あと少しだけ
あと少しだけ
011
「乾杯」
軽い音をたてて、二つの缶がぶつかる。
テーブルには二人分のカレーと、結局買ってきたショートケーキが二つ。いらないなんて言っていたくせに、箱を開けたお姉さんはなんだかんだ楽しみにしていたようだった。いつもより少し足を伸ばして買いに行った甲斐は、きっとあった。
お姉さんはチューハイを一口飲むと、カレーへスプーンを入れた。
「弟君、料理とかできたんだね」
「作っているところを見ていたでしょう」
「見てたけど。いつも材料買ってくる担当だったから」
「お姉さんの前で作る機会がなかっただけです。これでも社会人になってからは一人で暮らしてるんですから」
「それもそっか」
お姉さんはもう一口食べ、少し考えるように舌の上で味わった。
「おいしい」
「辛さはどうですか」
「うん、大丈夫。これくらい刺激がある方が私好み」
最初の味見では、もう少し辛くてもいいと言われた。ガラムマサラとカイエンペッパーを少しずつ足して、そのたびに二人で同じ鍋を覗き込んだ。二度目の味見でお姉さんが満足そうに頷き、今夜の味が決まった。
お姉さんの作るカレーは、いつも甘かった。兄が辛いものが苦手だったから。
けれど今日は、その名前が出ないままで、彼女の好きな辛さが決まった。
「弟君には、ちょっと辛かった?」
「これくらいなら平気ですよ」
「鼻汗かいてるけど」
「それくらいが丁度いいんです」
満足そうにスプーンを運ぶ横顔を見ていると、僕の好みに合わせて薄くなったハンバーグの味を思い出す。あの時受け取ったものを、彼女に返したかった。
「駅前にさ。麻婆豆腐の専門店があるの知ってる?」
「知ってますよ、何度か行ったこともあります」
「あそこ、まだやってるんだ。弟君はあれ何辛までいけた?」
香辛料の度合い十段階に甘口を足した十一段を用意した店だった。高校時代の悪ノリで酷い目にあった覚えがあった。
「六辛までなら食べたことがあります、もう数年前ですけど」
全身の穴という穴から水分を垂れ流しながら、肺から抜ける息すらヒリヒリと焼けた。そんな若気の至りだった。
「私さ、八辛完食したことあるんだよね」
得意げにそう言って、また一匙口に放り込む。額にはじんわり汗が滲んでいて、それを流し込むように一気にチューハイが減る。
「今だったら、きっと僕もそれくらい食べれますよ。前よりは強くなりましたから」
「このカレーで鼻汗垂らしてるのに?」
「お姉さんだって」
「見栄っ張り」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃあ、今度は二人で十辛ね」
「どうしていきなり二段階も上がるんですか」
「八辛はいけるんでしょ? 出来ることやったって仕方ないし、私は全然平気だから残しちゃっても食べてあげれるよ」
「……上等です。受けて立ちますよ」
「ふふっ、見栄っ張り」
以前ならきっと、その言葉の後に兄の名前が続いていた。けれど今日はお姉さんが僕を見て、楽しげに会話が続けて、そして僕たちの次の予定が一つ決まった。それだけだった。
しばらくは、スプーンが皿に触れる音だけが続いた。気に入ってくれたらしく、二杯目は直ぐだった。
お姉さんはパクパクと食べ進め、半分ほど残ったカレーを見つめながら、ふと思い出したように口を開いた。
「今日さ、初めてあの角を越えたじゃん」
「ええ」
「きっとね。私はあそこが世界の端だと思ってた」
スプーンの先が、皿の上で止まっていた。
「曲がった先にも道があるって、分かってたんだよ。家が並んでて、少し戻ればここもまた見える。それくらいは、ちゃんと分かってた」
お姉さんは、自分へ言い聞かせるように一つずつ並べた。
「でも、近づくと駄目だった。戻らなきゃって、それしか考えられなくなって。越えなきゃって思えば思うほど、あの角ばっかり大きくなってた」
彼女の世界にそれ以上はなかった。
道が続いていることを知っていても、その先の景色を思い浮かべることができなかった。ただあの角だけが終点だった。
「今日も、曲がるまでは何も見えなかった」
「……怖かったですか」
「もちろん。怖かったよ。とっても」
返事に迷いはなかった。
「帰りも、やっぱり怖かった」
お姉さんは顔を上げた。
「でも……それだけだった」
その言葉が意味するものを、僕はすぐには飲み込めなかった。
