EP 3
三重県、織田家に物申す
「四日市の供給を全面凍結する……だと!?」
愛知県庁正庁講堂に、信長の怒号が雷鳴のように響き渡った。
徳川家康との東海道大動脈を巡る交渉が妥結しかけた、まさにその瞬間だった。西の県境――弥富ゲートを通じて飛び込んできたのは、三重県知事・北畠具教からの最後通告にも等しい緊急声明であった。
「具教め……! 先日、我が尾張に頭を下げて協力を乞うてきたばかりではないか! それが手のひらを返し、愛知を締め上げにかかるなど、何の真似だ!」
信長が拳を握りしめ、腰の刀の鍔を親指で弾きかける。
だが、その荒ぶる覇気を遮るように、井川澪が血相を変えて割って入った。
「刀を抜いてどうにかなる相手ではありません、信長様! 四日市の石油化学コンビナートを舐めないでください!」
「澪! 貴様までわしを止める気か!」
「止めます! 四日市が本気でバルブを閉ざしたら、愛知どころか中部全域が即死するからです!」
澪は乱暴に眼鏡を直すと、震える指先でタブレットを操作し、講堂の大型スクリーンに四日市臨海部の空撮映像と配管系統図を映し出した。巨大な銀色の蒸留塔、幾重にも絡み合うパイプライン、天を衝くフレアスタックが、まるで巨大な鋼鉄の怪獣のように海沿いに横たわっている。
「四日市コンビナートの中核にあるのは、ナフサを熱分解して『エチレン』や『プロピレン』を取り出す巨大な誘導プラントです」
澪の声は、切迫のあまりかすれていた。
「信長様、現代の製造業において、プラスチックや合成ゴム、化学繊維、接着剤、塗料、断熱材……これらすべては、エチレンという基礎素材から生まれるのです。自動車のタイヤ一本、ワイヤーハーネスの絶縁被覆一つ、フロントガラスの中間膜一つすら、四日市の化学プラントが動かなければ作れません!」
「な……」
「さらに、亀山や四日市にある半導体メモリおよび電子部品の製造ラインです。自衛隊のレーダー、通信機、病院の医療機器、救急車の電子制御ユニット……これらを動かす基板の樹脂やシリコンウェハー用の特殊薬品は、三重県がその大半を一手に握っているのです。四日市が供給を止めれば、豊田の再生工場は数日で樹脂素材が尽き、岐阜の各務原は航空機用の耐熱接着剤を失い、静岡の軽トラックはタイヤの交換すらできなくなります!」
「…………っ!」
信長は息を呑んだ。
鉄を叩き、機械を削るだけでは、車輪一つ、翼一つ動かせない。その骨肉を繋ぎ合わせ、命を吹き込んでいるのは、三重県が誇る「化学の血」だったのだ。
「しかも」
今度は内政補佐官の水野志保が、蒼白な顔で言葉を継いだ。
「四日市のエチレンプラントは、一度火を落として操業を全面停止させてしまうと、設備の安全点検や温度管理のやり直しで、再稼働までに数週間から数ヶ月の時間がかかります! もし意地を張って具教公を追い詰め、プラントの停止ボタンを押されたら……後から和解しても、手遅れになるんです!」
「く……」
信長の奥歯がギリと鳴った。
武力で脅すことすら許されない。攻め込めば、相手は自らの手でプラントを止め、愛知諸共自爆する道を選ぶだろう。
「……トウドウ。弥富ゲートの様子はどうだ」
信長が低く問うと、軍事補佐官の藤堂直人が硬い表情で答えた。
「三重県側の特使車両が、すでに弥富検問所を通過し、名古屋へ向かっております。……以前の使節団とは格が違います。北畠具教公の懐刀、三重県庁の副知事級幹部が直々に乗り込んでまいります」
「……迎えよ」
信長は深く息を吐き、玉座へと座り直した。
「無礼な真似は一切するな。礼を尽くし、我が尾張の最上の広間へ通せ」
名古屋城本丸御殿・上洛殿。
金箔の壁に囲まれた豪奢な広間に通されたのは、三重県知事特命全権副使・日高であった。
かつて第1章で信長に頭を下げ、医療物資の融通を乞うた時の日高とは、その纏う空気がまるで違っていた。黒い三つ揃えのスーツを着こなし、背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、その瞳には一歩も退かぬ強固な決意と、研ぎ澄まされた警戒心が宿っていた。
日高の背後には、四日市石油化学コンビナートの保安統括責任者と、半導体関連企業の役員が腕を組んで控えている。
「……伊勢の特使、日高殿。遠路はるばる大儀である」
上座から信長が声をかけた。
信長はあえて威圧的な態度を崩し、穏やかな笑みを浮かべて見せた。膳の上には、美濃から届いたばかりの上等な茶と、尾張の銘菓が整然と並べられている。
