EP 5
天下人にも予算がある
「総反乱だと……? 愛知の職人が、この信長に弓を引くと申すか!」
愛知県庁正庁講堂に、信長の一喝が轟いた。
だが、詰め寄ってきた愛知県経済連合会の重鎮や、自動車・特殊鋼メーカーの首脳陣は、誰一人として目を逸らさなかった。油の匂いを染み込ませた作業着姿の現場統括役員が、血走った目で机に両拳を叩きつける。
「弓を引くなどという大層な話ではありません、信長公! 物理的に身体と設備が保たないと申し上げているのです!」
「何だと?」
「他県からの原料輸入が止まって以来、現場の職人たちは手持ちの鉄屑を溶かし直し、旋盤にかじりついて徹夜で代替部品を削り出しています! そこへ持ってきて、静岡県の軽トラックや農業トラクターの修理まで無償で引き受けるなど……正気の沙汰ですか!? 現場のライン工も熟練工も、過労でバタバタと倒れているんですよ!」
さらに、石油精製コンビナートの代表が、額に青筋を立てて書類を突き出した。
「月間一万二千キロリットルの燃料割当も同じです! 製油所の自家発電用重油をこれ以上削れば、コンビナート全体の分解炉を減速させねばなりません! そうなれば愛知県内の火力発電所に送る重油が減り、名古屋の街は計画停電に追い込まれます! なぜ自国の市民を暗闇に突き落としてまで、他県に油を恵んでやらねばならないのですか!」
怒号、悲鳴、そして切迫した訴え。
先ほどまで徳川家康や北畠具教との高度な外交戦を繰り広げていた講堂は、一瞬にして愛知の内なる悲鳴によって埋め尽くされた。
信長は奥歯を噛み締め、唸るような息を吐いた。
戦国乱世であれば、「上様の命に背くか」と一喝して首を撥ねることもできたかもしれない。だが、目の前で叫んでいるのは、怠け者でも裏切り者でもない。この数ヶ月間、愛知の七百四十万の命を繋ぐために文字通り身を粉にして働いてきた、産業の根幹を支える者たちなのだ。
「……澪」
信長は低く呼んだ。
「この者たちの言い分、数字の真偽はどうなっておる」
産業政策補佐官の井川澪が、深く息を吸い込み、手元のタブレット端末を胸元に抱え直して進み出た。
「……すべて、紛れもない事実です」
「澪さん!?」
志保が驚きの声を上げるが、澪は眼鏡の奥の切れ長の瞳を氷のように冷徹に据え、大スクリーンへと指先を向けた。
「信長様。天下人のあなたにも……直視していただかねばならない冷酷な現実があります。国家の運営には、美名や大義名分以前に――【予算】という名の絶対的な物理的限界が存在するのです」
スクリーンに映し出されたのは、色鮮やかなグラフではなく、赤字の警告線が幾重にも交錯する『愛知県総合資源バランスシート』であった。
「ご覧ください」
澪が画面をタップする。
「愛知県が保有する工作機械の稼働率は現在、すでに限界値である百四十パーセントに達しています。治具の損耗率は平時の四倍。潤滑油の劣化スピードは想定の三倍です。既存の資材をやりくりして延命を図ってきたツケが、設備の老朽化という形で今まさに一斉に噴き出し始めています」
澪の声は、感情を排しているからこそ残酷に響いた。
「この極限状態において、もし静岡県の軽トラックや農業機械の修理枠を無制限に受け入れ、さらに東名・新東名の補修用重機部品まで愛知が肩代わりすればどうなるか。……向こう二ヶ月以内に、豊田の基幹工作機械のうち三十パーセントが軸受の焼き付きを起こして完全停止します。それは、愛知県自身の救急車や消防車を直す手段すら永遠に失うことを意味します」
「な……」
「さらに、軍事です」
澪は振り返り、自衛隊の藤堂直人を鋭く見据えた。
「藤堂さん。家康公との間で『共同防衛軍』を編成し、東名高速の警備や有事の即応部隊を展開させる計画を検討されていましたね」
「うむ……静岡県境の防空・警備体制を確立するためには、不可欠な軍事構想だが」
