EP 4
信長抜きの密談
「……家康と具教が、直接手を結んだだと?」
愛知県庁正庁講堂の重厚な空気が、信長の低く濁った一言で瞬時に凍りついた。
玉座の前で仁王立ちする信長の眉間には、かつてないほど深い溝が刻まれていた。鋭利な眼光が、軍事補佐官・藤堂直人の差し出す通信傍受端末のディスプレイを射抜くように凝視している。
画面には、静岡県知事・徳川家康の公用回線と、三重県知事・北畠具教のホットラインが直接結ばれ、両県の実務幹部を交えた秘密協議が進行中であることを示すログが赤々と点滅していた。
「トウドウ、電文の中身を申せ。二匹の古狐が、わしの背後で何を企んでおる」
「はっ……」
藤堂は唾を飲み込み、電波情報隊が暗号解読した要旨を読み上げた。
「静岡県と三重県による【東海・伊勢湾バイパス通商協定】の締結に向けた実務協議にございます。協定の骨子は二点。第一に、四日市港と駿河湾・御前崎港を結ぶ【海上コンテナおよびタンク船定期航路】の即時開設。第二に、四日市石油化学コンビナートが精製する基礎化学原料および合成樹脂と、静岡県が備蓄する小型二輪車・汎用エンジン部品の【直通バーター取引】の確立であります」
「直通……だと?」
「はい。愛知県の陸上道路網――すなわち名神、東名、新東名、国道一号を経由せず、伊勢湾から太平洋の海路を用いて、両県間で直接物資を融通する迂回ルートの構築です」
「ふざけるなッ!」
信長は机の縁を激しく殴りつけた。
凄まじい衝撃音が講堂に木霊し、机上の湯呑みがガタガタと悲鳴を上げる。
「この信長を通さずに、西と東が勝手に手を結ぶなど、何の真似だ! 愛知を真ん中に挟んでおきながら、その頭越しに海の抜け道を通すとは! わしを蚊帳の外に置いて、中部の覇権を二分する腹づもりか!」
信長の全身から、青黒い殺気のような怒気が立ち昇った。
かつての戦国乱世であれば、同盟者同士が自軍に無断で密約を交わすなど、明確な「裏切り」「内通」の証拠であった。信長の知る盤面において、盟主とはすべての糸を一手に握る中枢であり、その許可なく諸侯が勝手に繋がるなど言語道断の不義密通だったのだ。
「竹千代め……! さっきまで通信越しにしおらしく『制度が大切』などと抜かしておきながら、舌の根も乾かぬうちに伊勢の北畠と裏で握っておったか! 具教も具教だ! さっき我が謝罪を受け入れ、三箇条を呑んだばかりではないか! 貴様ら、最初からこの信長を謀る気だったのか!」
「信長様、お気持ちは分かりますが……!」
産業政策補佐官の井川澪が、青ざめながらも手元のタブレットを叩いて割り込んできた。
「経済と物流の観点から見ても、これは愛知にとって極めて深刻な事態です。愛知県の最大の強みは、東西日本を結ぶ物流の大動脈と、豊田の巨大な組み立て・再生工場が中枢に鎮座しているという『地理的ハブ機能』にありました。もし三重と静岡が海上ルートで直結し、四日市のエチレンや化学樹脂が愛知を素通りして直接駿河へ運ばれるようになれば――愛知が握るはずだった『素材と部品の中継分配権』は完全に無力化されます!」
「無力化……!?」
「ええ! 三重の化学素材を愛知の工場で加工し、それを静岡や東国へ卸すことで愛知の優位性を保つという戦略図が、根底から崩れ去るのです! 愛知は中部の盟主どころか、ただの『陸上道路を貸しているだけの通過点』に転落しかねません!」
澪の冷徹な数字の分析が、信長の怒りに油を注いだ。
背後の藤堂も、軍人らしい険しい顔つきで口角を引き結ぶ。
「安全保障の面でも看過できません。伊勢湾の制海権を三重と静岡の民間船が自由に行き交うようになれば、愛知県警の沿岸警備や我々第十師団の海上監視網に巨大な死角が生まれます。……信長公、直ちに弥富ゲートおよび豊橋ゲートの通行許可を保留し、両県に対して強い外交的圧力をかけるべきではありませんか。通信の電波妨害を行い、この密談を物理的に阻止することも技術的には可能です」
「うむ!」
信長は黒革のマントを乱暴に翻し、玉座を蹴立てて叫んだ。
「トウドウ、直ちに自衛隊の通信妨害班を動かせ! 弥富と豊橋の関所を閉ざし、静岡と三重の特使を即座に拘束せよ! この信長の頭越しに勝手な密約を結ぶなど、断じて許さん! 中部の主が誰であるか、思い知らせてくれるわ!」
覇王の号令。
恐怖と力によって秩序を保とうとする、信長の古き本能が剥き出しになった瞬間だった。
藤堂が「はっ」と踵を返しかけた――その時。
「――お止まりなさい、藤堂さんッ!」
凛とした、しかし張り裂けんばかりの絶叫が講堂を貫いた。
