貴方との時間
貴方との時間
009
「さっきから、こっち見すぎ!」
お姉さんが声を上げたのは、テレビが僕の勝利を告げたのと、ほとんど同時だった。
夕食を終え、いつものように二人でテレビの前に並んだ。始めた頃にはまだ形の残っていたグラスの氷も、今はほとんど溶けている。勝敗が決まるたびにお姉さんが次を選び、僕も断らないまま、もう何度目かも分からなくなっていた。
結果には目もくれず、お姉さんはコントローラーを握ったまま、身体ごとこちらを向いている。負けたことより、僕が見ていたことの方が気に入らないらしい。
「お姉さん、結構分かりやすいですから」
勝ち筋が見えると、画面より先に口元を緩ませる。本人は気づいていないらしく、こちらが指摘すれば、今度は意識して唇を引き結ぶ。
そこが、僕の知っている彼女の隙だった。
「心を読んでるんですよ」
「ズルじゃん。ちゃんと画面見て」
「相手の顔を見ちゃいけないなんてルールはありませんよ」
「駄目、次はこっち見ないで相手して」
「無理です」
お姉さんは何かを言い返しかけ、そのまま口を閉じた。代わりに僕を睨み、すぐテレビへ顔を戻す。
負けたくないらしい。次の対戦を選ぶ指には、さっきまでより少しだけ力が入っていた。
以前は、お姉さんを見るたびに何かを確かめていた気がする。
顔色は悪くないか。息は苦しくないか。食事は取れているか。笑っているなら、それは僕を安心させるために無理をして作ったものではないか。
今だって、心配しなくなったわけではない。頬に髪が掛かったまま気づかない日や、呼びかけへの返事が少し遅い日には、以前と同じように胸の奥がざわつく。
ただ、今の僕が見ているのは、きっとそれだけではなかった。
勝てそうになると先に口元が緩むことも、悔しいときには眉間を寄せたままコントローラーの端を親指でなぞることも、集中していると少しずつ身体が前へ傾いていくことも知っている。
どれも、生きていることを確かめるために覚えたものじゃなかった。
僕は今のお姉さんを、見逃したくなかった。
「それにしても、弟君、こんなに強かったっけ?」
次の対戦を始める前に、お姉さんはもう一度僕の手元を見た。コントローラーに何か細工でもあるのではないかと疑っているような、そんな目だった。
「最初にやったとき、何もできないまま負けてたよね」
「そこまでひどくはなかったと思いますけど」
「始まってすぐ落ちてたじゃん。どのボタンが何かも分かってなかったし」
「よく覚えてますね」
「そりゃ覚えてるよ。あれから、急にこんなに強くなる?」
お姉さんは納得がいかないらしく、僕の手元と画面を何度も見比べている。
「家で練習したんですよ」
「ゲームなんかしないって言ってたくせに」
「えぇ。でも、お姉さんに勝ちたくて、久しぶりに買いました」
お姉さんの指が止まった。
押されるはずだったボタンの上に親指を置いたまま、こちらを見る。先ほどまで浮かんでいた疑いが少し薄れ、その代わりに、僕の言葉をどこまでそのまま受け取っていいのか迷っているような間があった。
「わざわざ?」
「そうでもしないと、いつまでたっても勝てそうになかったので」
「……へぇ」
お姉さんはそれだけ言って、テレビへ向き直った。
髪を耳へ掛けるふりをして顔を伏せる。表情の半分は隠れたが、口元までは隠しきれていなかった。
次の対戦はまだ始まっていない。それなのに、唇の端がほんの少し上がっていた。
ここ最近、普段ならテレビをつけることもない時間にコントローラーを握って、慣れないまま何度も繰り返していた。
勝っても、隣から悔しそうな声は聞こえない。負けても、「弟君、下手」と笑う人はいなかった。それでも、お姉さんとの次を想像してひたすらに画面に向き合った。
僕が勝てば、驚くだろうか。すぐに練習したことを疑うだろうか。それとも、負けるのが嫌で、いつもより本気になるだろうか。
実際は、その全部だった。
家にいる間までお姉さんのことを考えていた。その事実を、以前の僕なら別の言葉に置き換えていたのかもしれない。