「先触れなく乗り込んできたと聞き、驚いたぞ。まずは茶でもすすり、息を整えられよ」
天下人たる信長が、自ら下座の使節を歓待してみせる。かつての戦国乱世であれば、これ以上の厚遇はなかった。
しかし――。
日高は茶碗に指一本触れようとはしなかった。
「……お心遣い、痛み入ります。しかし信長公、茶を呑んで馴れ合うために罷り越したのではございません」
冷え切った、鋼のような声だった。
日高は膝の上に両拳を置き、信長を正面から見据えた。
「単刀直入に申し上げます。我が主・北畠具教公は、愛知・岐阜・静岡による『東海道三国同盟』の密約に対し、極めて強い憤りと危機感を抱いておられます」
「密約だと?」
信長が眉をひそめた。
「何を人聞きが悪いことを申すか。東海道の道を繋ぎ、車を走らせるための手打ちを進めておるだけだ。伊勢をないがしろにする気など毛頭ない。現に、貴国の化学素材を優先的に買い上げ、愛知の再生部品を回す算段をつけておったところだぞ」
「その【買い上げる】という発想そのものが、我が三重県に対する侮りであると申し上げておるのです!」
日高の声が鋭く跳ね上がった。
背後に控えるコンビナートの責任者が、机の上に一通の覚書を叩きつけるように置いた。
「愛知が自動車を作り、岐阜が航空機を飛ばし、静岡が東海道の関所を握る。……その巨大な枠組みの中で、三重県はただ言われた通りのエチレンと半導体を安値で供給し、残ったおこぼれの部品を恵んでもらうだけの『下請けの油売り』に甘んじろと仰るのか!」
「下請けなどと――」
「下請け以外の何物でもありませぬ!」
日高は信長の言葉を遮り、鋭い眼光を突き刺した。
「信長公。我が主・具教公は、歴史書を隅々まで読まれました」
広間の空気が、ピシリと凍りついた。
歴史書。
家康に続き、北畠具教もまた、己の死後の記憶を現代の資料から学習していたのだ。
「かつて戦国乱世において、貴公は我が北畠家を攻めあぐねた末、和睦と偽って次男の信雄公を養子として送り込みました。そして信長公、貴公はそのわずか数年後、三瀬の館において、我が主・具教公をはじめとする北畠一族を騙し討ちにし、ことごとく惨殺したではありませんか!」
「…………っ!」
信長の胸に、見えない刃が突き刺さった。
三瀬の変。
伊勢を手に入れるため、邪魔になった旧主・北畠一族を抹殺した、信長自身の過去の冷酷な謀略。その血塗られた歴史を、いま令和の伊勢国司が、まざまざと突きつけてきているのだ。
「具教公は仰せでした」
日高の声音に、激しい怨念と誇りが滲む。
「『信長は甘い言葉で近づき、都合よく相手の力を利用した挙句、最後には骨の髄まで奪い尽くして平然と切り捨てる男だ。あの男の口車に乗せられれば、三重県は四日市の富を吸い尽くされ、用済みになれば再び歴史の闇へと葬り去られる』……と!」
信長は拳を握りしめ、沈黙した。
反論できなかった。
過去の事実は曲げられない。どれほど信長が「今はそんな気はない」と叫んだところで、一度裏切られた側の恐怖と猜疑心は、言葉一つで拭い去れるものではないのだ。
「……日高殿」
重苦しい沈黙を破ったのは、井川澪だった。
澪は静かに進み出ると、手元の資料を日高の前に差し出した。
「具教公のご懸念はもっともです。しかし、信長様が今進めているのは、過去のような力による併合ではありません。愛知、岐阜、静岡が結ぼうとしているのは、互いの主権を完全に尊重した【対等の機能分散】です」
「対等……?」
日高が鼻で笑った。
「主権を尊重するというなら、なぜ最初から三重県をその輪に入れなかったのですか? 愛知と静岡の間で勝手に東海道の通行ルールを決め、後から三重県に『素材を寄こせ』と通告してくることの、どこが対等なのですか!」
痛烈な正論だった。
信長は、美濃との同盟をまとめ、次いで東の家康との交渉に夢中になるあまり、西の三重県に対する配慮を後回しにしていた。その傲慢な順序立てが、具教の古傷を刺激し、決定的な不信を招いたのだ。
「……悪かった」
信長の口から、絞り出すような声が落ちた。
「え……?」
日高が呆気にとられたように目を見開いた。
信長は座布団から腰を浮かし、両手を畳について、日高に向かって頭を下げた。
「殿……!」
志保が息を呑む。
信長は顔を上げず、低く、重い声で言葉を紡いだ。
「過去の我が所業、弁解の余地もない。信雄を送り込み、北畠一族を屠った我が非情を、具教殿が今なお憎んでおられるのは当然だ。……そして、この令和の世において、東海道の道を開くことに目を奪われ、伊勢の誇りを軽んじたことも、すべてこの信長の浅慮よ。心底より詫びる」
