EP 2
東海道の物流を止めるな
「……二割の現物供出、だと」
信長の喉の奥から絞り出された低い呟きが、愛知県庁正庁講堂の冷え切った空気を震わせた。
玉座の前で仁王立ちする信長の眼光は、獲物を引き裂かんとする猛禽のように鋭く、床に平伏する静岡県特使・本多の頭頂部を睨みつけていた。
本多が持参した協定草案。そこに並ぶ冷酷な数字を睨みながら、信長は怒りを押し殺すように拳を握りしめた。
「月間四万キロリットルの燃料を寄こせと言い、東名・新東名を通る荷の二割を関所で掠め取ると申すか。竹千代め……昔はあのように大人しく、こちらの顔色ばかり窺っておった男が、いつからこれほど図々しい追い剥ぎの真似を覚えたのだ」
「追い剥ぎではございませぬと、先ほども申し上げました」
本多は頭を下げたまま、微動だにせず答えた。
「静岡県内を貫く東名・新東名高速道路は、山岳部を貫く長大トンネル群と、幾重もの高架橋によって維持されております。中央政府が消滅した今、それらの点検・補修・清掃、さらには夜間照明の電力や、事故車両の牽引、路面補修用のアスファルトや重機の燃料に至るまで、すべて静岡県単独の資材と人員で賄わねばならぬのです。……信長公。愛知の巨大なトラック車列が、他国の道を無償で踏み荒らし、舗装を傷めながら東へ抜けていくのを、我が静岡県民の我慢だけで見過ごせと仰るのですか?」
「ぐ……」
信長は言葉に詰まった。
かつての戦国乱世であれば、「街道など人が通れば道になるわ」と一蹴できたであろう。だが、この令和の高速道路というものは、ただの土の道ではない。精緻なコンクリートと鉄骨、電気と排水設備によって支えられた、巨大な人工の回廊なのだ。補修を怠ればトンネルは崩落し、路面は陥没し、矢よりも速く走る鉄の輿は一瞬で全滅する。
「――藤堂さん、澪。この数字、どう見る」
信長は苛立ちを飲み込み、背後に控える二人の補佐官を振り返った。
軍事補佐官の藤堂直人が、バインダーの地図を見つめながら沈痛な面持ちで口を開いた。
「軍事・治安の観点から申し上げますと、本多特使の主張には一定の理があります。静岡県警および陸上自衛隊部隊は、東西百五十キロに及ぶ長大な高速道路の全域にパトロールを配置し、県境ゲートの厳重な警戒を行っております。他県からの不法侵入や略奪を防ぐための燃料消費は膨大であり、道路の安全を維持するだけでも莫大な経費がかかっているのは事実です」
「だがな、トウドウ!」
今度は産業政策補佐官の井川澪が、青ざめた顔で鋭く割り込んできた。タブレットの画面を信長と本多の間に叩きつけるように示す。
「理屈はどうあれ、この要求をそのまま呑むことなど絶対に不可能です! 信長様、計算をご覧ください!」
澪の細い指先が、赤く点滅するシミュレーション画面を弾いた。
「まず、燃料です。四万キロリットルという数量は、愛知県が保有する石油コンビナートの月間精製能力の『三割五分』に匹敵します。これを無条件で静岡に差し出せば、愛知県内の火力発電所の一部を緊急停止させざるを得ず、名古屋市内の計画停電は免れません!」
「停電だと……?」
「はい! そして何より、通過物資の二割供出です!」
澪の声が怒りで震えていた。
「愛知から東へ向かうトラックには、豊田の再生工場で削り出した貴重な修理部品や、医療器材、復旧資材が満載される予定です。その二割を関所で差し押さえられたら、長距離輸送の採算は完全に崩壊します! 部品を届ける側の工場も、受け取る側の東国の諸都市も、物流コストに押し潰されて死んでしまいます! こんな条件、通商協定どころか、ただの経済的絞殺です!」
澪の激しい論駁を受け、本多は静かに目を伏せた。
否定はしない。愛知にとってこの条件が死刑宣告に近いものであることは、要求を出した家康自身も百も承知のはずだった。
「……本多」
信長は腕を組み、顎を引いて特使を見据えた。
「竹千代は、わしを試しておるのだな」
「……と、仰いますと?」
「呑めぬと分かっている過酷な条件を突きつけ、わしが怒り狂って兵を繰り出すか、それとも困り果てて無条件で泣きつくか、どちらに転ぶか高みの見物を決め込んでおるのだ。美濃の道三殿と同じ手口よ。……だがな、本多。あのマムシとの交渉を経て、この信長も少しは令和の商売の仕方を学んだぞ」
