↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/14

月命日

月命日

 008


「よぉ、元気してたか」


 兄の墓前から戻る途中、竹箒を片手に誠さんが手を上げた。


「お久しぶりです」


 作務衣姿はすっかり板についているのに、頭だけはまだ坊主ではない。住職を親父さんから継ぐまでは、剃らなくても許されているらしい。


 この寺の跡取りで、兄とお姉さんの古い友人でもあった。


「最近、佳奈の様子はどうよ?」


「前に比べたら、随分よくなってきてますよ」


「外に出られるようには?」


「今はまだ、少しだけ。家が見えなくなるところまで行くと、駄目みたいです」


「そうか」


「でも戻ってきた後は、前より早く落ち着けるようになったんですよ」


「それも弟君が健気についてやってるから、なんだろうよ」


「僕はただ一緒に歩いてるだけですよ」


 それ以上は、できなかった。


 手を繋いで、お姉さんの歩幅に合わせる。立ち止まれば、僕も止まる。引き返したければ、そのまま一緒に帰る。


 彼女の手を引いて、先へ進んだことは一度もなかった。


「飯は、ちゃんと食ってる?」


「えぇ、ちゃんと。最近は、僕の分まで作ってくれるくらいです」


「そりゃ、だいぶよくなったな」


「この前は、ハンバーグを作ってくれました」


「蒼の好物だったやつか」


「はい」


 兄のために濃くしていた味を、お姉さんは僕に合わせて薄くした。僕が何気なく話した好みを、覚えてくれていた。兄の好物なのに、僕のための味だった。


「それはよかったじゃないか」


「……そうですね」


 誠さんが、竹箒を動かす手を止める。


「それにしては、浮かない顔をするんだな」


「そう見えますか」


「見えるね。弟君は、佳奈が元気になって欲しくない?」


「そんなわけ、ないでしょう」


「まぁ、そうだよな。知ってる、知ってる。だったらどうして、そんな顔をするんだよ」


 竹箒が、本堂の柱へ立てかけられた。


「……嫌じゃなかったら、話してみろ。愚痴のひとつくらいは聞いてやるよ」


 誠さんは縁側へ腰を下ろし、脇に置かれていた缶珈琲を手に取った。黒い缶の側面には、無糖と書かれていた。


 隣に座る。


 墓地の向こうで、木の葉が揺れていた。風が吹くたび、誠さんが集めたばかりの葉が、また石畳へ落ちていく。


「……自分が間違ってるんですよ。それを分かっているのに、折り合いがつけられない。そういうことが一つあるんです」


「そうか」


 何が間違っているのかは聞かれなかった。だから、言葉を続けることができた。


「例え話ですけど、もし誠さんが十歳年上の先生を好きになったら、どうしますか」


 誠さんの缶珈琲が、口元で止まった。


「……やけに具体的だな」


「お姉さんから聞いた話です」


「佳奈に?」


「昔の知り合いに、そういう人がいたって」


 誠さんは、缶を膝の上へ戻した。


「名前は聞いてません。でも、先生は結婚してたそうです」


「そこまで話してたのか」


「驚きましたか」


「まあ、ちょっとな」


 何に驚いたのかは分からなかった。


 お姉さんがそんな話をしたことか、それとも、僕が急にこんな話を持ち出したことか。


「別に、僕が先生を好きになったわけじゃありません。ただの例え話です」


「だろうな」


「でも、きっと。それくらい、今の僕は間違ってるんですよ」


 誠さんは缶珈琲を見たまま、何も言わなかった。


「先生と生徒で、年も離れてて。しかも、相手は結婚してる。好きになった時点で、駄目だったんですよ」


「好きになった時点で?」


「だって、その先に進んでも、誰も幸せになれないでしょう」


「そうかもしれないな」


「それでも、その人は止まれなかったそうです」


「……そうか」


「間違ってるって分かってたはずなのに」


 誠さんが缶を傾ける。飲み込むまでに、少しだけ時間がかかった。


「その人がしたこと、正しかったと思いますか」


「いや」


 返事は、思ったより早かった。


「正しかったとは思わない」


「だったら、やめるべきだったんですよ」


「やめられたなら、そうしたほうがよかったこともあっただろうな」


「きっと、傷ついたでしょうし」


「傷ついたと思うよ」


「じゃあ、好きになんてならないほうがよかった」


 そこで誠さんが、ようやくこちらを見た。


「それは、別の話だろ」


「何がですか」


「正しいかどうかと、それが無い方がよかったかは、同じじゃない。正しさなんてのは、存在の後にしかないんだから」


「でも、傷ついて何も残らなかった」


「傷ついたからって、それまで全部が無くなるわけじゃない」


