EP 2
殿、戦車は燃料がなければただの鉄の箱です
名古屋城の広場に冷たい秋風が吹き抜けていた。
膝を突き、額をアスファルトに擦りつけんばかりにして重油の供出を乞う水野志保を、信長は見下ろした。
眉根を寄せ、爛々と光る瞳でしばし考えを巡らせる。
「……病院とやらで、七百の民が死ぬと申したな」
「は、はい……! 電気が切れれば、機械に命を繋がれている者たちが一刻と持ちません!」
「ふん」
信長は鼻を鳴らし、迷うことなく右腕を一文字に払った。
「出せ。自衛隊とやらの蓄えから、必要な油をすべて病院へ運べ」
「え……?」
志保が呆気にとられたように顔を上げた。
「よいのか、と問いたい顔だな。民を殺して得られる国など、ただの焼け野原よ。城や領地など後からいくらでも奪えるが、死んだ民は二度と戻らん。……トウドウ! 直ちに兵を動かせ!」
「はっ! 直ちに対処します!」
藤堂直人が即座に敬礼を返し、携帯無線機に向かって鋭い号令を飛ばした。
数分後、名古屋城の敷地から、緑色の大型トラックや給油車がけたたましいサイレンを鳴らしながら街へと飛び出していった。その手際の良さと速度に、信長は目を細めた。
「見事な統率だ。……よし、トウドウ。次はわしの番だ。この国の軍勢を見せよ。愛知に残された兵と武器を、この目で改める」
信長を乗せた黒塗りの大型車両が、滑るように名古屋の街を疾走した。
「……むう」
後部座席に座った信長は、革張りのシートに背を預けながら、微かな緊張を隠せなかった。
揺れない。馬の背のように激しく上下することもなく、矢よりも速い速度で景色が後方へと飛び去っていく。窓の外には、空を突くようなビル群や、何車線もの道路を埋め尽くす鉄の輿が整然と流れていた。
「殿、気分は悪くありませんか」
助手席から振り返った藤堂が尋ねた。
「馬鹿を申せ。この程度で酔うてたまるか」
信長は腕を組み、精一杯の威厳を保ちながら窓の外を睨みつけた。
「それにしても、恐るべき速さだ。南蛮の早馬でもこれほどはあるまい。これほどの輿を何万台も走らせる道と技術……なるほど、これが令和の世か」
やがて車列は、名古屋市郊外にある陸上自衛隊の駐屯地へと滑り込んだ。
厳重なゲートをくぐり、広大なアスファルトの訓練場に入った瞬間、信長の眼光が跳ね上がった。
「……おお!」
訓練場には、迷彩塗装を施された異形の鉄の獣たちが整然と並んでいた。
八つの巨大なゴムタイヤを備え、屋根の上に太い砲身を掲げた装甲車――九六式装輪装甲車。
キャタピラを履き、威圧的な重機関銃を備えた装甲戦闘車両。
背後に立ち並ぶ、通信アンテナを林立させた指揮車両や、整然と並ぶ高機動車、大型トラックの群れ。
そして、それを取り囲むように整列した数百名の自衛官たちが、小銃を胸元に構え、信長に向かって一斉に直立不動の敬礼を捧げた。
車を降りた信長は、風を孕んで翻るマントを掴み、大股で装甲車の前へと歩み寄った。
「これは……鉄か? これほど厚い鉄の板で、輿の全体を覆っておるのか」
信長は無骨な装甲に素手を押し当てた。冷たく、硬質な鋼鉄の手応え。
「はい。敵の小銃弾や砲弾の破片から乗員を防護する装甲で覆われております」
藤堂が誇らしげに、しかし抑制の効いた声で説明する。
「時速百キロで走行可能であり、搭載された十二・七ミリ重機関銃、あるいは自動てき弾銃によって、数キロ先の名もなき敵拠点を一瞬で粉砕することができます」
「時速百キロ……!? 鉄の塊が、矢の倍以上の速さで走り、数町先の敵を撃ち砕くというのか!」
信長は歓喜に胸を震わせ、今度は兵士たちが構える小銃に目を留めた。
