月命日
月命日
008
「よぉ、元気してたか」
兄の墓前から戻る途中、竹箒を片手に誠さんが手を上げた。
「お久しぶりです」
作務衣姿はすっかり板についているのに、頭だけはまだ坊主ではない。住職を親父さんから継ぐまでは、剃らなくても許されているらしい。
この寺の跡取りで、兄とお姉さんの古い友人でもあった。
「最近、佳奈の様子はどうよ?」
「前に比べたら、随分よくなってきてますよ」
「外に出られるようには?」
「今はまだ、少しだけ。家が見えなくなるところまで行くと、駄目みたいです」
「そうか」
「でも戻ってきた後は、前より早く落ち着けるようになったんですよ」
「それも弟君が健気についてやってるから、なんだろうよ」
「僕はただ一緒に歩いてるだけですよ」
それ以上は、できなかった。
手を繋いで、お姉さんの歩幅に合わせる。立ち止まれば、僕も止まる。引き返したければ、そのまま一緒に帰る。
彼女の手を引いて、先へ進んだことは一度もなかった。
「飯は、ちゃんと食ってる?」
「えぇ、ちゃんと。最近は、僕の分まで作ってくれるくらいです」
「そりゃ、だいぶよくなったな」
「この前は、ハンバーグを作ってくれました」
「蒼の好物だったやつか」
「はい」
兄のために濃くしていた味を、お姉さんは僕に合わせて薄くした。僕が何気なく話した好みを、覚えてくれていた。兄の好物なのに、僕のための味だった。
「それはよかったじゃないか」
「……そうですね」
誠さんが、竹箒を動かす手を止める。
「それにしては、浮かない顔をするんだな」
「そう見えますか」
「見えるね。弟君は、佳奈が元気になって欲しくない?」
「そんなわけ、ないでしょう」
「まぁ、そうだよな。知ってる、知ってる。だったらどうして、そんな顔をするんだよ」
竹箒が、本堂の柱へ立てかけられた。
「……嫌じゃなかったら、話してみろ。愚痴のひとつくらいは聞いてやるよ」
誠さんは縁側へ腰を下ろし、脇に置かれていた缶珈琲を手に取った。黒い缶の側面には、無糖と書かれていた。
隣に座る。
墓地の向こうで、木の葉が揺れていた。風が吹くたび、誠さんが集めたばかりの葉が、また石畳へ落ちていく。
「……自分が間違ってるんですよ。それを分かっているのに、折り合いがつけられない。そういうことが一つあるんです」
「そうか」
何が間違っているのかは聞かれなかった。だから、言葉を続けることができた。
「例え話ですけど、もし誠さんが十歳年上の先生を好きになったら、どうしますか」
誠さんの缶珈琲が、口元で止まった。
「……やけに具体的だな」
「お姉さんから聞いた話です」
「佳奈に?」
「昔の知り合いに、そういう人がいたって」
誠さんは、缶を膝の上へ戻した。
「名前は聞いてません。でも、先生は結婚してたそうです」
「そこまで話してたのか」
「驚きましたか」
「まあ、ちょっとな」
何に驚いたのかは分からなかった。
お姉さんがそんな話をしたことか、それとも、僕が急にこんな話を持ち出したことか。
「別に、僕が先生を好きになったわけじゃありません。ただの例え話です」
「だろうな」
「でも、きっと。それくらい、今の僕は間違ってるんですよ」
誠さんは缶珈琲を見たまま、何も言わなかった。
「先生と生徒で、年も離れてて。しかも、相手は結婚してる。好きになった時点で、駄目だったんですよ」
「好きになった時点で?」
「だって、その先に進んでも、誰も幸せになれないでしょう」
「そうかもしれないな」
「それでも、その人は止まれなかったそうです」
「……そうか」
「間違ってるって分かってたはずなのに」
誠さんが缶を傾ける。飲み込むまでに、少しだけ時間がかかった。
「その人がしたこと、正しかったと思いますか」
「いや」
返事は、思ったより早かった。
「正しかったとは思わない」
「だったら、やめるべきだったんですよ」
「やめられたなら、そうしたほうがよかったこともあっただろうな」
「きっと、傷ついたでしょうし」
「傷ついたと思うよ」
「じゃあ、好きになんてならないほうがよかった」
そこで誠さんが、ようやくこちらを見た。
「それは、別の話だろ」
「何がですか」
「正しいかどうかと、それが無い方がよかったかは、同じじゃない。正しさなんてのは、存在の後にしかないんだから」
「でも、傷ついて何も残らなかった」
「傷ついたからって、それまで全部が無くなるわけじゃない」
「後悔だって、したはずです」