「後悔だって、したはずです」


「それは、きっとしただろうな」


 否定はされなかった。


「間違えたこととか。もっと違う言い方をすればよかったとか。聞くのが遅かったとか。そういうのは、たぶん幾らでもあった」


「随分、詳しいですね」


「知り合いの話だからな」


 誠さんは、少しだけ笑った。それでも、楽しそうには見えなかった。


「でも、その先生を好きにならなければよかったとは、思ってないはずだよ」


 缶の縁に、誠さんの指が触れる。


「傷ついたことまで後悔してたら、そこで過ごした時間の行き場がなくなる」


「行き場、ですか」


「一緒に飯を食ったとか。くだらない話をしたとか。そんなものまで、最初からなかったことにはしたくないだろ」


 昨日のハンバーグを思い出す。


 部屋の中で差し出された手を思い出す。


 命綱の点検だと言いながら、必要のない場所で僕の指を掴んだ、お姉さんの手を。


「でも、それを誰かが許せなかったら」


「誰か?」


「……例えばの話です」


「そうだな」


 誠さんは、話を元に戻してくれた。


「好きになった相手に、ずっと大事にしてる人がいたとして。もしその人が、死んでいるとしたら」


 誠さんの視線が、墓地のほうへ向いた。それでも、誰の名前も口にはしなかった。。


「そうなってしまったら、何も、聞けないでしょう。怒るかどうかも。許してくれるかどうかも。そばにいていいのかも」


 兄は、何も言わない。


 月命日になるたびに墓前へ来て、花を替え、水をかける。お姉さんの近況を報告して、外へ出る練習をしていることも話した。


 けれど、彼女が僕のために料理の味を変えたことは、言えなかった。そのことを嬉しいと思ったことも、言えなかった。


「俺はさ、昔、友達を亡くしてるんだよ」


 誠さんは、墓地を見たまま話し始めた。


「お前のお兄さんじゃなくて、高校のときにな」


「……幸助さん、ですか」


「ああ」


 兄とお姉さんと、誠さんと幸助さん。それから、雪さんに、莉音さん。高校の頃、六人はよく一緒にいたと、何度か聞いたことがあった。


 それも、今はもう四人。


「そいつの墓の前で、一度、勝手に許してもらおうとしたことがある」


「許してもらうって」


「俺がしたことをだよ。あいつなら分かってくれる。責めたりしない。そう言わせておけば、少しは楽になれる気がした」


「本当に、そう思ってくれてたかもしれないじゃないですか」


「かもしれないな」


「だったら」


「でも、怒ってたかもしれない。呆れてたかもしれない。そんなことまで俺に聞くなって、笑われたかもしれない」


 誠さんは、そこで一度言葉を切った。


「分からないんだよ。もう、何も聞けないから」


「……はい」


「それを、そいつの大事な人に教えられた。というか、今でもたまに教えられてる」


「何て言われたんですか」


「死んだ人は、何でも許してくれるようになったわけじゃない。ただ、何も言えなくなっただけだって」


 胸の奥で、何かが小さく引っかかった。


 兄なら許してくれる。そんなことは、一度も思えなかった。その逆ばかりを考えていた。


 兄なら嫌がる。兄なら怒る。兄なら、僕に失望する。


 自分が嫌で吐く言葉は、どれも兄の声によく似ていた。


「厳しいですね」


「ああ。あのときは、結構きつかった」


 誠さんは笑った。


「でも、その子には怒る理由があったんだよ。俺が勝手に喋らせてたのは、その子にとっても大事なやつだったから」


「それで、どうしたんですか」


「すぐにどうこうできたわけじゃない」


「じゃあ、どうやって」


「上手くできなかったよ」


 あっさり、そう言った。


「すぐに決められたわけでもないし、ちゃんと諦められたわけでもない。今だって、忘れたわけじゃない」


「それでも」


「ああ」


 誠さんは、手の中の缶珈琲を見た。


「それでも、勝手に答えを作るのは違うんだと思う」


「兄が許してくれるなんて、思うなってことですか」


「それも違う」


 誠さんが首を振る。


「許してくれるって決めつけるのも、怒ってるって決めつけるのも、やってることは同じだろ」


「同じですか」


「本人は、どっちも言ってないんだから」


 風が吹いた。


 集められた葉が一枚だけ、竹箒の近くまで戻ってくる。


「でも、兄は」


 そこまで言って、続きを探した。


 兄は、お姉さんを大切にしていた。


 一生そばにいると約束した。何かあれば頼むと、僕に言った。お姉さんのことを誰よりよく知っていて、誰より大切にしていた。


 だからきっと。


 その先へ続く言葉を、僕はいつも兄の口で作っていた。


「僕は、兄に頼まれたんです」


