↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/14

一言だけ

一言だけ

012


『ごめん。もう、帰って』


 初めて聞いた、彼女の拒絶だった。


 べったりと耳に残った言葉が、何度も何度も繰り返し、心の中で波打つ。自宅に帰ったって、ほかの音は耳に入ってこなかった。


 ただただ、浅く息をしていた。視界すら不安定だった。


 もう何もできない。ソファーに蹲ってしまえば、身体はどこまでも沈んでいって。このまま世界から消えてしまいたかった。


 瞼の裏にも、お姉さんの顔が浮かんだ。


 泣き出しそうなのに、必死に堪えていた。俯いたまま、口元に変な力が入っていた。僕が知ってるどんな彼女よりもずっと酷い顔で、全然似合わなかった。


 本当に、酷い顔だった。


 肩には、まだ彼女の重みが残っていた。腕には抱き寄せられた体温が、手のひらには頬の柔らかさが残っている。


 唇にも。


 何度擦っても、もうなかったことにはならない。


 ついさっきまでの幸せは、きっと夢だった。今の孤独だけが、現実だった。


 二人でカレーを食べ、次に行きたい場所を話した。麻婆豆腐を食べて、服を買って、秋になったらコスモスを見る約束までしたのも、全部。


 浮かれて待ち受けにした今日の写真。お姉さんが僕の肩へ頬を預け、僕がカメラではなく彼女を見て笑っている姿が、まだそこにはあった。


 お姉さんが言った通りだ。彼女の隣にいたのは、随分と間抜け面をした僕だった。


 あの部屋へ行くことも、一緒に酒を飲むことも、くだらないことで笑うことも。もう「弟君」と呼ばれることさえ。


 全部、全部、夢よりも遠かった。


 そうなるのだと理解してしまえば、途端に胸の奥が狭くなる。心臓が動くことさえ、もう苦しかった。


「いつも通り、ちゃんと止めてくれるでしょ?」


 彼女の言葉に僕は、当たり前だと返した。


 彼女がどれだけ近づいても、僕が止める。その先に向かわないように、二人の間に引いた線を守る。いつものことだった。だから彼女は、安心して僕に甘えることができていた。


 それが信頼の形だと知っていた。


 知っていて、それでも僕は止めなかった。


 いつもと同じように手のひらを挟むだけで済む話だった。それだけで、お姉さんはきっと笑って、そのあとも僕とあの部屋で、何も変わらない時間が続いていたはずだった。


 それでも。


 まだ、目の前の彼女を失いたくなかった。


 借り物の幸せを、手放すのが怖かった。


 もっと、彼女を見ていたいと。醜い欲をかいた。


 唇が触れてからだって、離れる時間はいくらでもあった。事故だと誤魔化せる猶予だって、きっとあった。


 それでも、僕は動かなかった。


 彼女が本当に求めているものは僕じゃない。そんなこと、とうに分かっていたのに。あの瞬間だけは、彼女が僕を求めてくれたことにしたかった。


 ようやく触れた唇を、すぐに離してしまうのはあまりにも惜しかった。


 きっと、あの瞬間が今までで一番嬉しかった。


 彼女を傷つけ、あんな顔までさせて。それでもそんなことを思っている自分が、何よりも許せなかった。


 彼女の回復が嬉しかった。それさえ、自分を必要としてくれたからじゃないのか。彼女と過ごせる時間が長くなるなら、悪化したっていい。そんなことを、どこかで望んでいたのかもしれない。


 もう、自分のことすら信じられなかった。


 兄から預かった役目まで、自分の欲で汚してしまった。彼女に合わせる顔なんて、もうなくなってしまった。


 僕がもう会いに行かなければ、これで終わってくれるだろうか。これ以上、彼女を困らせずに済むだろうか。


 もう、あんな酷い顔を見ずに済むだろうか。


 向日葵を見上げていた横顔。写真を覗き込みながら、僕の間の抜けた顔を笑ったところ。缶を置いた音だけでおかしくなって、何度も息を吸い直していた顔。


 一つ一つ浮かぶたびに、目元が熱くなった。


 彼女に一番似合う顔を、僕は知っていた。


 もう一度だけ、そう願ってしまいたかった。その笑顔を壊した僕に、そんな権利なんてもうあるはずもないのに。


『ごめん』


 何を思い返しても、最後にはその一言へ戻ってきた。


 何に対しての謝罪だったのか、僕には分からない。唇を重ねたことかもしれない。僕を傍に置きすぎたことかもしれない。


 どれも、僕の想像でしかなかった。


 それでも、もし。


 お姉さんが、僕を頼った三年間まで、自分の間違いだったと思っているのなら。


 それだけは、違った。


 お姉さんは三年かけて、今日、自分の足であの角を越えた。何度も立ち止まり、何度も引き返して。それでも、自分でここまで歩いてきた。


 僕がどんな気持ちで隣にいたとしても、あの三年間は、お姉さんが前へ進むために積み重ねた時間だった。


 僕のくだらない欲ひとつで、その全部が台無しになるなんて、あっちゃいけなかった。


 もう一度、拒絶されても。


 お姉さんは、何も悪くない。


 その一言だけは、僕の口から伝えなければならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。