↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/14

それでも。

それでも。

013


「来てくれて、ありがとう」


 それは、いつもの言葉だった。


 いつもの声で、いつものように笑って、彼女はそこに立っていた。


 あまりにも、いつも通りだった。


「どうしたの。入らないの?」


 言葉が出なかった。僕が立ち尽くしていると、お姉さんは何事もなかったように扉を大きく開けた。


 もう一度、帰ってと言われると思っていた。今度こそ顔を見せないでと、扉を閉められることも覚悟していた。


 こんなふうに迎えられることだけは、想像していなかった。


「……お邪魔します」


「うん。どうぞ」


 玄関で靴を脱ぎ、リビングへ向かう。


 テーブルの上にあった缶も、二人で使った食器も片づけられていた。昨日の夜の証拠は、もうどこにも残っていなかった。


「あの、昨日は────」


「昨日のことさ、あんまり覚えてないんだよね」


 言葉を被せて、お姉さんは僕に背を向け、そのまま冷蔵庫を開けた。


「ちょっと飲みすぎちゃったみたい。朝、弟君がいなくて、焦って探しちゃった」


 そんな連絡は来ていなかった。彼女が忘れているはずもなかった。


 きっと、これが彼女の優しさだった。最後を昨日のあの顔にしないために、もう一度だけ、いつもの時間を僕にくれようとしている。


 張りつめていた胸が、少しだけ緩んだ。


 彼女が何もなかったことにしてくれるのなら、僕もそういうことにして、もう少しここにいてもいいのだろうか。二人で目を逸らしたまま、もう一度だけその優しさに甘えてしまいたかった。


 伝えるつもりだった言葉が、喉の奥へ戻っていく。


「それで、昨日はいつ帰ったの?」


 お姉さんは二つのグラスへ麦茶を注ぎ、いつも通り僕の分を差し出した。


「……終電より前には、帰りましたよ」


「そっか。全然気づかなかった」


 グラスを受け取り、いつもの席へ座る。一口飲むと、昨日から浅かった息がようやく少し落ち着いた。


 僕はまだ、この部屋で弟君でいられる。


「それで、今日は何する?」


 その言葉が、どうしようもなく嬉しかった。


「……何でもいいですよ」


「じゃあ、夕飯から考えよっか。昨日はカレーだったし、今日は……」


 お姉さんは、そのまま笑っていた。


 僕は、お姉さんの笑った顔が好きだった。笑うときには目元から先にほどけて、少し遅れて頬が持ち上がり、左目の下に残った痕までやわらかく形を変える。三年間、何度も見てきた。


 だから、見間違えるはずがなかった。


 今は口元にだけ力が入っていた。昨日、僕に帰ってと言ったときと同じ、彼女には似合わない偽物だった。


 僕がここにいる限り、お姉さんはこんな顔で笑い続ける。それには耐えられなかった。本当に好きだった笑顔がもう二度と僕へ向けられなくても、この似合わない顔をさせ続けるよりは、ずっとよかった。


「お姉さん」


「なに?」


「お姉さんは、何も悪くありません」


 お姉さんは何も答えなかった。口元に張りついていた笑みだけが、ゆっくりと消えていく。


「お姉さんが、僕なら止めると信じていたことは知っていました」


 グラスを握った彼女の指先が、わずかに動いた。


「昨日、お姉さんが求めていたのは僕じゃなかった。それくらい、分かっていたはずでした」


 それでも、言わなければならなかった。


「でもほんの一瞬だけ、兄の代わりじゃなく、僕自身を求めてもらえたような気がしたんです」


 彼女の顔を見ることはできなかった。


「そう思ったら、嬉しかった」


 認めてしまえば、もう隠せなかった。


「止めなければいけないと分かっていたのに、もう少しだけ、このままでいたいと思った。だから、止めなかった」


 一度、言葉を切る。


「こんなの、何の言い訳にもなりませんけど。……それくらい、お姉さんが好きでした」


 口にしても、胸の内にあったものは何一つ軽くならなかった。


「お姉さんが謝ることなんて、何一つありません。全部、僕が悪いんですよ」


 それを伝えるために、もう一度ここへ来た。


 これ以上を望んではいけなかった。


「昨日は、すみませんでした。もうここには来ません」


 椅子から立ち上がる。


「もう僕がいなくても、きっと歩けます。お姉さんは、強い人ですから」


 兄さんから預かった役目も、もう終わろうとしている。欲を言えば、この先も彼女が元気になっていくところを見ていたかった。それでも、その願いのために、こんな笑顔を作らせてまでここに居続けることはできなかった。