信長は不敵に笑い、玉座の肘掛けをトンと叩いた。
「澪。貴様の冷徹な眼で、静岡の帳簿を暴け。……竹千代の国に、何一つ困りごとがないはずがなかろう」
「……っ!」
澪がハッとして眼鏡の位置を直した。
「仰る通りです、信長様。相手が吹っかけてくるということは、それだけ相手にも『隠したい弱点』があるということです」
澪は手元の端末を猛烈な速度で操作し、画面を愛知のデータから「静岡県の産業需給推計」へと切り替えた。
浜松、磐田、袋井、湖西――静岡県西部に広がる、無数の自動車・二輪車工場群のデータが次々と展開されていく。
「見つけました……!」
澪の切れ長の瞳に、確信に満ちた冷徹な光が宿った。
「本多特使。徳川家康公は、静岡県内の全車両を『燃費の良い軽トラックと小型二輪車』に統一し、自前で農業と物流を回していると豪語されましたね」
「……いかにも。それが我が静岡の誇る質実剛健の道にございます」
「ええ、見事な方針です。……ですが、その軽トラックの『心臓部』は、静岡県単独で修理できるのですか?」
本多の眉が、ピクリと跳ねた。
澪は容赦なく言葉を重ねた。
「スズキやヤマハの工場があるとはいえ、軽自動車の電子制御インジェクター、ABSモジュール、そしてエンジンのシリンダーブロックを削り直すための『超精密工作機械の特殊治具』――これらはすべて、愛知県のデンソーやアイシン、そして工作機械メーカーが供給していたものです! さらに、ピストンやクランクシャフトに必要な高強度特殊鋼の熱処理技術、そして岐阜県各務原市が独占している『五軸放電加工による金型修正能力』がなければ、静岡の軽トラも半年後には部品の摩耗で次々と動かなくなります!」
「…………」
本多の顔から、完全に余裕が消え失せた。
「さらに、沿岸部の漁船やビニールハウスの温風暖房機です!」
今度は内政補佐官の水野志保が進み出て、胸元の資料を広げた。
「静岡県は温暖で農業が盛んですが、冬場のイチゴやトマト、近郊野菜の栽培には莫大なハウス暖房用重油が必要です。遠州灘に出る漁船のディーゼルエンジン用フィルターも、そろそろ交換時期を迎えているはずです! それらの消耗品は、すべて四日市の石油化学コンビナートや、名古屋港の資材倉庫から運ばれていたものではありませんか!」
志保の指摘は、まさに急所を抉り抜いていた。
静岡は自給自足の体制を固めつつあるように見えて、その足元は愛知・岐阜・三重が形成する「中部の重工業・化学複合圏」と深く結びついていたのだ。
東海道を閉ざせば、愛知は東国へ行けない。
だが同時に――静岡自身もまた、手持ちの軽トラックと農業機械を整備できなくなり、遠からず緩やかな産業死へと向かう運命にあった。
「……はは」
信長は立ち上がり、黒革のマントを風もないのに翻して、本多の鼻先数歩のところまで大股で歩み寄った。
「聞いたか、本多。貴様らの主君が求めておる四万キロリットルの油も、二割の物資も、要するに『愛知の工業力に頼らねば自国の機械が壊れる』という恐怖の裏返しではないか」
「信長公……」
「竹千代に伝えよ!」
信長は右手を突き出し、堂々たる覇気で講堂を圧した。
「二割の物資を掠め取るような山賊の通行税など、銭一文たりとも払わん! 四万キロリットルの燃料の無条件供出も断固として拒絶する! ……だが!」
信長は獰猛な笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「静岡が東海道の高速道路を維持するために流す汗を、ただ乗りする気も毛頭ないぞ!」
「……と、仰いますと?」
本多が恐る恐る顔を上げた。
「代案だ。澪、帳簿を突きつけてやれ!」
「はい!」
澪が一歩進み出て、手元のタブレットから新しい協定草案を本多の目の前に提示した。
「愛知県および岐阜県は、静岡県境の検問所を通過する貨物に対し、物資の供出ではなく――『道路維持管理費に充当する代替補修部品および特殊鋼材の現物割当』を提案します」
「代替部品の割当……?」
「ええ。静岡県内の軽トラック、農業用トラクター、および路面維持重機の延命に必要な重要部品を、豊田の再生工場および各務原の精密加工枠から優先的に供給します。故障した部品を愛知へ持ち込めば、新品同様に再生して静岡へ送り返す『相互保守ループ』を構築するのです」
