第二章『徳川家康、信長に臣従せず』
徳川家康は、もう家臣にはならない
愛知県庁の正庁講堂に、冬の気配を孕んだ冷たい風が吹き込んでいた。
二〇二六年秋の「戦国再臨」から数ヶ月。年が改まり二〇二七年を迎えた愛知県は、岐阜の斎藤道三との「濃尾相互防衛・産業保全協定」の締結によって、最悪の自壊の危機を脱していた。木曽川を渡る物資の往来は日を追うごとに整流化され、豊田の再生工場からは修理を終えた緊急車両が次々と現場へと復帰していた。
だが、北の憂いが晴れた信長の前に、今度は東から巨大な壁が立ち塞がっていた。
「……して、これが竹千代の統べる静岡の現状か」
講堂の上段に座る信長は、黒革のマントの襟元を引き締め、大スクリーンを睨み据えた。
画面には、駿河湾を取り囲むように東西に細長く伸びる静岡県の産業地図が映し出されていた。
「はい」
産業政策補佐官の井川澪が、手元のタブレットを叩きながら怜悧な声で説明を進める。
「徳川家康公が掌握した静岡県は、我々が予想していた以上に極めて堅実、かつ独自の産業再編を成し遂げています。静岡県西部――浜松や磐田には、スズキやヤマハ発動機、ホンダの主要工場など、世界に名だたる二輪車・軽自動車・汎用エンジンの開発製造拠点が密集しています」
「軽自動車に、二輪車か」
「ええ。愛知が誇る普通乗用車や大型トラックと違い、静岡が得意とするのは『小型・軽量・低燃費』の機動力です。家康公は就任直後から、他県からの輸入部品に依存する大型車の生産を即座に凍結。既存の在庫をすべて、燃費が良く整備性に優れた軽トラックや、小型発電機、耕運機用の汎用エンジンの製造・改修に集中させました」
澪の指先が画面をなぞり、静岡県中央部の牧之原台地や富士山麓を指し示す。
「さらに、静岡には広大な茶園や果樹園、沿岸部の漁港、そして温暖な気候を活かした近郊農業があります。家康公は自衛隊や警察の車両を小型二輪と軽トラで統一することで燃料消費を極限まで圧縮し、浮いた重油をすべてビニールハウスの暖房や農業用水のポンプへと回しました。結果として、静岡県は海外資源が途絶した状況下でありながら、領民三百六十万の最低限の食料自給体制を、愛知より遥かに早い速度で確立しつつあります」
「……相変わらず、石橋を叩いて渡るような真似をしおるわ」
信長は苦笑いを漏らしながらも、目を細めた。
かつて三河を領し、武田信玄の猛攻に晒されながらも領地を守り抜いた男だ。派手な軍事力よりも、まず足元の米と民草の生活を固める――その慎重居士ぶりは、令和の世に蘇っても少しも変わっていなかった。
「トウドウ、防衛面はどうだ」
信長が視線を転じると、軍事補佐官の藤堂直人が一歩進み出た。
「静岡県内には、陸上自衛隊の富士駐屯地や滝ヶ原駐屯地、板妻駐屯地など、普通科連隊や特科部隊が多数所在しております。さらに航空自衛隊浜松基地には早期警戒管制機(AWACS)や警戒航空団が配備されており、防空監視能力においては日本屈指です。……しかし何より厄介なのは、その地理的要衝です」
藤堂の表情が険しくなる。
「静岡県は東西に百五十キロ以上にわたって延びており、本州の中央部を完全に分断しています。東名高速、新東名高速、国道一号、そして東海道新幹線やJR東海道本線――西日本と東日本を結ぶ大動脈のすべてが、静岡県の細長い領内を通過しなければどこへも行けません」
「つまり、静岡が門を閉ざせば、愛知は東国との道を完全に断たれるということだな」
「その通りです。関東の北条氏康公や東京の太田道灌公、さらには東北の伊達政宗公と通商を結ぼうにも、静岡県を越えられなければ物理的に不可能です」
「ふん」
信長は鼻を鳴らし、玉座の肘掛けを叩いた。