「曲がったら、普通だった。家があって、道が続いてて。猫がいて、向日葵が咲いてた。そういうあたまり前は、ずっとそこにあった」
空になりかけた缶を指先で弄びながら、窓の方へ目を向ける。
「あの先にも、ちゃんと景色が残ってた。今日、やっとそれを見つけた」
テーブルの上に置いていた僕の手へ、お姉さんの指が触れた。
「あの先にも当たり前に景色があるんだって、弟君が思い出させてくれた」
確かめるように指先を重ね、そのまま僕の手を取る。
角の前で握られたときのような強さはなかった。僕の手に縋らなければ呼吸ができないわけでも、そこにいることを確かめる必要があるわけでもない。
ただ触れたかったから、触れてくれた。そう思ってしまってもいいような手だった。
「弟君がいてくれて、よかった」
「僕もです」
「何で弟君が言うの?」
「僕も、あの景色を見られましたから」
お姉さんは少しだけ不思議そうな顔をしたあと、僕の手を握ったまま笑った。
彼女が自分の足で角を越え、失ったと思っていた景色を見つけた。その隣に僕がいた。それは、三年間ずっと望んできたはずの光景だった。
「こんなふうに弟君にお世話になるのも、あとちょっとだね」
きっと、それは喜ぶべき言葉だった。
一人で外へ出て、買い物へ行き、行きたい場所へ自分の足で向かえる。兄から引き受けた約束も、命綱としての役目も、ようやく終わろうとしている。
僕が三年間、何より望んできた未来だった。
「……そうですね」
握られた手は、まだ温かかった。
「弟君、心配性だからさ。今日一回歩けたくらいで、明日から一人で大丈夫ですよ、なんて言わないんでしょ」
「言いませんよ」
「知ってる。だから、まだ付き合って貰いたいことも、残ってる」
お姉さんは、初めから答えを知っていたように笑った。
「あと、ちょっとだけだから」
僕は頷いた。そのちょっとに、どれだけの猶予があるのか、確かめる気にはなれなかった。
「麻婆豆腐を食べに行くついでに、駅の横にある雑貨屋にも寄りたい。久しぶりに買い物をしたい」
空いている方の手で、これから行きたい場所を数えていく。
「美容室にも行きたい。出かけるための服も欲しいし、また今日みたいに歩きたい」
「予定を詰め込みますね」
「時間があるうちにね」
お姉さんは折った指をそのままに、今度は僕へ尋ねた。
「弟君は?」
「僕ですか」
「ないの? 私と行きたいところとか」
今日、向日葵を見上げていた横顔を思い出した。季節の色にが良く似合う人だった。
「河川敷とか、どうでしょう。秋になったら、コスモスが埋め尽くすくらい咲くんですよ」
「まだ、少し先だね」
「……間に合いませんかね」
「ううん。秋に着れる服、探しといけないなって」
彼女の買い物の予定に、僕と歩く日の服が加わった。それが嬉しくて、ようやく僕も笑えた。
麻婆豆腐を食べる。雑貨屋へ寄る。服を買う。もう一度散歩をして、コスモスを見る。
未来の予定は、ドミノみたいに一つずつ並んでいった。最初の一枚をつつけば、あとは幸福な時間ほどあっけなく倒れ、最後の一枚まで辿り着いてしまうのだろう。
できることなら、その列をもう少しだけ長くしておきたかった。
今日は、まだお開きになるには時間が浅かった。食器を片づけ、結局ケーキまで平らげたあとも、祝いの夜は続く。
テレビを点けた僕のところへ、お姉さんが新しい缶を二本持ってくる。戻ってきた彼女が腰を下ろしたのは、さっきまで座っていた向かい側ではなく、僕の隣だった。
「ね。もう一回、乾杯しよ」
「さっきしたでしょう」
「さっきのは、私のお祝いでしょ」
一本を僕へ渡し、自分の缶のプルタブを開ける。
「今度は、三年間、ずっと世話を焼いてくれた弟君の働きに対して」
お姉さんは開けた缶を、僕の前へ差し出した。
「ありがとうの乾杯」
感謝されるほど、役目の終わりがはっきりと形を持っていく。それでも僕は、自分の缶を合わせた。
「ほら、さっさと出す。付き合わないなんて、言わせないよ」
無邪気な顔でそんなことを言う。断れるはずもなかった。断る気なんて初めからどこにもなかった。
「乾杯」
一度目より、小さく缶は鳴った。
お姉さんはそのまま缶を傾け、一口目から喉を何度も動かす。
「随分、機嫌がいいですね」
「私だって嬉しいんだよ」
もう一口飲む。会話が途切れるたびに缶は傾き、口をつけている時間も長くなっていった。
「飲みすぎないでくださいよ?」
「大丈夫だよ。弟君がいるから」
「介護させるの前提じゃないですか」
