一言だけ
一言だけ
012
『ごめん。もう、帰って』
初めて聞いた、彼女の拒絶だった。
べったりと耳に残った言葉が、何度も何度も繰り返し、心の中で波打つ。自宅に帰ったって、ほかの音は耳に入ってこなかった。
ただただ、浅く息をしていた。視界すら不安定だった。
もう何もできない。ソファーに蹲ってしまえば、身体はどこまでも沈んでいって。このまま世界から消えてしまいたかった。
瞼の裏にも、お姉さんの顔が浮かんだ。
泣き出しそうなのに、必死に堪えていた。俯いたまま、口元に変な力が入っていた。僕が知ってるどんな彼女よりもずっと酷い顔で、全然似合わなかった。
本当に、酷い顔だった。
肩には、まだ彼女の重みが残っていた。腕には抱き寄せられた体温が、手のひらには頬の柔らかさが残っている。
唇にも。
何度擦っても、もうなかったことにはならない。
ついさっきまでの幸せは、きっと夢だった。今の孤独だけが、現実だった。
二人でカレーを食べ、次に行きたい場所を話した。麻婆豆腐を食べて、服を買って、秋になったらコスモスを見る約束までしたのも、全部。
浮かれて待ち受けにした今日の写真。お姉さんが僕の肩へ頬を預け、僕がカメラではなく彼女を見て笑っている姿が、まだそこにはあった。
お姉さんが言った通りだ。彼女の隣にいたのは、随分と間抜け面をした僕だった。
あの部屋へ行くことも、一緒に酒を飲むことも、くだらないことで笑うことも。もう「弟君」と呼ばれることさえ。
全部、全部、夢よりも遠かった。
そうなるのだと理解してしまえば、途端に胸の奥が狭くなる。心臓が動くことさえ、もう苦しかった。
「いつも通り、ちゃんと止めてくれるでしょ?」
彼女の言葉に僕は、当たり前だと返した。
彼女がどれだけ近づいても、僕が止める。その先に向かわないように、二人の間に引いた線を守る。いつものことだった。だから彼女は、安心して僕に甘えることができていた。
それが信頼の形だと知っていた。
知っていて、それでも僕は止めなかった。
いつもと同じように手のひらを挟むだけで済む話だった。それだけで、お姉さんはきっと笑って、そのあとも僕とあの部屋で、何も変わらない時間が続いていたはずだった。
それでも。
まだ、目の前の彼女を失いたくなかった。
借り物の幸せを、手放すのが怖かった。
もっと、彼女を見ていたいと。醜い欲をかいた。
唇が触れてからだって、離れる時間はいくらでもあった。事故だと誤魔化せる猶予だって、きっとあった。
それでも、僕は動かなかった。
彼女が本当に求めているものは僕じゃない。そんなこと、とうに分かっていたのに。あの瞬間だけは、彼女が僕を求めてくれたことにしたかった。
ようやく触れた唇を、すぐに離してしまうのはあまりにも惜しかった。
きっと、あの瞬間が今までで一番嬉しかった。
彼女を傷つけ、あんな顔までさせて。それでもそんなことを思っている自分が、何よりも許せなかった。
彼女の回復が嬉しかった。それさえ、自分を必要としてくれたからじゃないのか。彼女と過ごせる時間が長くなるなら、悪化したっていい。そんなことを、どこかで望んでいたのかもしれない。
もう、自分のことすら信じられなかった。
兄から預かった役目まで、自分の欲で汚してしまった。彼女に合わせる顔なんて、もうなくなってしまった。
僕がもう会いに行かなければ、これで終わってくれるだろうか。これ以上、彼女を困らせずに済むだろうか。
もう、あんな酷い顔を見ずに済むだろうか。
向日葵を見上げていた横顔。写真を覗き込みながら、僕の間の抜けた顔を笑ったところ。缶を置いた音だけでおかしくなって、何度も息を吸い直していた顔。
一つ一つ浮かぶたびに、目元が熱くなった。
彼女に一番似合う顔を、僕は知っていた。
もう一度だけ、そう願ってしまいたかった。その笑顔を壊した僕に、そんな権利なんてもうあるはずもないのに。
『ごめん』
何を思い返しても、最後にはその一言へ戻ってきた。
何に対しての謝罪だったのか、僕には分からない。唇を重ねたことかもしれない。僕を傍に置きすぎたことかもしれない。
どれも、僕の想像でしかなかった。
それでも、もし。
お姉さんが、僕を頼った三年間まで、自分の間違いだったと思っているのなら。
それだけは、違った。
お姉さんは三年かけて、今日、自分の足であの角を越えた。何度も立ち止まり、何度も引き返して。それでも、自分でここまで歩いてきた。
僕がどんな気持ちで隣にいたとしても、あの三年間は、お姉さんが前へ進むために積み重ねた時間だった。
僕のくだらない欲ひとつで、その全部が台無しになるなんて、あっちゃいけなかった。
もう一度、拒絶されても。
お姉さんは、何も悪くない。
その一言だけは、僕の口から伝えなければならなかった。