「その軍事構想を実行するために、どれだけの燃料と物資が消費されるか計算されましたか?」
澪が提示した試算表に、藤堂は息を呑んだ。
「装甲車部隊の定期パトロール、小牧からの偵察ヘリの定期飛行、通信中継所の二十四時間稼働……これら軍事作戦に優先的に燃料と資材を投じれば、そのしわ寄せはすべて民間の物流と医療、そして農業の現場へ直撃します。信長様、兵を動かすということは、民の握り飯と病院の電気を削り取って燃料タンクに注ぎ込むことと同義なのです!」
講堂が水を打ったように静まり返った。
軍事補佐官の藤堂が、唇を噛み締めて目を伏せる。内政補佐官の志保も、胸を押さえたまま言葉を失っていた。
「天下人にも、予算がある……か」
信長はポツリと呟き、己の大きな掌を見つめた。
戦国時代、信長は「兵農分離」を推し進め、米と金を集めて常備軍を雇い、天下布武を掲げた。金さえあれば、米さえあれば、いくらでも軍勢を繰り出せると思っていた。
だが、この令和の世は違う。
紙の金など一文の役にも立たない。あるのは、限られた石油、限られた鉄、限られた工作機械、そして過労に喘ぐ生身の人間たちの命の残量だけなのだ。
外の大名と華々しい軍事同盟を結び、東海道の覇権を握ろうと背伸びをすれば、その重みに耐えかねて足元の愛知が自壊する。
「……ふっ」
信長は短く息を吐いた。
玉座からゆっくりと立ち上がり、乱暴にマントを払うと、詰め寄ってきた産業界の首脳陣の前へと歩み出た。
男たちが身構える。
信長は、一番前で肩を怒らせていた老齢の代表の目を見据え、静かに口を開いた。
「……すまなんだな」
「え……?」
代表の男が、呆気にとられたように目を見開いた。
信長は微かに苦笑いを浮かべ、首を振った。
「外の天下ばかりに目を奪われ、床下を支える貴様らの軋む音を聞き落としておったわ。……職人どもに昼夜兼行を強いておきながら、その汗の結晶を他国へ気前よくばら撒くような真似をしては、主君失格よな」
「信長公……」
男たちの顔から、殺気立ったトゲが急速に抜け落ちていった。
信長は踵を返し、講堂の通信卓へ向かって歩き出した。
「澪」
「はい」
「愛知の工場が破綻せず、現場の職人が息を継げる『本物の限界値』を弾き出せ。静岡への燃料割当も、部品の修理枠も、その限界値の範囲内まで削り落とす。文句を言う者がおれば、この信長が一喝してやるわ」
「……承知いたしました!」
澪の瞳に、誇らしげな光が宿った。
信長は通信卓の前に立ち、藤堂に命じた。
「トウドウ。静岡の徳川家康へ、直通ホットラインを繋げ」
「はっ!」
ピピッ、と澄んだ電子音が響き、スピーカーから徳川家康の落ち着いた声が流れてきた。
『――愛知県知事官房からの緊急回線、受け取らせていただきました。信長公、先ほどの【相互保守ループ】の件、何か修正でもございますかな?』
どこかこちらの内情を見透かしているような、老獪な響きを含んだ声だった。
信長は通信マイクに向かい、一切の虚飾を捨てて切り出した。
「竹千代。単刀直入に言うぞ。先ほど提示した静岡への燃料一万二千キロリットル、および軽トラ・農業機械の無償修理枠――あれは、反故だ」
『ほう……?』
スピーカーの向こうで、家康の声の温度がスッと下がった。
『反故、と仰いますと? 東海道の門を開くための約束を、織田家から破棄されるとおっしゃるのか』
「破棄ではない。修正だ」
信長は堂々たる声で、澪が新たに弾き出した現実的な数字を突きつけた。
「愛知の現場は今、限界を迎えておる。これ以上無理を重ねれば、工場が止まり、市民の電気が消える。ゆえに、静岡への燃料割当は月間【四千キロリットル】を上限とする。そして静岡の車両の修理も、無償では断じて引き受けん。修理に必要な特殊鋼やゴムパッキンの実費、そして道路の舗装補修用のアスファルト原料と引き換えでなければ、一本のネジすら削らん!」
『…………』