信長と藤堂の間へ、弾かれたように飛び込んできたのは、橙色の防災服をまとった水野志保だった。
志保は両腕を広げ、信長の猛烈な眼光を真正面から遮るように立ちはだかった。
「志保! 貴様、何の真似だ!」
信長の怒声が轟く。常人なら竦み上がるほどの覇気の前に、志保の華奢な肩が微かに震えたが、その瞳は一歩も退くことなく信長を見据えていた。
「退きません! 信長公、目を覚ましてください! 関所を閉ざして通信を妨害するなんて、正気の沙汰じゃありません!」
「正気ではないだと!? 裏切りを働いたのは奴らの方だ! 我が尾張を蔑ろにし、信長抜きで密約を結ぶなど、我が織田家への公然たる反逆ではないか!」
「反逆? 誰に対する反逆ですか!?」
志保が涙声で叫び返した。
「静岡県も三重県も、愛知県の家臣でもなければ、信長公の部下でもありません! 最初から独立した、対等の主権国家なんです! 主権国家同士が、互いの民の命を救うために物資の融通を話し合って、一体何の罪があるというのですか!」
「な……」
「信長公! あなたは先ほど、日高特使の前で何と仰いましたか!?」
志保は信長に一歩詰め寄り、胸元の名札を強く握りしめた。
「『わしはもう、騙し討ちで国を奪うような天下布武はせぬ。対等の盟約を結び、互いの弱点を補い合って民を生かす道を選ぶ』――そう誓ったばかりではありませんか! それなのに、他県同士が自分を通さずに仲良くしたというだけで、関所を閉ざして通信を妨害するのですか!? そんな狭量な嫉妬で兵を動かすなんて、ただの恥晒しです!」
「嫉妬だと……!? 無礼者ッ!」
信長の手が、反射的に腰の太刀の柄にかかった。
藤堂が息を呑み、澪が悲鳴を上げかける。
だが、志保は刃を向けられても、身じろぎ一つしなかった。頬に涙を伝わせながら、必死の形相で信長の魂に訴えかけた。
「信長公……考えてみてください。なぜ家康公と具教公が、海を繋ごうとしたのかを!」
「……何?」
「愛知県の道路は今、どうなっていますか? 岐阜への救援トラック、県内の救急車、豊田の再生部品の配送で、すでに主要幹線道路はパンク寸前です! そこに三重の化学タンクローリーや、静岡のトラックまで何千台と押し寄せたら、愛知の道は完全に麻痺してしまいます! 四日市から静岡へ直接船で油を運んでくれれば、愛知の道路の混雑は緩和され、交通事故や燃料の浪費を防ぐことができるんです! 民の生活にとっては、これ以上ないほど合理的でありがたい工夫なんですよ!」
「…………」
信長の指が、柄の上でピクリと止まった。
「家康公も、具教公も、信長公を滅ぼすために密談をしているのではありません」
志保の声が、熱い説得力を帯びて信長の胸に沁み込んでいく。
「自国の民を生かすために、必死で知恵を絞っているんです。愛知に頼り切るのではなく、自前の海を使って補給線を二重化しようとしている……生き残るための当然の努力です。もし信長公が『自分を通さない取引は一切認めない』と他県を縛り付けたらどうなりますか? 他県の人たちは愛知をどう見ると思いますか?」
志保は息を吸い、静かに、しかし決定的な言葉を信長に突きつけた。
「『織田信長は、やっぱり昔のままの恐ろしい独裁者だ。愛知に生殺与奪の権を握られたら、いつ首を絞められるか分からない』――そう怯え、絶望するはずです。同盟相手同士の自由な協調すら許さないような連合など、恐怖と疑心暗鬼で一日と長続きしません! 信長公、あなたは【盟主】になりたいのですか? それとも、すべてを監視し、支配しなければ気の済まない【独裁者】になりたいのですか!?」
盟主と、独裁者。
その言葉が、信長の脳髄を雷のように撃ち抜いた。
講堂を、長い、重い沈黙が支配した。
信長は刀の柄からゆっくりと手を離した。
己の手のひらを見つめる。
かつて戦国乱世において、信長は常に「独裁者」であった。
家臣の私信を禁じ、勝手な縁組を禁じ、同盟者の動向を監視し、少しでも疑わしい動きがあれば即座に粛清した。浅井長政が朝倉と結べば裏切りと断じ、荒木村重が勝手に毛利と通じれば一族を皆殺しにした。すべてを己の意のままに動かさねば気が済まなかった。
その結果、何が起きたか。
家臣たちは信長を恐れ、本音を隠し、疑心暗鬼の闇に囚われ――最後には本能寺の業火となって信長自身を焼き尽くしたのではなかったか。
(……わしは、また同じ道を歩もうとしていたのか)
冷や汗が、信長の背筋をツーと流れ落ちた。
令和の世になり、四十七か国が立ち並ぶ広大な盤面を前にして、自分は何を驕っていたのか。
