動きが発生しました!」
藤堂が鋭く振り返る。
「岐阜の県境か!? 何があった!」
「岐阜県境に展開する警察部隊および有志連合より通告がありました! 国道二十一号、二十二号、ならびに名神高速道路の県境ゲートがすべて封鎖されました!」
信長が眉を跳ね上げる。
「封鎖だと? 攻め寄せてきたのか!」
「いえ! 岐阜県側は軍事侵攻ではなく――『県境物流の全面許可制』を一方的に宣言しました!」
通信兵が震える声で読み上げる。
「岐阜県当局の許可なき車両の通行を一切禁止する、と! これにより、愛知県から北陸方面への物資輸送、ならびに岐阜県内からの部品・資材の流入が、完全に遮断されました!」
講堂に走る戦慄。
澪が息を呑んだ。
「岐阜の航空宇宙産業や精密機械工場からの部品が……遮断された!?」
信長は立ち上がった。
その顔に浮かんでいたのは、焦燥ではなかった。
獲物を前にした猛獣のような、研ぎ澄まされた獰猛な笑みだった。
「岐阜……美濃か。あの国を治めておる君主の名は何と言ったな、トウドウ」
「はっ……先ほど入った現地の情報によりますと……」
藤堂が唾を飲み込み、その名を告げた。
「岐阜県に蘇った君主は――『美濃の蝮』、斎藤道三にございます」
「……道三殿か!」
信長の瞳の奥で、業火のような闘志が燃え上がった。
「義父上め……早くもこちらの喉元を締めにかかってきたか。面白くなってきたわ!」
読んでいただきありがとうございます。
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