通信の向こうが、深い沈黙に包まれた。
静岡県庁の幹部たちが息を呑む気配が、スピーカー越しに伝わってくる。相手の要求を大幅に切り下げる、極めて厳しい条件変更の申し出だった。
信長は言葉を継いだ。
「さらに、共同防衛軍の結成も見送りだ」
「殿!?」
藤堂が思わず声を上げかけたが、信長は手を振って制した。
「派手な軍用車両を連ねて東名高速をパトロールするような無駄飯食いの真似はせん。兵器を動かす油があるなら、米を運ぶトラックと、怪我人を運ぶ救急車に注ぎ込む。……竹千代。わしは貴様と覇権を争うために軍事同盟を結びたいのではない。互いの領民を飢えさせず、互いの車を止めず、この令和の乱世を共に生き抜くための【経済の安定】こそを最優先としたいのだ」
信長の腹の底からの言葉。
軍事的な主導権や見栄を完全にかなぐり捨て、互いの生活基盤を守ることに徹するという、冷徹なまでの現実主義の宣言であった。
張り詰めた静寂。
数秒後――。
『……ふふ』
スピーカーから、低く漏れるような笑い声が聞こえてきた。
『ふふふ……あはははは!』
温厚な家康が、珍しく声を上げて笑っていた。
「何がおかしい、竹千代」
『いや、失礼いたしました、信長公』
家康の声音には、先ほどまでの警戒や冷淡さは微塵もなかった。心底からの感服と、深い敬愛の色が満ちていた。
『昔日の貴公であれば、無理に無理を重ねて職人を鞭打ち、見栄を張って大軍を組織し、後から足元が崩壊して破滅していたところです。……己の領国の【予算】と【限界】を直視し、家臣の悲鳴を聞き入れ、軍事の虚飾を捨てて経済の実を取る。信長公、貴公は本当に、恐ろしいほどの天下人になられましたな』
「……ほざけ」
信長は鼻を鳴らしたが、その口元は微かに緩んでいた。
『その修正案、全面的に受諾いたします』
家康は迷いなく言い放った。
『月間四千キロリットル、そして等価交換による相互修理。静岡にとっても、愛知の工場が潰れてしまっては元も子もありませぬ。細くとも、長く確実に続く道こそが、我が求めていた真の同盟でございます。……信長公、東海道の物流協定、ここに合意いたしましょう』
「決まりだな!」
信長が頷いた瞬間、講堂内にいた愛知の産業界幹部たちが、胸を撫で下ろして安堵の息を吐き出した。
現場の無理を強いることなく、東への大動脈が開かれたのだ。
信長は万年筆を手に取り、協定書に署名しようとした。
――だが。
まさにその時であった。
ザザッ……ザザザッ!
家康とのホットラインに、激しいノイズが割り込んできた。
『――申し上げます! 家康公、緊急事態です!』
スピーカーの向こうから、静岡県警の無線司令室と思われる悲鳴のような怒号が漏れ聞こえてきた。
『東名高速道路・日本坂トンネル、および新東名高速道路・富士川橋梁手前の山岳区間において、同時多発的な異常事態が発生! 前日の集中豪雨による地盤の緩みと老朽化により、法面の連続崩落が発生いたしました!』
家康の緊迫した声が響く。
『何だと!? 被害状況は!』
『下り線のトンネル坑口が完全に土砂で埋没! さらに上り線高架橋の橋脚直下で地滑りが発生し、路面が数十メートルにわたって陥没しております! 東西を結ぶ東名・新東名高速道路、ならびに並行する国道一号線が――全線にわたり、完全通行止めとなりました!』
『な……!』
『さらに、東京方面から名古屋へ向かっていた医療物資・精密機器輸送の大型トラック数十台が、トンネル手前の寸断区間に閉じ込められ、孤立しております! このままでは東海道の物流が……完全に麻痺します!』
通信の向こうで響くサイレンと怒号。
開かれたはずの東海道の喉元が、人知を超えた自然と老朽化の牙によって――一瞬にして、物理的にへし折られた瞬間だった。
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