「そうともいう。それに──────」
缶をテーブルに置くと、お姉さんは僕の腕を取り、胸元へ抱き寄せた。
「いつも通り、ちゃんと止めてくれるでしょ?」
酒で少し上がった体温が、触れ合った腕から伝わってくる。
「当たり前ですよ」
短い返事とともに、僕の腕を抱く力がもう少し強くなった。
「知ってる」
その蕩け始めた目が、今日は一段と零れ落ちそうだった。
お姉さんは僕の腕を抱いたまま、テレビへ顔を向けた。画面の中で誰かが笑うと、少し遅れて彼女も笑う。そのたびに触れ合った肩が揺れ、僕までつられて口元が緩んだ。
「ねぇ」
不意に顔がこちらへ戻ってくる。
「今日、写真撮っておけばよかったね」
「猫ですか? それとも向日葵?」
「どっちもだけど、弟君と歩いてるところとか全部」
お姉さんはテーブルに置いていた僕のスマートフォンへ目を落とした。
「何も変わってないのに、一気に何もかもが変わった日だから。覚えていたいんだけど、全部撮り損なったゃった」
どんな道を通ったのか。彼女がどこで笑ったのか。手を握り直されたのは、何度だったのか。今日のことを僕は忘れることなんてない、けれど色褪せずに残る物が欲しくないなんてことはなかった。
「……今からでも、撮りますか」
「うん」
返事と一緒に、お姉さんの身体が寄った。
僕は空いている手でスマートフォンを取り、内カメラをこちらへ向ける。画面に二人を収めようと腕を伸ばすと、彼女はそこを覗き込みながら、さらに肩を近づく。
甘い吐息の匂いがした。
「弟君、顔が硬い。もっと写真撮る時はリラックして、いつも通りな顔して」
「撮ることに緊張してるんじゃないです」
その先を言いかけて、やめた。画面の中のお姉さんが、僕を見上げる。
「じゃあ、何?」
「……近いですよ」
「だって離れたら入らないでしょ」
当然のようにそう言って、そのまま肩へ頬が乗る。僕だけが妙に姿勢を正していて、画面の中でも、どちらが年上なのかよく分かった。
「ほら、こっち見て」
「見てます」
「私じゃなくて、カメラ」
お姉さんが吹き出した。僕も笑ってしまい、その拍子に指が画面へ触れた。
シャッター音が世界を切り取る。二人とも少し目を細めていて、彼女の顔へ傾いた僕の視線も、そのまま残った。
「もう一枚、撮りますか」
「なんで。これ、いいじゃん」
お姉さんは画面へ指を伸ばし、写真を大きくした。
「弟君、こういう顔して笑うんだね」
「おかしいですか」
「ううん。いつも、すぐ澄ました顔に戻っちゃうから」
そんなつもりはなかった。けれど、彼女に言われて自分の顔を見直すと、確かに少し間が抜けていた。こんなにも素直に笑顔を晒していたのかと、小っ恥ずかしい。
「これさ、私にも送ってよ」
「はい」
「消したりしちゃ、駄目だから」
「そんなことしませんって」
送信すると、テーブルの向こうで彼女のスマートフォンが短く震えた。お姉さんはそれを取りに行かず、僕の画面をもうしばらく眺めていた。
写真の中でも、今ここでも、彼女は熱を持った頬を僕の肩に預けている。
まるで、××みたいだった。
僕は画面を閉じ、スマートフォンを伏せた。
「これで、ちゃんと今日が残りましたよ」
「うん」
お姉さんは満足したように頷いて、テーブルの缶へ手を伸ばした。抱いていた腕は片方だけになり、それでも、肩の重みはなくならなかった。
僕も自分の缶を取る。飲み込んだチューハイは、さっきより甘く感じた。
「弟君、ちょっとこっち向いて」
呼ばれるままに顔を向けると、お姉さんの手が僕の頭へ伸びた。髪を梳くように一度撫でてから、今度はくしゃりと掻き混ぜられる。
「よくできました」
「お姉さん、酔ってきてます?」
「今日くらい、素直に褒められなさい」
もう一度撫でられた。手つきは大雑把で、乱された前髪が目にかかって、遠慮なんてなかった。
「……ありがとうございます」
「よろしい」
僕が髪を直すのを眺めながら、お姉さんはまた缶を傾けた。飲み終えるとテーブルに戻し、今度は自分の顔をこちらへ寄せてくる。
わざとらしく目を閉じて、唇を尖らせている。いつもの、人恋しくなった彼女の揶揄いだった。
僕もいつものように、二人の間へ手のひらを挟んで、むぎゅうと変な声を上げながら彼女は僕に止められる。
「……鼻まで潰すことないじゃん」
「お姉さんが押してるだけでしょう」
指の向こうで、彼女の目が開いた。僕を見ているうちにそこが細くなり、くぐもった笑い声が漏れる。