「案ずることはない。相手はあの竹千代だぞ。幼少の頃には尾張で人質として過ごし、桶狭間の後には二十年以上にわたって清洲同盟を結び、わしの背後を守り続けた男だ。長篠の戦いでも、三方ヶ原でも、わしとあやつの絆が揺らいだことなど一度たりともなかった。……今すぐ特使を浜松へ走らせよ」
信長は立ち上がり、黒革のマントを翻して堂々と命じた。
「家康に伝えよ。『愛知と静岡による東海道共同防衛軍を結成する。軍の最高指揮権は信長が執る。静岡の道を開き、愛知の車輪と物資を関東へ通せ。さすれば、愛知の工業力をもって静岡の安全を永遠に保障してやる』とな!」
講堂に響き渡る、信長の力強い号令。
かつての戦国乱世、織田と徳川が結んだ強固な軍事同盟の再現。信長にしてみれば、長年の盟友に対する最大の信頼であり、最も自然な提案のつもりであった。
しかし――。
その信長の言葉を、背後から冷水を浴びせるように遮る声があった。
「――お断り申し上げます、信長公」
静かだが、鋼のように硬い声が講堂の入口から響いた。
信長が眉を跳ね上げて振り返ると、そこには静岡県知事公用車の先導で名古屋に到着したばかりの、徳川家康の特使が立っていた。
仕立てのよいダークスーツに身を包んだ初老の男。胸には静岡県章のバッジをつけ、背筋を寸分の狂いもなく伸ばしている。男は静岡県庁の危機管理部長にして、家康の側近を務める本多と名乗った。
「……何だと?」
信長の眼光が鋭く細められた。
「我が提案を、聞く前から断るというのか。竹千代の意向か」
「はい。家康公の厳命にございます」
本多は信長の放つ凄まじい威圧感の前に一歩も退かず、深々と一礼した後に顔を上げた。
「家康公より、信長公へ直接の伝言を預かってまいりました。『信長公。共同防衛軍の指揮権を愛知に差し出すことなど、断じてあり得ませぬ』……と」
「貴様……!」
信長の殺気が跳ね上がり、講堂の空気が一瞬で氷点下へと凍りついた。
「竹千代め、己の立場を忘れたか! かつての清洲同盟において、東海の軍配を握っていたのはこの信長であったはずだ! 尾張七百四十万の国力を誇る愛知が上に立ち、静岡がそれに従うのは至極当然の理ではないか!」
「それは『四百年前の歴史』にございます、信長公」
本多は冷徹に言い放った。
「戦国乱世において、徳川家が織田家に尽くしたことは史実でありましょう。信長公の無理難題に応え、姉川で血を流し、三方ヶ原で屍の山を築き、我が身を盾にして尾張を守り抜きました。……しかし、今の静岡県は織田家の領地でもなければ、信長公の防波堤でもありません」
本多は胸元から一通のタブレットを取り出し、画面を信長に向けて掲げた。
「現代の静岡県民三百六十万人は、徳川家康公を自らの主君として選抜し、その命運を託しているのです。愛知の軍靴を領内に招き入れ、他県の都合で指揮権を奪われれば、静岡の自衛隊や警察は愛知の盾として使い潰されるのではないか――県民はそう怯えております。家康公はこう仰せです。『私はもう、誰かの家臣にも、都合のよい防壁にもならない』と」
「…………っ!」
信長は息を呑んだ。
家臣にはならない。
その言葉の重みに、信長の喉が引き結ばれた。
目の前にいる特使の言葉の向こうに、駿府の城で静かに腕を組む徳川家康の姿が、まざまざと浮かび上がるようだった。
かつて信長の前で常に頭を下げ、従順に命令を聞き入れ、どれほど過酷な戦場にも文句一つ言わずに駆けつけたあの温厚な男。その男が、令和の世に蘇った今、自らの足で立ち、信長に対して真っ向から「拒絶」を突きつけているのだ。
「信長公。家康公は現代の歴史書を具に読まれました」
本多の声音が、低く静かな響きを帯びる。
「本能寺の変の後、秀吉公が天下を統一し、そして最終的に徳川家康公が関ヶ原を制して江戸幕府二百六十年の泰平の世を築いたこと――そのすべてを、家康公はすでに学習しておられます」
「何……!?」
信長は衝撃に打たれたように目を見開いた。
知っていたのか。