「信長公……」
日高の表情に、明らかな動揺が走った。
あの傲岸不遜な覇王が、過去の罪を認め、頭を下げている。
信長はゆっくりと頭を上げ、真摯な眼差しで日高を見据えた。
「だが、日高殿。これだけは信じてほしい」
信長は胸元を力強く叩いた。
「わしはもう、騙し討ちで国を奪うような天下布武はせぬ! 美濃の道三殿とも、静岡の家康とも、対等の盟約を結び、互いの弱点を補い合って民を生かす道を選んだのだ! 三重の民を使い潰す気など毛頭ない! 具教殿の求める条件があるならば、すべて聞こう。この信長に、三重県は何を求めるのだ!」
信長の剥き出しの誠意。
日高はしばし息を呑み、やがて着物の襟を正して、懐から一通の要求書を取り出した。
「……具教公より預かりし、三重県の【三箇条の通商要求】でございます」
日高が読み上げる。
「一、三重県における行政、警察、港湾、およびコンビナート施設の完全なる自治権の不可侵。
二、四日市石油化学コンビナートが生産するエチレン、プロピレン等の基礎素材、ならびに半導体部材の【供給先選定権および価格決定権】を、三重県単独で保持すること。
三、東海道三国同盟と同等の地位を有する【中部広域通商協議会】を創設し、三重県に対し、愛知・岐阜・静岡と完全に同等の拒否権付き常任理事権を認めること」
講堂に静寂が落ちた。
第一条、自治の不可侵。
第二条、素材の価格・供給先の決定権。
第三条、対等な拒否権の付与。
それは、愛知の工業力に対し、三重県が「生殺与奪のバルブ」を握り続けることを法的に保障せよという、極めて強固な自衛要求であった。
愛知にとって、素材の価格を握られ、拒否権を持たれることは大きな制約となる。
しかし――。
「……呑もう」
信長は迷うことなく、即座に頷いた。
「殿!?」
藤堂が驚きの声を上げるが、信長は手を振って制した。
「素材を生み出す者が、その価値を自ら決めるのは当然の理だ。拒否権も持たぬ同盟など、ただの従属よ。具教殿の三箇条、我が織田家はすべて受け入れる。……直ちに、三重県との【正式通商協定】の策定に入局せよ!」
「はっ……!」
日高の瞳に、深い感服の光が宿った。
「信長公の英断、具教公へ必ずやお伝えいたします。……四日市の供給停止措置は、直ちに解除させましょう」
日高が深々と平伏した。
最悪の破滅は回避された。
愛知の車輪、岐阜の翼、静岡の道、そして三重の化学。
中部の四国が、互いの主権を認め合いながら手を取り合う、壮大な経済圏への道が開かれたのだ。
「ふう……」
日高たちが協定の細部を詰めるため別室へ移った後、信長は安堵の息を吐いて玉座に背を預けた。
「骨が折れたぞ。……だがこれで、西の火種も消えたな。あとは静岡の家康と調印を交わし、この信長を中心とする中部の陣容を――」
信長が満足そうに口元を緩めた、まさにその時だった。
ピピッ、ピピッ、ピピピピピ――!
藤堂直人の公用暗号端末が、けたたましいアラート音を鳴り響かせた。
藤堂が画面を一瞥した瞬間、その端正な顔立ちが凍りついた。
「……な、何だと!?」
「どうした、トウドウ」
信長が怪訝そうに眉を寄せると、藤堂は震える手で端末を握りしめ、信じられないものを見るように信長を仰ぎ見た。
「信長公……! 静岡県境および伊勢湾岸の通信回線を監視していた電波情報隊より、緊急傍受の一報です!」
「情報隊? どこの通信だ」
「静岡県知事・徳川家康公と……三重県知事・北畠具教公の、直接ホットラインです!」
「何……!?」
信長が立ち上がった。
藤堂は唾を飲み込み、傍受記録のログを読み上げた。
「家康公と具教公の間で……信長公を通さず、静岡と三重による【東海・伊勢湾バイパス通商協定】の極秘協議が、たった今、開始されました!」
「な、何だって……!?」
澪が息を呑み、志保が絶句した。
藤堂の声が、広間に残酷に響き渡る。
「静岡の港湾・海上輸送力と、四日市の石油化学コンビナートを直接結び……『愛知県を介さずに、物資と燃料を融通する独自の海上ルート』の開設について、両者が基本合意に達した模様です!」
「…………っ!」
信長の頭を、巨大な杭が打ち抜いた。
信長抜きの密談。
愛知を中心に回るはずだった中部の盤面。
その信長を頭越しにして、東の狸と、西の剣豪が――裏でがっちりと手を握り合っていたのだ。
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