黒く焼き入れされた無骨な鉄砲。信長がかつて長篠の合戦で並べさせた火縄銃とは、似ても似つかない。
「見せよ」
信長が手を差し出すと、藤堂が目配せし、一人の若手隊員がおののきながら自らの小銃――八九式5・56ミリ小銃を差し出した。
信長はそれを手にとって重さを確かめ、銃口から機関部へと視線を走らせた。
「火縄を通す穴がない。火薬入れも、弾込め用の突き棒も見当たらぬ。……どうやって火をつけ、弾を放つ」
「弾薬包の中に火薬と弾頭、点火用の雷管が一体化されております。引き金を引くだけで、一秒間に十発以上の弾丸を連射可能です。有効射程はおよそ五百メートル。火縄も火種も不要、雨が降ろうと問題なく撃てます」
「雨でも撃てる……連射だと……!?」
信長の全身に鳥肌が立った。
長篠で火縄銃三千挺を並べ、交代で撃たせることで切れ目のない弾幕を作ったあの苦心は何だったのか。この鉄砲が一挺あれば、当時の百人分の火力を一瞬で叩き込めるではないか。
さらに藤堂は、空を指差した。
「小牧基地には輸送機が、また近隣には哨戒や偵察を行う航空部隊も配置されております。無線通信機を用いれば、数百キロ離れた部隊とも声一つで瞬時に連携が取れます」
信長は空を仰ぎ、並び立つ装甲車を見渡し、喉の奥から痺れるような笑いを漏らした。
「……素晴らしい。まことに素晴らしいぞ、トウドウ!」
信長はくるりと振り返り、駐屯地の全自衛官を見渡して大音声で命じた。
「勝てる。これほどの武力があれば、日ノ本に恐るるものなど何一つない! 全軍に命ずる! 直ちに兵粮と弾薬を積み込み、出陣の支度をせよ!」
訓練場がしんと静まり返った。
藤堂が怪訝そうに眉を寄せる。
「……出陣、と申しますと?」
「決まっておろうが!」
信長は獰猛な笑みを浮かべ、北の空を指差した。
「美濃だ! かつてわしが天下布武の足がかりとした岐阜へ攻め入る! 美濃を制する者が天下を制す。岐阜の山河を呑み、勢いに乗って四十六か国を瞬く間に平らげてくれるわ!」
覇王の号令。
かつての戦国乱世であれば、全軍が鬨の声を上げて槍を突き上げるところだった。
しかし――。
誰一人として動かなかった。
訓練場を包んだのは熱狂ではなく、困惑と、そして凍りつくような沈黙だった。
「……何をしておる?」
信長の眉間に深い皺が刻まれた。
「耳が腐ったか。出陣だと申しておるのだ。トウドウ、貴様が先鋒を務めよ。鉄の輿を連ね、岐阜へ押し出せ!」
「――お断り申し上げます」
静寂を破ったのは、低く、鋼のように硬い藤堂の声だった。
信長の殺気が跳ね上がった。一歩踏み出し、藤堂の鼻先数寸にまで詰め寄る。
「……今、何と言った」
「岐阜への進軍命令には従えません、信長公」
「貴様……! わしに弓を引く気か!?」
「弓を引く気など毛頭ございません。自分は信長公に忠誠を誓っております。だからこそ申し上げるのです」
藤堂は一歩も引かず、信長の猛烈な眼光を真正面から受け止めた。
「現在、愛知県の自衛隊を岐阜県へ進軍させることは、軍事的に不可能です」
「何が不可能だ! 目の前にこれほどの鉄の輿があり、雨でも撃てる鉄砲があり、何千もの兵がおるではないか! 岐阜にどれほどの軍勢がおるかは知らんが、この怪異な兵器で踏み潰せば一日で片がつくわ!」
「勝てるかどうかを問題にしているのではありません」
藤堂は首を横に振った。
「他県へ軍を進めるには、食料、燃料、弾薬、予備の部品、そして何重もの輸送補給路が不可欠です。ですが現在、海外からの資源輸入は完全に停止しております」
「輸入……? 海の向こうの南蛮船のことか。それが戦と何の関係がある!」
「大ありです!」
藤堂の語気が強まった。