愛知が七百四十万の大国であり、日ノ本一の工業力を持っているからといって、他県が己の許可なく動くことを禁じる権利がどこにあるというのか。
他県同士が知恵を出し合い、独自に補給線を繋ぐこと。
それは愛知を脅かす敵対行動ではない。中部の民全体が生き残るための、逞しい自律の現れではないか。
盟主とは、すべての頂点に君臨して手足を縛る者のことではない。
諸侯が自由に手を結び、互いに繁栄することを許容し、その広大な輪の中心でどっしりと構えて大局を支え続ける者――それこそが、真の「盟主」の器ではないのか。
「……ふっ」
静寂の中、信長が短く息を吐いた。
「……はは」
藤堂と澪が身構える。
信長は肩を揺らし、やがて上洛殿の格天井を見上げて苦笑した。
「……あっはははは! 参ったな。まことに、手痛いところを突いてくれるわ」
信長は笑いを収めると、志保を見据え、その口元に穏やかな、しかし芯の通った笑みを浮かべた。
「志保」
「……はい、殿」
「礼を言うぞ。危うく、また本能寺の灰へ逆戻りするところであったわ」
「えっ……」
志保が呆気にとられたように目を見張った。
信長は腕を組み、堂々と胸を張った。
「トウドウ! 通信妨害の命令は取り消しだ! 弥富も豊橋も、関所はそのまま開けておけ!」
「はっ……! 了解いたしました!」
藤堂が安堵の表情を浮かべて敬礼を返す。
「澪」
「は、はい」
「伊勢湾の船便、大いに結構ではないか。四日市と駿河が直接繋がれば、愛知の道路の荷が減るのだ。空いた道路を使って、我が国は豊田の部品をより速く、より多く岐阜や東国へ届ければよかろう。……他県同士が仲良くすることを妬むような狭い器で、天下が治まるものか!」
「信長様……!」
澪が胸を打たれたように眼鏡の奥を輝かせた。
信長の成長。
かつての傲慢な戦国大名の殻を脱ぎ捨て、他者の自立と繁栄を肯定する、真の統治者としての器がここに示されたのだ。
信長は満足そうに顎を引いた。
「よし。家康と具教には、後で『勝手に海を繋いでくれたおかげで、愛知の道が空いて助かったぞ』とでも皮肉たっぷりの礼状を送ってやれ。二匹の狐の度肝を抜いてやるわ!」
豪快な笑い声が講堂を満たし、重苦しかった空気は完全に吹き飛んだ。
――しかし。
信長が天下人の度量を示し、外の波風を収めたのも束の間。
バタバタバタッ!
講堂の外の廊下から、激しい足音と、怒号のようなざわめきが押し寄せてきた。
「県庁の警備は何をしているんだ!」「信長公にお目通りを願いたい!」「通せ! 愛知の産業が殺されるんだぞ!」
講堂の扉が勢いよく押し開けられた。
駆け込んできた愛知県警の警察官たちを押し退けるようにして入ってきたのは――作業着やスーツを着た、十数人の男たちだった。
胸には、日本を代表する自動車メーカー、特殊鋼メーカー、工作機械メーカーの社章が光っている。愛知県の経済を支える、重工業・自動車サプライチェーンの最高幹部たちであった。
「何事だ!」
藤堂が一歩前に出て制止しようとしたが、最前列にいた老齢の産業界代表――愛知県経済連合会の重鎮が、信長に向かって悲痛な叫びを上げた。
「信長公! お聞き届けいただきたい儀がございます! 先ほど知事官房から通達のあった、静岡県との【相互保守ループ】および燃料割当の協定案についてです!」
信長は眉をひそめた。
「我が決断に、何か不服でもあるのか」
「不服どころの話ではございません!」
代表の男は机に両手をつき、額に青筋を立てて訴えかけた。
「静岡県への月間一万二千キロリットルの燃料割当、そして豊田の再生工場を使った静岡の軽トラック・農業機械の無償修理……こんな条件、断じて受け入れることはできません! 家康の要求を即座に破棄してください!」
「何だと……!?」
信長が息を呑む中、別の部品メーカー社長が怒りに震える声で叫んだ。
「ただでさえ愛知の現場は、資材不足と電力制限でギリギリの操業を続けているんです! 現場の職人たちは徹夜続きで倒れかけている! それなのに、なぜ愛知の貴重な燃料と職人の腕を、他県のために都合よく差し出さねばならないのですか!? これ以上、他県に施しを続けるなら――愛知の工場は、明日にも総反乱を起こしますぞ!」
講堂を襲った、内なる産業界からの猛烈な突き上げ。
外の同盟を整えた信長の前に、今度は足元の「愛知の現実」が牙を剥いて立ちはだかろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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