「僕がいなくなれば、こうやって無理に笑わなくていい。僕の為にお姉さんが我慢する必要なんてありません」


「違う」


 背を向けるより先に、声が届いた。


「昨日のこと、全部覚えてる」


「知っています」


「謝ったのは、弟君が止めなかったからじゃない」


 お姉さんは膝の上で両手を握った。指を深く組み合わせたまま、そこへ視線を落とす。


「弟君なら止めてくれるって分かってたから、私は何度でもあんなことができた。どこまで近づいても大丈夫だって、勝手に甘えてた」


「それでも、その信頼を裏切ったのは僕です」


「分かってる。でも、だからって、私がしたことまで全部、弟君が背負わないで」


 組んだ指が、互いを締めつけるように強くなる。


「昨日も、弟君が止めて、いつもみたいに笑って終わるつもりだった」


 声が少しずつ小さくなっていく。


「弟君が止めたくれなくても、ちゃんと私が止まればよかった」


 お姉さんは一度顔を上げたが、僕と目が合う前に俯いた。


「なのに。私はすぐには離れられなかった」


 そこで言葉を切り、組んだ指を見つめる。


「……違う。離れられなかったんじゃない。離れなかったの」


 最後の言葉は、吐いた息に混じった。


「もう少し、あのままでいたかった」


 指先が、膝の上でかすかに震えていた。


「弟君が止めてくれるうちは、私は何も選ばなくてよかった。どこまで近づいても、最後には弟君が冗談に戻してくれたから」


 何度か息を継いでから、お姉さんは続けた。


「あのままでいたいなんて認めたら、もう今まで通りには戻れない。でも、その先を自分で選ぶこともできないい。何もかもわかんなくなって、帰ってなんて言って君を傷つけた」


 片づけられたテーブルの上を、彼女の視線がなぞる。


「朝になって、缶も食器も全部片づけた。何も残ってなければ、昨日より前に戻れるような気がしたの。覚えてないって言って、弟君もそういうことにしてくれたら、またいつも通りに戻れるって」


「戻って、どうするつもりだったんですか」


「昨日、約束したことを全部やりたかった」


 お姉さんは、膝の上で組んだ指を小さく動かした。


「麻婆豆腐を食べて、服を買って、秋になったらコスモスを見に行く。それが終わったら、今度こそ弟君を引き留めないつもりだった。それでちゃんと終わらせるはずだった。私が一人で歩けるようになったら、蒼との約束は終わるから。弟君がここへ来る理由もなくなる。そんなこと、ずっと前から分かってた」