「この九六式装輪装甲車は、軽油で動きます。一両で数百リットルの燃料を消費するのです。さらに強力な戦車ともなれば、一キロ走るのに数リットルの燃料を撒き散らす大食漢です。……信長公、先ほど名古屋市内の病院へ、自衛隊の重油を緊急供出されましたね?」
「うむ。民を救うために出せと命じた」
「その通りです。そして殿のご判断は人道的に正しかった。しかしその結果、基地内に残された燃料の備蓄は、すでに平時の作戦行動を維持する最低限のラインを割り込んでいるのです」
「な……」
「今ここで装甲車部隊を岐阜へ走らせれば、確かに県境は突破できるでしょう。美濃の要衝を占領することも可能かもしれません。ですが――」
藤堂は悲痛なまでに真剣な眼差しで、信長に言い放った。
「戦に勝っても、帰る燃料がなくなります」
信長は息を呑んだ。
戦に勝っても、帰る燃料がない。
「戦車や装甲車は、ガソリンや軽油が尽きれば、ただの動かない鉄の箱です」
藤堂が淡々と、だが残酷な事実を突きつける。
「岐阜の山中で燃料が切れれば、この無敵の兵器群は道路を塞ぐ巨大な鉄屑と化します。兵士たちは歩いて帰ることもできず、敵の反撃を待つだけの標的になる。殿、それでも進軍をお命じになりますか?」
「…………っ!」
信長の喉から、怒りと屈辱の混ざった唸り声が漏れた。
「勝てるのに攻められぬとは、何という話だ……! 敵を破る力がありながら、油とやらが足りぬだけで足止めを食らうというのか!」
戦国時代、信長の辞書に「勝てる戦を兵站の都合で諦める」などという文字はなかった。兵糧が足りねば現地で調達し、草を食らい、敵の城を奪って兵糧庫を開けばよかった。
だが、この令和の鉄の輿は、草も食わねば米も食わぬ。
黒い油を飲まねば、一歩たりとも動かぬのだ。
「――藤堂さんの言う通りです、信長様」
背後から、コツコツと小気味よいヒールの音を響かせて歩み寄ってくる者がいた。
黒いスーツ姿の女性、井川澪だった。
彼女は脇に抱えていた薄型のタブレット端末を操作しながら、信長と藤堂の間に割り込んできた。
「軍事以前の問題として、兵站の数字を直視してください。産業政策の観点から、現在の愛知県の物資収支を試算しました」
「……澪とやら。数字の講釈など後回しにせよ」
「いいえ、今聞くべきです。これを見なければ、あなたは明日にもこの国を滅ぼします」
怜悧な声で言い捨て、澪は光る板――タブレットの画面を信長の眼前に突きつけた。
「ぬ……」
画面には、信長には読めぬ横文字と、夥しい数の棒グラフ、そして赤く点滅する数字の羅列が映し出されていた。
「これは……何だ?」
「愛知県内の燃料供給、および物流の稼働可能日数を示した緊急報告書です」
澪は人差し指で画面をタップし、信長に見せつけるように赤い数字を拡大した。
「愛知県内には、臨海部に巨大な製油所や石油コンビナートが存在します。民間のガソリンスタンドや流通備蓄をすべて合わせれば、一見すると膨大な量の原油や石油製品があるように見えます。……ですが、それは『海外から定期的にタンカーがやってくる』という前提の上に成り立っていた数字です」
澪の眼鏡の奥の瞳が、冷徹に光った。
「外国からの輸入が完全に停止した今、県内にある石油備蓄は、愛知県が通常消費するペースで計算した場合――わずか六十日分しかありません」
「ろくじゅう……にち?」
「はい。たったの二ヶ月です。しかもこれは、県内の火力発電所、救急医療、ゴミ収集、食料配送、消防といった『最低限の社会機能』を維持するためだけに消費される量です。ここに自衛隊の大規模な軍事行動や、戦車・航空機の燃料消費を上乗せすればどうなるか」
