第一章『信長、令和の尾張を手に入れる』
目が覚めたら、尾張が天下の工業大国になっていた
熱かった。
肌を焼く火の粉、喉を塞ぐ濃煙、そして柱がへし折れる凄まじい轟音。
――是非に及ばず。
謀反を起こした明智光秀の軍勢に包囲され、本能寺の業火の中で刀を収めた瞬間まで、織田信長の記憶は確かに存在していた。炎に呑まれ、我が身が灰燼に帰すその瞬間まで意識は研ぎ澄まされていたはずだった。
だが。
「……ん……」
深く吸い込んだ空気に、煙の苦みはなかった。
肺腑を満たしたのは、肌寒さを帯びた清冽な秋の風。微かに鼻腔をくすぐるのは、木々の匂いと、嗅いだこともない異質な油の匂いだった。
信長は跳ね起きるように身を起こした。
手のひらに触れた感触に違和感を覚える。焼け焦げた畳でも、荒れた土でもない。硬く、冷たく、細かな砂利を固めたような黒灰色の滑らかな地面――アスファルトの上だった。
己の手を見る。
火傷一つない。骨太で引き締まった筋骨、日焼けした浅黒い肌。年齢にして四十代の半ば、まさに天下布武へと邁進していた全盛期の我が肉体そのものであった。
「夢か……? いや、幻術の類いか」
信長は鋭い眼光を巡らせ、周囲を見渡した。
その瞬間、天下を睥睨してきた覇王の息が止まった。
「……何だ、これは」
見覚えのある巨大な堀と、反り立つ美しい石垣。その向こうには、燦然と天を衝く巨大な白壁と緑青の瓦、屋根に金色に輝く鯱を戴いた巨城がそびえ立っていた。
――名古屋城。
信長にとって見覚えのある那古野の地に酷似していたが、城の威容は安土城すら凌駕するほどに巨大で、異様だった。
だが、信長を真に瞠目させたのは城そのものではない。城の遥か彼方、天に向かって林立する異形の光景だった。
天を突き刺すかのように立ち並ぶ、直方体の巨樹のごとき楼閣群。
木でも土でもない。全面が磨き抜かれた硝子と銀色の金属で覆われ、雲を貫かんばかりの高さでそびえ立っている。何百、何千という部屋の窓が陽光を浴びてギラギラと輝いていた。
地響きが足元を揺らした。
城の麓に走る広大な黒い道を、信じがたい速度で何かが駆け抜けていく。
馬ではない。人を乗せる車輪のついた輿――だが、馬も牛も引いておらぬ。艶やかに塗装された色とりどりの鉄の箱が、地を這う獣のような重低音を響かせ、風を切り裂いて疾走していた。一台や二台ではない。何十、何百という鉄の輿が、整然と隊列を成して走り抜けていく。
さらに、頭上を切り裂く雷鳴のような轟音が響いた。
反射的に空を仰いだ信長の目が、極限まで見開かれる。
「鳥……? いや、鉄だ。鉄の鳥が、空を飛んでおるのか……!」
銀色に輝く巨大な巨躯、左右に広げた細長い翼。鳥のように羽ばたくこともなく、空気を灼く轟音を撒き散らしながら、白銀の巨体が悠然と天空を渡っていく。
恐るべき光景だった。天変地異か、あるいは仏教で説く地獄か天界に迷い込んだかのような異世界。
だが、信長の口元が、歓喜に震えて微かに吊り上がった。
「ほう……。面白い。まことに、面白いではないか……!」
恐怖など微塵もなかった。未知なるもの、理解を超えた巨大な力に対する、子供のような純粋で強烈な好奇心が、信長の全身の血を沸騰させた。
「上様……!」「信長公!」「殿がお目覚めになられたぞ!」
不意に、周囲から地を這うようなざわめきが湧き起こった。
信長が視線を落とすと、広場を取り囲むように、無数の人々が地面に両膝をつき、平伏していた。
その数、数百。いや、千を超えるか。
黒や紺の奇妙に簡素な衣服を着た者たち。緑色の斑模様の服に身を包み、引き締まった体躯で銃のような鉄筒を背負った武官たち。橙色の合羽のような上着を纏った者たち。
誰一人として武器を抜こうとはしていない。むしろ、神仏を仰ぎ見るかのような畏怖と、魂の底からの忠誠を宿した瞳で、信長を見つめていた。
「……面を上げよ」
信長の短く力強い一喝が、秋の広場に鋭く響き渡った。