「それは、きっとしただろうな」
否定はされなかった。
「間違えたこととか。もっと違う言い方をすればよかったとか。聞くのが遅かったとか。そういうのは、たぶん幾らでもあった」
「随分、詳しいですね」
「知り合いの話だからな」
誠さんは、少しだけ笑った。それでも、楽しそうには見えなかった。
「でも、その先生を好きにならなければよかったとは、思ってないはずだよ」
缶の縁に、誠さんの指が触れる。
「傷ついたことまで後悔してたら、そこで過ごした時間の行き場がなくなる」
「行き場、ですか」
「一緒に飯を食ったとか。くだらない話をしたとか。そんなものまで、最初からなかったことにはしたくないだろ」
昨日のハンバーグを思い出す。
部屋の中で差し出された手を思い出す。
命綱の点検だと言いながら、必要のない場所で僕の指を掴んだ、お姉さんの手を。
「でも、それを誰かが許せなかったら」
「誰か?」
「……例えばの話です」
「そうだな」
誠さんは、話を元に戻してくれた。
「好きになった相手に、ずっと大事にしてる人がいたとして。もしその人が、死んでいるとしたら」
誠さんの視線が、墓地のほうへ向いた。それでも、誰の名前も口にはしなかった。。
「そうなってしまったら、何も、聞けないでしょう。怒るかどうかも。許してくれるかどうかも。そばにいていいのかも」
兄は、何も言わない。
月命日になるたびに墓前へ来て、花を替え、水をかける。お姉さんの近況を報告して、外へ出る練習をしていることも話した。
けれど、彼女が僕のために料理の味を変えたことは、言えなかった。そのことを嬉しいと思ったことも、言えなかった。
「俺はさ、昔、友達を亡くしてるんだよ」
誠さんは、墓地を見たまま話し始めた。
「お前のお兄さんじゃなくて、高校のときにな」
「……幸助さん、ですか」
「ああ」
兄とお姉さんと、誠さんと幸助さん。それから、雪さんに、莉音さん。高校の頃、六人はよく一緒にいたと、何度か聞いたことがあった。
それも、今はもう四人。
「そいつの墓の前で、一度、勝手に許してもらおうとしたことがある」
「許してもらうって」
「俺がしたことをだよ。あいつなら分かってくれる。責めたりしない。そう言わせておけば、少しは楽になれる気がした」
「本当に、そう思ってくれてたかもしれないじゃないですか」
「かもしれないな」
「だったら」
「でも、怒ってたかもしれない。呆れてたかもしれない。そんなことまで俺に聞くなって、笑われたかもしれない」
誠さんは、そこで一度言葉を切った。
「分からないんだよ。もう、何も聞けないから」
「……はい」
「それを、そいつの大事な人に教えられた。というか、今でもたまに教えられてる」
「何て言われたんですか」
「死んだ人は、何でも許してくれるようになったわけじゃない。ただ、何も言えなくなっただけだって」
胸の奥で、何かが小さく引っかかった。
兄なら許してくれる。そんなことは、一度も思えなかった。その逆ばかりを考えていた。
兄なら嫌がる。兄なら怒る。兄なら、僕に失望する。
自分が嫌で吐く言葉は、どれも兄の声によく似ていた。
「厳しいですね」
「ああ。あのときは、結構きつかった」
誠さんは笑った。
「でも、その子には怒る理由があったんだよ。俺が勝手に喋らせてたのは、その子にとっても大事なやつだったから」
「それで、どうしたんですか」
「すぐにどうこうできたわけじゃない」
「じゃあ、どうやって」
「上手くできなかったよ」
あっさり、そう言った。
「すぐに決められたわけでもないし、ちゃんと諦められたわけでもない。今だって、忘れたわけじゃない」
「それでも」
「ああ」
誠さんは、手の中の缶珈琲を見た。
「それでも、勝手に答えを作るのは違うんだと思う」
「兄が許してくれるなんて、思うなってことですか」
「それも違う」
誠さんが首を振る。
「許してくれるって決めつけるのも、怒ってるって決めつけるのも、やってることは同じだろ」
「同じですか」
「本人は、どっちも言ってないんだから」
風が吹いた。
集められた葉が一枚だけ、竹箒の近くまで戻ってくる。
「でも、兄は」
そこまで言って、続きを探した。
兄は、お姉さんを大切にしていた。
一生そばにいると約束した。何かあれば頼むと、僕に言った。お姉さんのことを誰よりよく知っていて、誰より大切にしていた。
だからきっと。
その先へ続く言葉を、僕はいつも兄の口で作っていた。