僕も笑って、手を引いた。
けれど、お姉さんは下ろしかけたその手を捕まえた。今度は手のひらを自分の頬へ当て、少し顔を傾ける。
「手、冷たくて気持ちいい」
頬を預けたまま、彼女は目を閉じた。
口を尖らせていないときも、お姉さんはこんなに近くにいる。僕は手を動かさず、その重みを受けていた。頬を支えるには少し無理な姿勢だったけれど、言えば離れてしまいそうで、黙っていた。
「弟君」
「はい」
「もうちょっと、力抜いて」
目を閉じたまま、彼女は要求する。
「顔、支えようとしなくていいから」
少しだけ腕を緩める。彼女もそれに合わせて身体を寄せ、結局また僕の肩へ頭を落ち着けた。
「そう。それでいい」
お姉さんが満足そうに息を吐いた。髪の毛が頬に触れてくすぐったくて、僕は少し笑った。
「何?」
「いえ。くつろいでいるなと思って」
「そりゃぁ、私の家だもん。他じゃこんなことできないよ」
「それもそうでした」
納得するしかない答えだった。
肩に寄りかかる頭をそのままに、僕たちはまたテレビを見た。何かがおかしいと、お姉さんは僕の腕を叩いてから画面を指さす。僕が先に笑うと、今度は彼女がこちらを向いた。
会話が途切れれば缶を傾け、思い出したように話し始める。僕が何かを言い返すたび、お姉さんの顔が近づいた。ときどきは、また目を閉じて迫って、それを手のひらで受け止めると、彼女は笑いながら僕の肩へ戻った。
止めたところで、離れていくわけではなかった。
今までと、何も変わらない時間だった。
「弟君、さっきからずっと笑ってる」
「お姉さんだって」
顔を見合わせたまま、また笑った。
写真で見た自分の顔を思い出す。今はきっと、もっとひどい顔をしている。それでも、もう取り繕う気にはならなかった。
お姉さんの頬は赤く、話す声も、だんだん緩んでいく。缶を置くときの音が大きくなると、自分でもおかしかったのか、それだけのことで笑った。
彼女のその笑い方が好きだった。息を吸い直して、もう一度笑うところも。僕に何かを言おうとして、途中でまた笑ってしまうところも。
テレビへ目を向けている間にも、見逃した顔があった気がした。
「また見てる」
お姉さんに言われた。
「僕に見られるのは、嫌ですか」
「ううん」
彼女は首を振ってから、いたずらを思いついたように口元を緩めた。また目を閉じて、顔を寄せてくる。
今度も、手を挟むだけでよかった。
膝に置いた手は、何にも塞がれていなかった。いつもと同じように顔を受け止めれば、お姉さんはまた笑う。そのあとも、こうして隣にいられる。
あと何度、この顔をこんなに近くで見られるのだろうか。
あとちょっとだけ、それが終わってしまえば、きっと。もう二度と。
彼女を見つめる。さっきまで笑っていた目が閉じられて、口元にだけまだその名残があった。
あと一秒だけ。手を出せば、まだ間に合う。
ちゃんと、いつも通り止めるから。
もう少しだけ近くで。
あとほんの少し。
今だけは。
初めての、手遅れだった。
柔らかい。
白に塗りつぶされた脳内で、一番最初に浮かんできたのは、それだった。
睫毛がこんなにも長くて、頬がこんなにも熱くて。唇はこんなにも、柔らかかった。
見惚れるうちに、当たってしまっただけだと誤魔化せる時間は、とっくに過ぎる。それでも身を引けず、ただただ彼女の今を感じていたかった。
どれだけの時間、そうしていたのか分からない。きっと時間なんて曲がってしまって、目の前の彼女だけが僕の今だった。
唇を先に離したのは、彼女だった。僕の肩に手を当てて、ゆっくりと身を引く。
開いた目が、一度だけ僕を見た。何かを言いかけたように唇が動いたけれど、声は出なかった。肩から重みがなくなって、僕と彼女間に空気が差し込む。
その隙間はもう埋められなかった。
彼女は俯いたまま、両手を自分の膝へ重ねる。きっと、その先を僕はわかっていた。
「お姉さん」
その先は何も出てこなかった。彼女を繋ぎ止める言葉なんて、僕は持っていなかった。
テレビから笑い声が流れる。静かな部屋に居心地の悪い笑い声だけが響いた。
「ごめん。もう、帰って」
小さな声だった。
伏せたスマートフォンの横に、二人分の缶が並んでいる。テレビ番組はまだ続いていて、今日話したいことだってまだ残っている。
それでも、もう僕はそこへ手を伸ばすことも、隣の顔を見ることも、できなかった。
全部、わかっていた。