「貴様らは何者だ。ここはどこだ。誰がこの地を治めておる」
群衆の前から、三人の男女が進み出て、信長の御前で深々と頭を垂れた。
一人は、緑の斑模様の軍服を着こなした四十前後の男。引き締まった精悍な顔立ちに、歴戦の武官らしい沈着な光を湛えている。
一人は、橙色の防災服を着た三十代半ばの女性。額に汗を浮かべ、過密な職務に追われているような焦燥と、真摯な光を瞳に宿していた。
そしてもう一人は、黒いスーツに身を包み、銀縁の眼鏡の奥から怜悧な視線を向ける若い女性だった。
軍服の男が口を開いた。
「申し上げます、信長公。自分は陸上自衛隊所属、藤堂直人と申します」
「トウドウ……武官か。で、ここはどこだ」
「はっ。ここはかつての尾張国那古野……現代におきましては『愛知県名古屋市』と呼ばれる地にございます」
「アイチ……?」
信長は眉をひそめた。
「尾張ではないのか。勝手に国名を変えるな。……して、現在のこの国の主は誰だ。民はどれほどおる。十万か、二十万か」
信長の問いに、今度は防災服の女性――水野志保が、震える声ながらもしっかりと言葉を紡いだ。
「殿……この愛知県を治める主君は、いま目覚められた織田信長公、あなた様です。そして……この国には現在、およそ七百四十万人を超える民が暮らしております」
「…………何だと?」
信長は思わず耳を疑った。
「七百万……? 聞き間違いではないな。この尾張と三河の一州に、七百四十万の民がおるというのか!?」
「はい。愛知県の人口は、約七百四十五万人です」
信長の頭の中で、かつての記憶が瞬時に回転した。
戦国乱世、日ノ本全六十六州をすべて合わせたとしても、人口は一千万から千数百万人程度であったはずだ。それが、この尾張と三河を合わせただけの領地に、日ノ本全土に匹敵する民がひしめいているというのか。
「ふ……ふふふ」
喉の奥から笑いが漏れた。
「七百四十万の民! 空を飛ぶ鉄の鳥に、馬も引かずに駆ける輿! 信じがたい力だ……南蛮の王とてこれほどの国力は持つまいて! 我が尾張は、いつの間に天下無双の大国になっておったのだ!」
信長が破顔して天を仰いだ。
しかし、その歓喜を冷ややかに遮る声があった。
「――喜んでいる場合ではありません、信長様」
眼鏡の女性――井川澪が、感情を排した声で告げた。
「工場の生産能力と、今作れる数量は別です。現在の愛知県は、外見こそ巨大ですが、その実態は飢餓と麻痺の一歩手前にあります」
「何……?」
信長の鋭い眼光が澪を射抜いた。普通の人間なら腰を抜かすほどの威圧感だが、澪は眼鏡の位置を指先で直すだけで、視線を逸らさなかった。
「貴様、名は」
「井川澪です。自動車部品の調達と生産管理を担当しておりました。……信長様、まずはこちらをご覧ください」
澪が差し出したのは、薄い黒い板だった。
澪がその板の表面を指でなぞると、突如として板が鮮やかな光を放ち、信長の目の前に色鮮やかな地図を描き出した。
「ぬっ……!?」
信長が思わず身構える。
「妖術か!? 板が光り、絵が動いておるぞ!」
「スマートフォン、およびタブレット端末と呼ばれる情報機器です。後ほどいくらでもご説明します。重要なのは、そこに映っている地図です」
光る板の表面に浮かび上がっていたのは、見慣れた日ノ本列島の姿だった。だが、その列島は信長の知る国割りではなく、細かく四十七の区画に切り分けられ、それぞれに異なる色が塗られていた。
「本日、二〇二六年十月十八日未明」
澪の隣で、自衛官の藤堂が沈痛な面持ちで説明を引き継いだ。
「原因不明の超常現象――我々が『戦国再臨』と呼ぶ事態が発生いたしました。東京にあった日本国の中央政府、および全国を統括する国家機構が完全に消滅したのです」
「政府が……消えた?」
「はい。同時に、外国との通信や往来、海上輸送も完全に遮断されました。そして日本全国、四十七の都道府県ごとに、歴史上の武将たちが一人ずつ復活いたしました。愛知県に信長公が降り立たれたように」