「僕は、兄に頼まれたんです」
「知ってるよ」
「お姉さんが一人で立てるようになるまで、そばにいてくれって」
「蒼らしい、身勝手な約束だ」
「でも、僕は」
言葉が止まる。
兄に頼まれたから通っている。お姉さんが一人では外に出られないから、手を繋いでいる。生活を支えるために食事をしている。
それだけなら、まだ正しい理由にできた。
けれど、味を覚えていてくれたことが嬉しかった。命綱が必要ない部屋の中で手を求められたことが、どうしようもなく嬉しかった。
そこにもう、兄との約束は関係なかった。
「約束だけじゃ、もうなかった」
誠さんは、すぐには答えなかった。
何が違うのか。お姉さんをどう思っているのか。これから、何をしたいのか。
どれも尋ねられることはなかった。
「そうか」
それだけだった。
「間違ってますよね」
「俺が決めることじゃない」
「兄なら」
「それも、一緒。俺は蒼を代弁しない」
「じゃあ、僕はどうすればいいんですか」
「弟君はどうしたいんだよ」
「それが分からないから、困ってるんです」
誠さんは、小さく息を吐いた。
「だったら、まだ決めなくていいんじゃないか」
「決めなくていい?」
「人生、すぐに答えを出せることばっかりじゃないだろ」
「でも、このままじゃ何も変わりません」
「変えろって言ってるわけじゃないよ」
誠さんは缶珈琲を縁側へ置いた。
「言えないなら、言わなくていい。どうしたいか分からないなら、分からないままでもいい」
「それで、いいんですか」
「いいかどうかは、俺には分からない」
「無責任ですね」
「坊主にだって、分からないことくらいある」
そう言って、まだ坊主ではない頭を掻いた。
「ただ、答えが出ないからって、今あるものまで捨てる必要はないだろって話だ。一緒に飯を食うとか。話をするとか。外を歩くとか」
「……」
「そういうものを失いたくなくて悩んでるのに、悩んでるせいで今が見えなくなるのは、勿体ないと思うんだよ」
何も返せなかった。
お姉さんが兄ではない僕を見てくれた。その一瞬を喜んでしまったからといって、今まで一緒に食べたものまで、間違いになったわけではない。
「死んだやつのことは、忘れなくていい」
誠さんは、墓地を見た。
「俺も、きっと忘れられない。たぶん一生」
兄の墓は、ここからでは見えなかった。それでも、そこにあることだけは分かる。
「でも、返事をしない相手に、今あるものまで決めさせなくていいんじゃないか」
「兄を、無視するみたいです」
「無視しろとは言ってない」
「じゃあ」
「今日も来たんだろ」
誠さんは、墓地のほうを顎で示した。
「来月も、来るつもりなんだろ」
「……はい」
「だったら、蒼を無視してることにはならないだろ」
そう、誠さんは言い切った。
僕が彼女を好きになったからといって、兄がいたことまで消えるわけではない。
それでもまだ、何が正しいかは分からなかった。
「誠さん」
「ん?」
「さっきの、先生を好きになった人の話ですけど」
「ああ」
「本当に、後悔してないと思いますか」
誠さんは、黒い缶をもう一度手に取った。
「傷ついたとは思うよ」
「はい」
「間違えたことだって、忘れてないだろうな」
「……はい」
「何度だって思い出すんだろう。あの人は何が好きだったとか、どこに一緒に行ったとか」
誠さんは缶を傾け、珈琲を飲んだ。苦みも一緒に飲みこんでしまう。
「それでも、その時間がなければよかったなんて、思わないんだよ」
「それは、どうして?」
「その人の話だろ。俺に分かるわけない」
少しだけ、誠さんが笑った。僕も、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「まだ何も解決してないだろ」
「そうですね」
「じゃあ、礼は早い」
誠さんは竹箒を取り、さっき戻ってきた葉を集め直した。
「今度、佳奈にも伝えといてくれ。無理に外まで来なくていいけど、たまには連絡くらい返せって」
「分かりました」
「お前もな」
「僕ですか」
「また困ったら来いよ。月命日じゃなくてもいいから」
そう言われて、もう一度だけ頭を下げた。
兄は、何も答えてくれない。
お姉さんが僕のためにハンバーグの味を変えたことも、その手を握り返したことも、きっとこれから先、報告できないままだった。
それでも。
今夜も、あの人と一緒にご飯を食べたい。
その気持ちまで墓前に置いて帰らなくても、たぶんよかった。




