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隣で歩く

隣で歩く

010


あの角で、お姉さんは今日も立ち止まった。これが何度目になるのか、もう数えていなかった。


 繋いだ手に彼女の指が食い込み、俯いた横顔から少しずつ血の気が引いていく。いつもなら、彼女がまともに息をできなくなる前に引き返す。それが命綱としての僕の役割だった。


 けれど僕は、顔を上げた。


 こんな状況でさえ、繋いだ手の熱が嬉しくて、僕は彼女といられる今を、もう少しだけ楽しんでいたかった。


「お姉さん。空を見上げてください」


 お姉さんはすぐには動かなかった。それでも、俯いていた顔はやがてゆっくりと持ち上がり、足元へ落ちていた視線も、塀から屋根へ、屋根から電線へと昇っていった。


「……青い」


「ええ。広くて、遠いです。その向こうには、大きな入道雲も見える」


「……久しぶりに、見た気がする」


「もう夏も終わります。この空も、もうすぐ見納めですね」


 返事の代わりに、お姉さんは空を見たまま長く息を吐いた。


「ゆっくり、息を吸ってください」


 促すと、彼女の胸がゆっくりと膨らみ、それに合わせるように瞼が閉じた。深呼吸のときには目を閉じる。そんな癖を、また一つ見つけた。


「カレーだ」


 漂ってきた香りを確かめるように、彼女はもう一度、今度は自分から息を吸った。


「どこかの家で夕食の支度をしているんでしょう。なんだか、お腹が減ってきますね」


「……うん」


 答える頃には、強張っていた肩も少しずつ下がり始めていた。


 遠くで猫が鳴いた。


「聞こえました?」


「うん。甘えてるみたい」


「あいつ、僕が通るといつも擦り寄ってくるんですよ」


「いいな。私も会ってみたい」


「会えたら、僕の大事な義姉さんだって紹介しますよ」


「もし引っ掻かれたら、そのときは弟君を恨めばいい?」


「それは嫌だなあ」


 声はまだ弱かったが、返ってきたのはいつもの彼女らしい軽口だった。


「それじゃ、前を見てください」


 お姉さんの視線が、もう一度あの角へ向かう。


 道の両側には家が並び、開いた窓から夕食の匂いが流れていた。軒先では洗濯物が風に揺れ、家々の窓にも明かりが灯り始めていた。


「ここは、どこですか」


「……住宅地」


「そう。家があって、誰かがご飯を作っている。猫もいて、空も開けている。そういう場所です」


 お姉さんは、確かめるように辺りを見回した。


「どこも、誰かの帰る場所です」


 灯りの数だけ、僕たちには見えない暮らしがあった。


「僕を見てください」


 言われるがままに、お姉さんがこちらを向く。


「そんなに見つめられたら、ちょっと照れますね」


「弟君が見ろって言ったんじゃん」


 わずかに緩んだ口元を見ながら、繋いだ手を彼女の目の前へ持ち上げた。


「僕は、ちゃんとここにいます。お姉さんも、ちゃんとここにいます」


「……うん」


 握る力はまだ強かったけれど、それが恐怖だけのものなのかは、もう僕にも分からなかった。


「これから、僕と一緒に散歩に行きましょう」


 お姉さんは一度瞬きをしてから、ほんの少し笑った。


「……何それ」


「真面目なお散歩のお誘いです。たまには、気ままでいいじゃないですか」


「その我儘、付き合ってあげる」


 僕が一歩踏み出すと、お姉さんも続いた。角を曲がる瞬間、彼女の指が一度だけ食い込んだ。それでも、歩みは途切れなかった。


 角を曲がったあと、お姉さんは一度だけ振り返った。もう、アパートは見えなかった。


 それでも、繋いだ手が後ろへ引かれることはなかった。


「それで、目的地は?」


「今、です」


「……もう少し、地図に載っていそうな答えはないの?」


「ないですね。無計画なので」


 もう一度、遠くで猫が鳴いた。声のした方へ目を向けると、塀と塀の隙間に、見覚えのある白猫がいた。


「お姉さん、あっち。あいつです。さっき言っていた猫」


 猫は僕たちに気付いたように、近づいた分だけ遠ざかった。


「本当に懐いてたの?」


「僕一人のときは」


「じゃぁ私が嫌われている、と?」


「きっと、シャイなんですよ」


 猫が角を曲がるたび、僕たちも同じ道を選んだ。目的地の代わりに、その白い背中だけを追っているうち、猫は民家の塀へ飛び乗り、その向こうへ姿を消した。


「あーあ、せっかく会えたのに」


「きっと、また何度だって会えますよ」


 猫の消えた道をそのまま進んだ先で、家並みの間に小さな畑を見つけた。隅には、十数本の向日葵が咲いていた。


 お姉さんが足を止めた。


 反射的に彼女の呼吸を確かめたが、繋いだ指に力はこもらず、横顔から血の気も引いていなかった。


 彼女はただ、向日葵を見ていた。


「弟君がさ、昔買ってきてくれたやつ。もう三年くらい前だけど、覚えてる?」


「そういえば、そんなこともありましたね」


「忘れてたな?」


「今、思い出しましたよ。向日葵を一本。あのときは、花屋でずいぶん悩みましたから」


 お姉さんが家から出られなくなって、まだ間もない頃だった。


 外へ出られないのなら、せめて部屋の中で季節を感じてもらえばいい。そんな安直な考えで、僕は一本の向日葵を買っていった。


 けれど、お姉さんは笑わなかった。返事もほとんどなく、向日葵を受け取る手にも力が入っていなかった。