さらに澪は、燃料の項目を指差した。
「そして燃料については、無条件の四万キロリットルではなく、静岡県内の農業・漁業・高速道路警備用として『月間一万二千キロリットル』を上限に優先供給枠を設定します。その対価として、静岡県は東名・新東名を通行する愛知・岐阜の事前登録車両に対し、通行の完全な安全確保と、優先給油権を保障してください」
「相互保守ループ……それに、一万二千キロリットルの優先割当……」
本多の喉仏が、ごくりと動いた。
法外な通行税を取るよりも、自国の生命線である軽トラやトラクターが壊れない保証を得る方が、静岡県民にとって遥かに切実で、持続可能な利益であった。
奪い合いではなく、互いの急所を補い合う『対等の取引』。
かつて信長が美濃の斎藤道三と結び、木曽川の血の海を回避したあの知恵が、いま再び東海道の関所をこじ開けようとしていた。
「……信長公」
本多は深々と頭を畳に擦りつけた。
「主君の器量と、補佐官の皆様の慧眼、心底より恐れ入りました。……これ以上の条件闘争は、もはや我が静岡の恥を晒すのみにございます。直ちに、家康公へ通信をお繋ぎいたします」
本多が懐から取り出した暗号通信端末を操作し、講堂の大型スピーカーへと回線を接続した。
数秒の電子音の後、スピーカーの向こうから、重厚で、どこか懐かしさを帯びた温和な声が響き渡った。
『――もしもし。聞こえますかな、信長公』
徳川家康。
三河で苦楽を共にし、戦国乱世を生き抜いた盟友の声だった。
「……竹千代か」
信長は腕を組み、スピーカーを見据えて口元を緩めた。
「狸め。相変わらず手の込んだ真似をしおる。法外な通行税を吹っかけて、こちらの出方を窺っておったな」
『ふふふ……申し訳ございませぬ』
通信の向こうで、家康が低く笑った。
『本多から送られてきた修正案、拝見いたしました。……見事なものですな、信長公。昔の貴公であれば、怒りに任せて装甲車を浜名湖へ突撃させ、補給が切れて野垂れ死んでいたところですぞ』
「ほざけ。わしは負け戦をするために蘇ったのではない。……して、我が代案、呑むか呑まぬか」
『呑まぬ理由がございません』
家康の声から、ふっと戯れが消えた。
怜悧で、確固たる信念を宿した天下人の響きが満ちる。
『静岡の民を生かし、愛知の車輪を東へ通す。互いに頭を下げず、互いに従属せず、冷徹な利益によって結ばれる道……これこそが、私が求めていた真の【制度】にございます。……信長公、東海道の門を開きましょう。愛知のトラックを、駿河の地へと歓迎いたします』
講堂に、歓喜の息吹が広がった。
志保が胸を撫で下ろし、藤堂が満足そうに頷く。
東名と新東名。日本列島の大動脈が、愛知と静岡の間で再び繋がろうとしていた。
「よし!」
信長が大きく頷き、万年筆を手に取ろうとした――その瞬間であった。
バタンッ!
講堂の分厚い扉が、悲鳴のような音を立てて開け放たれた。
飛び込んできたのは、愛知県庁の外交連絡室の職員だった。
「申し上げます! 西の県境――伊勢湾岸道・弥富ゲートに展開する愛知県警および自衛隊警備本部より、緊急入電!」
藤堂が鋭く振り返る。
「弥富ゲートだと!? 三重県との境で何があった!」
「三重県知事・北畠具教公より、愛知県知事官房宛てに――緊急の『抗議声明』が電子送達されました!」
「抗議声明……? 北畠殿が?」
信長が眉をひそめた。
職員が震える手で読み上げた電文の内容に、講堂の空気は一瞬で氷点下へと凍りついた。
『――愛知・岐阜・静岡の三県が、東海道の物流と工業資源を独占せんとする企図、断じて看過し得ず。
我が三重県が誇る四日市石油化学コンビナートの基礎素材、および半導体関連部材の対外供給を、本日正午をもって【全面凍結】する。
信長公。貴国が伊勢の誇りを軽んじ、東海道の輪から我が国を疎外するならば――貴国の自動車も、美濃の航空機も、静岡の軽トラックも、我が化学の鎖によってすべて息の根を止めてくれよう!』
「なっ……!?」
澪が息を呑み、志保が顔面を蒼白にした。
東の門が開いたまさにその瞬間に、背後の西――化学の心臓部である三重県が、猛烈な牙を剥いて立ち塞がったのだ。
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