 お姉さんは昨日の続きを確かめるように、ゆっくりと言葉を選んだ。


「あの角を越えられたのは、嬉しかったよ。本当に」


 唇が一度閉じられた。浅く息を吸ってから、また開く。


「でも、このまま歩けるようになったら、弟君はもう来なくなる。それが浮かんで離れなかった」


 深く組み合わせた指が、互いを締めつけるほど白くなっていた。


「当たり前が出来るように、ちゃんとした人間に戻りたかったはずなのに、まだちょっとだけ駄目な私で居たいって。私はきっと、そう思ってた」


 声は掠れていた。それでも、一つも誤魔化そうとはしなかった。


「弟君を引き留める理由が欲しかった。三年も時間を奪って、それでもまだ足りなくて。昨日のことまでなかったことにして、もう少しだけ一緒にいようとした」


 そこで初めて、組んでいた指がほどけた。けれど両手は、逃げ場をなくしたように膝の上へ伏せられたままだった。


「自分は何も選ばないくせに、弟君には、ずっと私を選んでいてほしかった」


 お姉さんがようやく顔を上げる。濡れた目が、それでも僕から逸れなかった。


「私の方が、ずっと醜い」


「違います」


「違わないよ」


「それは、僕がまだ必要だったからでしょう。お姉さんにとって、僕がまだ命綱だったから」


「違う」


 今度の否定は、迷わなかった。


「欲しかったのは、命綱じゃない」


 何度も迷うように唇が開き、呼吸だけを漏らして閉じる。


「蒼の代わりでもない」


 そして初めて、彼女は僕の名前を呼んだ。


「空君と、いたかった」


 空君。


 自分の名前だった。


お姉さんの声で聞くのは、初めてだった。すぐには、そのあとに続いた言葉まで頭に入らなかった。


 僕を呼んだ。そのことだけで、胸が一度、強く鳴った。


「……はい」


 一拍遅れて返事をして、ようやく言葉の全部が追いついてきた。


 空君と、いたかった。


 兄さんではない。兄さんに似た弟でもない。僕と。彼女は、僕を求めてくれていた。


 名前を呼ばれた喜びの上へ、さらに別の喜びが押し寄せた。昨日は認めることさえできなかったものが、今度は逃げ場をなくして胸の中へ広がっていく。


 その言葉で昨日の僕が正しくなるわけではない。それでも、三年間を終わらせたくないと思っていたのが僕だけではなかったことは、もう疑えなかった。


 ただ、彼女が口にしたのは、いたい、ではなく、いたかった、だった。


 僕も先ほど、好きだったと言った。


 まだ、何一つ終わっていないくせに。


 兄さんから借りた理由が終わっても、僕自身の理由までなくなるわけではない。彼女のためでも、兄さんとの約束のためでもなく、僕がこの人の隣にいたい。


 帰るために立ち上がった足で、お姉さんの方へ一歩踏み出す。


「佳奈さん」


 初めて、その名前を呼んだ。


 佳奈さんの前まで歩き、膝の上に伏せられた手の前へ、自分の手を差し出す。何度も繋いできた手なのに、触れずに待つのは初めてだった。


「僕のそばにいてくれませんか」


 佳奈さんの目が、大きく揺れた。


「駄目だよ。私は、蒼の奥さんだから」


「知っています」


「だったら────」


「それでも、僕は佳奈さんと居たいんです」


 差し出した手は、そのままにした。


 佳奈さんは僕の手を見つめ、俯いた。


「空君はさ。きっと、私の事を見過ぎただけ。蒼に頼まれて、三年間も他を見なかっただけだよ」


 しばらく迷ってから、言葉を継ぐ。


「義務で傍にいた時間を、私を好きだった時間だと思い違えてるかもしれない」


「……確かに兄との約束がなかったら、こうはならなかったでしょうね」


 その答えに、佳奈さんがこちらを見た。


「でも、兄さんとの約束だけだったら、家で一人でゲームの練習なんてしません。塩パンを探して店を回ったりもしない。仕事が早く終わるたび、ここへ来られると喜んだりもしません」


 食事をして、ゲームをして、くだらないことで笑う。兄のためだけに続けるには、あまりにも楽しい三年間だった。


「全部、僕が佳奈さんに会いたくてしたことです」


 佳奈さんは何も返さなかった。


「誰と過ごすかも、何に時間を使うかも、僕が決めました。僕の三年を、佳奈さんが勝手に奪ったことにしないでください」


 佳奈さんは、差し出した手と僕の顔を何度か見比べた。やがて行き場をなくしていた片手が、左目の下へ触れる。


「でも、私……火傷の痕だって、一生残るよ」


「知っています」


「綺麗な身体じゃない」


「その痕を見ないふりして、綺麗だと言っているわけじゃありません」


 指に隠された痕を、真っすぐに見つめる。


「この三年間、僕が何度も見惚れた佳奈さんには、ずっとその痕がありました。僕にどう見えるかまで、決めないでくださいよ」


「それに……」


 佳奈さんは頬へ触れた手を下ろし、聞き取れないほど小さな声で続けた。


「……穴兄弟」


「実兄弟です」


「そういう意味じゃない」


「分かっています」


 佳奈さんの口元から、張りつめていた力がわずかに抜けた。笑ったのか確かめるより先に、彼女は俯いた。


 やがて顔を上げたとき、その目には別の痛みが浮かんでいた。


「蒼のことは、忘れられないよ」


 今度の声に、逃げるような迷いはなかった。


「空君の隣にいても、きっと何度も思い出す。これからもずっと、好きなままだよ」


 兄さんの名前を呼ばれただけで、抱いていた熱がすべて冷えた夜を、僕は今でも覚えている。隣にいたって、これからも同じように傷つき、もういない兄を羨むことはあるのだろう。


 それでも、彼女が兄を愛した時間をなかったことにしたいとは思わなかった。


「嫉妬深いんで、きっと平気じゃありません。傷つくこともあると思いますし、僕自身兄と比べちゃうことだってあると思います」


 佳奈さんの目から、雫が一つ落ちた。


「それでも、兄を愛したままの佳奈さんが、僕は好きです。だから、僕のことも、もっと見てください」


 一歩も退かずに、その先を続ける。


「今の佳奈さんに、僕の隣にいてほしいんです」


 佳奈さんは何も答えなかった。


 僕が差し出した手を見つめたまま、何度も口を開く。そのたび、声にならない息だけが漏れた。


 長い沈黙のあと、ようやく小さな音が落ちた。


「……私も」


 膝の上に伏せられていた佳奈さんの手が、ゆっくりと持ち上がる。迷いながら伸びてきた指先が僕の手のひらへ触れ、そのまま重なった。


「空君と、いたい」


 重ねられた指が、かすかに震えていた。


 僕はその手を包む。


「はい」


 佳奈さんの濡れた目元が先にほどけ、少し遅れて頬が持ち上がった。左目の下に残った痕まで、やわらかく形を変えていく。


 今度は、見間違えなかった。


 繋いだ指には、あの角の前で感じたような力はこもっていなかった。


 それでも、どちらからも離そうとはしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。