 そんな彼女の隣で、満開の向日葵だけが不釣り合いに明るく見えた。


「あれ、結構嬉しかったんだよね」


 そんなふうには見えなかったから、余計なことをしてしまったのではないかと、あとになって反省さえした気がする。


「……ちょっと意外でした」


「失礼だなあ」


 お姉さんは、背の高い向日葵を見上げた。


「でも、あの頃は、それどころじゃなかったけど」


 向日葵の葉が風に擦れるなか、お姉さんは言葉を続けた。


「家に一輪咲いてるだけで、水を替えなきゃとか、枯れる前に写真を撮ろうとか。ちょっとだけ、動く理由が増えて」


 お姉さんが、向日葵を見上げたまま笑った。


「誰かが、そこにいてくれてるみたいだった」


 何の役にも立たなかったと思っていた一本が、僕の知らないところで、ちゃんと彼女の時間に残っていた。


「ありがと」


 三年遅れて、あの日の返事が届いた。


「……どういたしまして」


「三年前に言うべきだったね」


「寝かせた分、味わい深いですよ」


「ワインかよ」


 三年前には不釣り合いに見えた向日葵の明るさが、今は彼女の横顔によく似合っていた。


 夏の熱と汗で手のひらはべたつき、さっきまで食い込んでいた彼女の指も、今はただ僕の手に重なっていた。


 それでも、どちらからも離そうとはしなかった。


 向日葵をあとにしてからも、僕たちは行き先を決めないまま歩いた。細い住宅街を抜け、知らない家の前を通り、時々どうでもいい話をした。


 気づけば、蝉の声が変わっていた。頭上を満たしていたアブラゼミの騒がしさが薄れ、その奥から、ひぐらしの鳴き声が一つ、また一つと聞こえてきた。


「私さ、毎年ひぐらしが鳴き始めると、もう夏が終わるんだなって思うんだよね」


「少し、分かります」


「部屋にいても、これだけは毎年聞こえてた。そこにだんだん鈴虫の声が混じって、気づいたら外が秋に塗り変わってる」


 外出の練習が、いつ散歩に変わったのかは分からない。


 ただ、彼女を引くために半歩先を歩いていた僕も、いつの間にか、同じものを見るために隣を歩いていた。


 繋いだ手から、縋るような力が少しずつ消えていた。その分だけ、命綱としての僕の役目も終わりに近づいていた。


 それが何を意味するのか、分からないわけではなかった。


 それでも今は、彼女がこの先で何を見つけるのか、もう少し隣で見ていたかった。


 やがて、お姉さんの歩調が少しだけ速くなった。行き先も決めずに細い道を進むうち、道は大きく回り込み、僕たちは見覚えのある通りへ戻っていた。


 その先には、あの角があった。


見つけた途端、お姉さんの足取りがほんの少し鈍り、繋いだ手にも力が戻った。それでも、もう立ち止まらない、僕が手を引くこともなかった。


そのまま二人で歩き、お姉さんは自分の歩幅で角を曲がって、視界が開ける。向こうには、家を出たときと何も変わらず、見慣れたアパートが同じ場所に建っていた。


「ちゃんとあった」


「急になくなったりしませんよ」


「そうだね」


 繋いだ手が、一度だけ握り直される。今度は、もう痛くなかった。


玄関前に着いて、ようやく手が離れた。鍵を取り出すために、当たり前に。


きっと、今日の役目はそこまでだった。


「今日は、お祝いをしないといけませんね」


 鍵穴へ伸びていた手が止まって、お姉さんが僕を振り返る。


「大袈裟だな」


「大袈裟なんかじゃないですよ」


「……当たり前のことが、少しできるように戻っただけだよ」


 そう言って、彼女は手の中の鍵へ視線を落とした。


 きっと、その「少し」がどれだけ遠かったのかは、彼女が一番よく知っている。


「ええ。でも、そこまでの三年を僕は隣で見てきましたから」


「……そっか」


「だから今日くらい、ちゃんと僕に祝わせてください」


「具体的には?」


「夕食は僕が作ります。お姉さんが食べたいものなら、なんだって」


「なんだって?」


「腕を奮って、精一杯用意させてもらいますよ」


「……じゃあ、満漢全席」


「中華屋に電話しときますね」


「そこは即外注なんだ」


 お姉さんが小さく笑った。


「あと、ケーキでも買ってきましょうか」


「そこまでしなくていいって」


「そうですか?」


「夕食だけで十分」


「分かりました。それで、何が食べたいですか」


「カレー」


 返事は、迷うよりも早かった。


「奇遇ですね。僕もです」


 お姉さんは少しだけ笑って、鍵を差し込んだ。


 鍵が回り、扉が開く。


 そこにあったのは、出ていったときと何一つ変わらない玄関だった。靴箱も、薄暗い廊下も、その先に続く部屋も、ずっと同じ場所にあったものばかりだ。


 お姉さんはすぐには入らなかった。


 敷居の前に立ったまま、一度だけ振り返る。さっき自分の足で越えてきた角は、もう家々の向こうに隠れていた。遠くから、ひぐらしの声だけが届いている。


 やがて、お姉さんは前を向いた。


 玄関へ上がり、靴を脱いで、いつもの場所へ揃える。


「ただいま」


 誰に言うでもない言葉を、お姉さんは静かな部屋へ投げた。


「おかえりなさい」


 僕は、それを拾って返した。ようやく、この言葉を彼女に返せた気がした。

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