信長が志半ばで倒れた後、あの竹千代が天下を手に入れ、日本の歴史上最も長く続いた政権の祖となったという事実を、家康自身がすでに知っているというのか。
「家康公は仰せでした。『信長公の苛烈な才能と覇気には、今も心底から敬服している。しかし、一人の天才の軍事力と直感に依存した国家は、その者が斃れた瞬間に灰燼に帰す。私が求めるのは、過去の友情や情理にすがった同盟ではない。誰が死んでも、何百年経っても揺らぐことのない――冷徹で強固な【制度】である』と」
制度。
その言葉が、信長の胸を鋭く抉った。
美濃の斎藤道三からも突きつけられた言葉だった。
大名の気分や友情、武力による脅しで繋ぎ止めた同盟など、環境が変われば一日で瓦解する。互いの主権を認め、現場の数字を擦り合わせ、誰が指導者であっても機能し続ける「契約と仕組み」がなければ、現代の国家同士は一日たりとも手を取り合うことはできないのだ。
「……ふっ」
沈黙の中、信長が突然、乾いた息を吐いた。
「ふ……はは」
藤堂と澪が身構える。
信長は肩を揺らし、やがて天井を仰いで苦笑した。
「あっははは……! なるほど、そういうことか。狸め、すっかり老獪な天下人の面構えになりおってからに」
信長は笑いを収めると、ギラギラとした鋭い光を宿した瞳で本多を見据えた。
「よい。わしが悪かった。過去の夢に浸り、竹千代の器量を昔日のままに見くびっておったわ。……ならば聞こう。徳川家康が求める『制度』とやら、その具体的な条件は何だ」
信長が自らの非をあっさりと引っ込め、対等の交渉へと舵を切ったことに、本多は微かに目を見張り、次いで深く頭を下げた。
「主君の器量、痛み入ります。……では、家康公より託されました、静岡県側の基本要求を提示いたします」
本多は持参した分厚い協定草案のファイルを、机の中央へと滑り出させた。
澪が素早くそれを受け取り、目を通す。
次の瞬間、澪の眉がピクリと跳ね上がり、眼鏡の奥の切れ長の瞳が信じられないものを見るように見開かれた。
「……なっ!?」
「どうした、澪。何が書かれておる」
信長が問うと、澪は青ざめた顔で書類を握りしめ、掠れた声を絞り出した。
「信長様……これは、愛知県の産業にとって、あまりにも痛烈な急所を突いた要求です」
「何だと?」
「静岡県側は、東名・新東名高速道路の通行許可、ならびに両県間の通商再開の前提条件として――愛知県に対し、以下の二点を要求しています」
澪は震える指先で書類の条項を読み上げた。
「一、愛知県臨海コンビナートに備蓄されている原油および石油精製施設から、静岡県内の火力発電用・農業用燃料として『重油および軽油、月間四万キロリットル』の無条件優先割り当て。
二、東名・新東名を通行する愛知県側の全貨物車両に対し、静岡県境において積載物資の二割を【通行税および維持管理費】として現物供出すること」
「に……二割の現物供出だと!?」
信長は思わず玉座を蹴立てて立ち上がった。
「関所を通るだけで、運ぶ荷の二割を掠め取るというのか! これではまるで、身ぐるみを剥ぐ山賊の関所ではないか!」
「山賊ではございません」
本多は冷然と言い放った。
「百五十キロに及ぶ高速道路の舗装補修、トンネルの崩落防止、夜間照明の電力、そして武装警備部隊の燃料――愛知のトラックが東国へ抜けるための道を維持する費用を、静岡県民の血税だけで賄えと仰るのですか? 東へ抜けたいのならば、その道の維持費を支払うのが当然の理というもの。……呑んでいただけぬのであれば、東海道の門を開くことは叶いませぬ」
冷徹無比な物流の関所。
かつての友・徳川家康から突きつけられたのは、愛知の工業と生活の喉元をギリギリと締め上げる、容赦なき「通行料」の請求書であった。
読んでいただきありがとうございます。
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