「知ってるよ」


「お姉さんが一人で立てるようになるまで、そばにいてくれって」


「蒼らしい、身勝手な約束だ」


「でも、僕は」


 言葉が止まる。


 兄に頼まれたから通っている。お姉さんが一人では外に出られないから、手を繋いでいる。生活を支えるために食事をしている。


 それだけなら、まだ正しい理由にできた。


 けれど、味を覚えていてくれたことが嬉しかった。命綱が必要ない部屋の中で手を求められたことが、どうしようもなく嬉しかった。


 そこにもう、兄との約束は関係なかった。


「約束だけじゃ、もうなかった」


 誠さんは、すぐには答えなかった。


 何が違うのか。お姉さんをどう思っているのか。これから、何をしたいのか。


 どれも尋ねられることはなかった。


「そうか」


 それだけだった。


「間違ってますよね」


「俺が決めることじゃない」


「兄なら」


「それも、一緒。俺は蒼を代弁しない」


「じゃあ、僕はどうすればいいんですか」


「弟君はどうしたいんだよ」


「それが分からないから、困ってるんです」


 誠さんは、小さく息を吐いた。


「だったら、まだ決めなくていいんじゃないか」


「決めなくていい?」


「人生、すぐに答えを出せることばっかりじゃないだろ」


「でも、このままじゃ何も変わりません」


「変えろって言ってるわけじゃないよ」


 誠さんは缶珈琲を縁側へ置いた。


「言えないなら、言わなくていい。どうしたいか分からないなら、分からないままでもいい」


「それで、いいんですか」


「いいかどうかは、俺には分からない」


「無責任ですね」


「坊主にだって、分からないことくらいある」


 そう言って、まだ坊主ではない頭を掻いた。


「ただ、答えが出ないからって、今あるものまで捨てる必要はないだろって話だ。一緒に飯を食うとか。話をするとか。外を歩くとか」


「……」


「そういうものを失いたくなくて悩んでるのに、悩んでるせいで今が見えなくなるのは、勿体ないと思うんだよ」


 何も返せなかった。


 お姉さんが兄ではない僕を見てくれた。その一瞬を喜んでしまったからといって、今まで一緒に食べたものまで、間違いになったわけではない。


「死んだやつのことは、忘れなくていい」


 誠さんは、墓地を見た。


「俺も、きっと忘れられない。たぶん一生」


 兄の墓は、ここからでは見えなかった。それでも、そこにあることだけは分かる。


「でも、返事をしない相手に、今あるものまで決めさせなくていいんじゃないか」


「兄を、無視するみたいです」


「無視しろとは言ってない」


「じゃあ」


「今日も来たんだろ」


 誠さんは、墓地のほうを顎で示した。


「来月も、来るつもりなんだろ」


「……はい」


「だったら、蒼を無視してることにはならないだろ」


 そう、誠さんは言い切った。


 僕が彼女を好きになったからといって、兄がいたことまで消えるわけではない。


 それでもまだ、何が正しいかは分からなかった。


「誠さん」


「ん?」


「さっきの、先生を好きになった人の話ですけど」


「ああ」


「本当に、後悔してないと思いますか」


 誠さんは、黒い缶をもう一度手に取った。


「傷ついたとは思うよ」


「はい」


「間違えたことだって、忘れてないだろうな」


「……はい」


「何度だって思い出すんだろう。あの人は何が好きだったとか、どこに一緒に行ったとか」


 誠さんは缶を傾け、珈琲を飲んだ。苦みも一緒に飲みこんでしまう。


「それでも、その時間がなければよかったなんて、思わないんだよ」


「それは、どうして?」


「その人の話だろ。俺に分かるわけない」


 少しだけ、誠さんが笑った。僕も、少しだけ笑った。


「ありがとうございます」


「まだ何も解決してないだろ」


「そうですね」


「じゃあ、礼は早い」


 誠さんは竹箒を取り、さっき戻ってきた葉を集め直した。


「今度、佳奈にも伝えといてくれ。無理に外まで来なくていいけど、たまには連絡くらい返せって」


「分かりました」


「お前もな」


「僕ですか」


「また困ったら来いよ。月命日じゃなくてもいいから」


 そう言われて、もう一度だけ頭を下げた。


 兄は、何も答えてくれない。


 お姉さんが僕のためにハンバーグの味を変えたことも、その手を握り返したことも、きっとこれから先、報告できないままだった。


 それでも。


 今夜も、あの人と一緒にご飯を食べたい。


 その気持ちまで墓前に置いて帰らなくても、たぶんよかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。