澪は画面をスクロールさせた。
赤い棒グラフが一気に急降下し、ゼロのラインへと叩きつけられるシミュレーションが表示される。
「一ヶ月も持ちません。愛知県は停電し、上下水道は止まり、七百四十万の県民への食料供給が途絶し、街は餓死者と暴動で埋め尽くされます」
「…………」
信長は言葉を失った。
冷や汗が、背筋を伝って一筋流れ落ちるのを覚えた。
七百四十万の大国。
空を飛ぶ鉄の鳥、地を揺るがす装甲車、天を衝く摩天楼。
そのすべてが――薄氷の上に築かれた砂の城だったというのか。
「……作れぬのか」
信長は絞り出すように呟いた。
「油を、この尾張の地で作ることはできぬのか」
「地下から湧いてこない以上、不可能です。日本国内で原油が採掘できるのは、新潟県などごく一部の地域に限られます」
「ならば、その新潟を攻め落として油を奪えば――」
「新潟までどうやって行くのですか?」
澪が即座に切り返した。
「途中の岐阜、長野を突破するだけで燃料は枯渇します。仮に新潟を占領できたとしても、そこから愛知まで油を運ぶパイプラインも鉄道も、他県を通らなければ繋がっていません。途中の国に送電線を切られ、線路を塞がれれば、軍ごと孤立して全滅です」
ぐうの音も出ない正論だった。
信長は拳を握りしめた。ギリ、と爪が掌に食い込む。
戦国乱世を駆け抜け、知略と合理の限りを尽くして天下布武を掲げてきた信長にとって、これほど屈辱的で、同時にこれほど冷厳な理屈はなかった。
敵の知略に敗れたのではない。
敵の武勇に屈したのではない。
「目に見えぬ油」と「数字の鎖」によって、天下の覇王が完全に手足を縛られているのだ。
「……ふっ」
沈黙の中、信長が突然、短く息を吐いた。
「ふ……はは」
藤堂と澪が身構える。
信長は肩を震わせ、やがて空を仰いで哄笑した。
「あっはははは! なるほど、そういうことか! 面白い、じつに面白いわ!」
「……信長公?」
藤堂が困惑の声を漏らす。
信長は笑いを収めると、ギラギラとした獰猛な光を宿した瞳で二人を見据えた。
「わしの知る戦は、侍を集め、槍を持たせ、城へ押し寄せることだった。だが令和の戦は違う。油がなければ兵器は動かず、道が繋がらねば兵は飢え、数字を誤れば戦う前に国が滅びる……そういうことだな?」
「……ええ。概ねその通りです」
澪が少し気圧されながらも頷いた。
「よかろう!」
信長は踵を返し、駐屯地の出口に向かって力強く歩き出した。
「戦車を動かせぬなら、無理に動かす愚は犯さん。わしは負け戦をするために蘇ったのではないからな。……澪!」
「はい」
「愛知には、車を作る巨大な工房があると聞いたぞ。国中の鉄を集め、世界中に車を配っておったという、日ノ本一の商人だ」
「商人……? ああ、企業のことですね」
澪が眼鏡のブリッジを押し上げた。
「トヨタ自動車のことですか」
「トヨ……何だそれは。まあよい、そのトヨなんたらだ」
信長は立ち止まり、獲物を狙う鷹のように鋭い視線で澪を振り返った。
「油がないなら、油を食わぬ車を作らせればよい。あるいは、少しの油で千里を走る輿を作らせる。武器が足りぬなら、その工房で鉄の輿をいくらでも造らせればよかろう」
「えっ……あの、信長様、トヨタは軍需工場ではありませんし、自動車の生産ラインはそんな単純なものじゃ――」
「問答無用だ!」
信長は笑みを浮かべ、圧倒的な威厳を放ちながら言い放った。
「そのトヨなんたらの頭領を連れてまいれ! 尾張の国主たる織田信長が、直々に謁見してやる!」
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