一緒に遊ぶため。退屈させないため。今度はもう少しまともな相手になるため。
どれも間違いではなかった。
けれど、何より僕がお姉さんに勝ちたかった。そして、負けた彼女がどんな顔をするのか、見てみたかった。
「張り合いがある方が、きっと楽しいでしょう?」
「負けるのは癪だけど」
「だったら、ほら。倒してくださいよ」
「ゲームの中まで生意気になったな」
お姉さんは膝の上でコントローラーを握り直した。背筋を伸ばし、先ほどまでこちらへ向いていた視線をテレビへ固定する。
口元も最初から固く結ばれている。表情から何も読ませないつもりなのだろう。僕が少しでも横を向けば、それに気づいたように眉間の皺が深くなる。
テレビが、お姉さんの勝利を告げる。
「私の、勝ち」
画面を見つめたまま、彼女が呟いた。
一拍遅れて、こちらを向く。
対戦中ずっと引き結ばれていた口元は、もう隠しようもなく上がっていた。顎を少し持ち上げ、見たかと言わんばかりに僕を見る。
「一回ですよ」
「弟君を黙らせるには、一回で十分」
「勝敗の計算が合ってませんけど」
「私がすっきりしたから、合ってる」
迷いのない言い分だった。
その顔を見ているうちに、喉の奥から息が漏れた。
最初はそれだけで済むはずだった。けれど、一度こぼれた笑いは、飲み込もうとするほど大きくなった。返事をしようとして口を開けば、言葉の代わりにまた声が出る。
「何笑ってんの」
「いえ、お姉さんが、あんまり嬉しそうなので」
「倒せって言ったの、弟君じゃん」
「言いましたけど、ここまで勝ち誇るとは思わなくて」
「散々人の顔を見てたくせに、それは読めなかったんだ」
「思っていたより、ずっと分かりやすかったです」
「感じわる」
そう言いながら、お姉さんは僕の肩を押した。
離れるほど強くはない。笑いを止めろと訴えるように、何度か軽く押してくる。そのたびに身体が揺れ、余計に笑いが止まらなくなった。
「笑いすぎだって」
「すみません」
「絶対思ってないでしょ」
俯いた僕を覗き込んでいたお姉さんの声が、途中でわずかに揺れた。
顔を上げると、彼女はすぐに視線を逸らした。口元を手で隠しているのに、指の隙間から息が漏れ、肩が一度だけ小さく跳ねる。
「お姉さんも笑ってるじゃないですか」
「弟君が変な笑い方するからでしょ」
「人のせいにしないでください」
「先に笑った人に言われたくない」
言い終わる前に、お姉さんの声も笑いに崩れた。
僕はこれまでにも、彼女の前で何度も笑った。
冗談を返すため。沈黙を重くしないため。心配していないと伝えるため。お姉さんが少しでも安心して笑えるように、僕も同じ顔をしていた。
そのどれも、嘘ではなかった。
けれど、こんなふうに、何も考えず声を上げて笑ったことはなかった。
今は、何がおかしいのか自分でもうまく説明できなかった。
僕に勝っただけで満足そうにすることも、笑われればすぐにむきになることも、それでも最後には自分まで笑ってしまうことも、彼女の一つ一つが、どうしようもなく愛しかった。
彼女が楽しそうにしている。
その隣に、僕がいる。
胸の奥に生まれたものは、何にも引っかからず、そのまま笑いになっていくらでもこぼれた。
笑いが収まるまで、次の対戦は始まらなかった。
テレビでは結果画面の音が繰り返されている。ローテーブルの上には、すっかり氷の溶けた二人分のグラスが残っていた。
お姉さんは口元に残った笑みを消すように、何度か小さく息を吐いた。それからコントローラーを膝へ置き、指先で目元を拭う。
笑いすぎて、少し涙が滲んでいた。僕も息を整えながら顔を上げる。今度は、お姉さんが僕を見ていた。
目が合っても、逸らさない。僕が笑い終えるのを待っていたように、少しだけ首を傾ける。
「随分、機嫌がいいじゃん」
「今日は、勝ち越してますんで」
「単純なヤツ」
「えぇ。僕は、単純な奴ですよ」
お姉さんは小さく鼻で笑った。勝ったから機嫌がいい。それだけの意味で受け取ったのか、結果画面へ目を戻した。
あなたがそばにさえいてくれれば。
「きっと僕は、ずっと機嫌が良かったんですよ」