「何だと……?」
信長は目を細めた。
「わしの他にも、蘇った者がおるというのか」
「はい。北海道の松前慶広、越後の上杉謙信、相模の北条氏康、そして……大阪には、豊臣秀吉が復活しております」
「……猿が?」
信長の口から、かつての股肱の臣の名が漏れた。
秀吉。あの人懐っこい笑顔で草履を懐で温め、信長の天下取りを誰よりも支えた男。その秀吉が、大阪で一国の主として蘇ったというのか。
「さらに、日本全国の住民は、所属する県の武将を正統な君主として認識するよう精神的変容を受けています。我々が信長公に忠誠を誓っているのも、その影響です」
藤堂の言葉に、信長は腕を組み、光る板の地図を凝視した。
信長の頭脳は、恐るべき速度で事態を飲み込み、整理していた。
日ノ本が四十七に分断された。
中央の統治者が消えた。
かつての英傑たちがそれぞれの国で立ち上がり、住民たちはその君主に従っている。
海外からの手出しは一切ない。
「……くっ」
信長の喉から、低く、獰猛な笑いが絞り出された。
「くくく……あっはははははは!」
秋空を引き裂くような大笑に、広場の群衆が息を呑んで震え上がった。
「敵は四十六か国ということか!」
信長は右手を天に突き上げ、広場のすべての者たちを見下ろした。
「上等だ! 七百万の民と、この鉄の巨城、空飛ぶ鳥を動かす術があるならば、何を恐れることがある! 四十六か国、悉くわしが従えてくれるわ! この令和の世に、再び天下布武を刻んでみせる!」
圧倒的な覇気。
その場にいた何千という愛知県民の胸を、抗いがたい熱狂が貫いた。本能寺で倒れたはずの覇王が、いま再びこの尾張の地から天下を獲ると叫んでいるのだ。
「信長公万歳!」「殿……!」「天下統一を!」
地鳴りのような歓声が広場を埋め尽くそうとした。
――だが。
その熱狂を切り裂くように、けたたましい電子音が鳴り響いた。
ピピッ、ピピッ、ピピピピピ――!
「きゃっ!?」
防災服の水野志保が、腰につけた黒い通信機を慌てて耳に当てた。通信機のスピーカーから、怒号と悲鳴が漏れ聞こえてくる。
『――本部! 志保さん、聞こえますか!? 名古屋市内の総合病院群から緊急入電です!』
志保の顔から血の気が引いた。
「どうしたの!? 何があったの!?」
『中央政府の崩壊に伴い、広域送電網が緊急遮断されました! 県境を越えた電力融通が完全に停止しています! 市内五つの基幹病院で外部電源が喪失しました!』
「非常用発電機は!? 自家発電があるでしょう!」
『重油の備蓄が足りません! あと二時間……二時間で燃料が底をつきます! ICUの人工呼吸器、新生児の保育器、手術室の電源がすべて落ちます! このままでは、今日だけで七百人以上の命が消えます……!』
「なっ……!」
志保の手から通信機が滑り落ちそうになった。
広場の熱狂は一瞬で氷点下へと凍りついた。
信長は眉をひそめ、志保を見据えた。
「……何事だ。敵襲か? どこの軍勢が攻め寄せてきた」
「違います、殿!」
志保は半狂乱になりながら、信長の足元に縋り付くようにして叫んだ。
「敵ではありません! 病院です! 病気や怪我で倒れている民たちが、電気が消えたら死んでしまうんです! 自家発電を動かすための重油が足りません! お願いです、殿! 四十六か国を攻める前に……まず、病院へ自衛隊の燃料を運ぶ許可をください!」
「……何?」
信長は怪訝そうに言葉を失った。
重油? 電気? 人工呼吸器?
天下統一を宣言して、わずか数分。
尾張を手に入れた織田信長が最初に突きつけられたのは、敵城への進軍命令ではなく――見えざる「電気」と「燃料」を巡る、民の命を救うための緊急命令であった。
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