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彼の好きな味

彼の好きな味

007


「なかなか上手くはいかないね」


 夕食のハンバーグを箸でつまみながら、彼女は言った。


 僕の手元には、借り物の、いつもの青いマグカップ。少し前まで呼吸を乱していたお姉さんの声には、もういつもの軽さが戻っていた。


 お姉さんの外出の練習に付き合うようになって、しばらく経っていた。


 調子のいい日もあれば、悪い日もある。あの角の近くまで歩ける日も、玄関を出たところで足が止まる日もあった。


 ただ、変わらないことが一つあった。


 どれだけ調子が良くても、アパートが見えなくなるあの角だけは、どうしても越えられなかった。


 角を曲がったところで、部屋がなくなるわけじゃない。数歩戻れば、また建物は見える。走れば、すぐに玄関まで辿り着ける。


 それでも、そこに近づくにつれて、お姉さんの歩みは遅くなった。


 何度も後ろを振り返る。建物がまだそこにあることを確かめて、もう一度前を向く。繰り返した末に、足が動かなくなる。


『戻らなきゃ』


 視線の焦点が合わなくなり、呼吸が浅くなる。


 肩に手を添えても、声をかけても、彼女の口から出てくる言葉は変わらなかった。


『戻らなきゃ』


 肩を貸して部屋へ戻ったことも、途中で座り込んだまま動けなくなって、抱えて帰ったこともあった。


 それでも、お姉さんに諦める選択肢はなかった。


 玄関を出たところで引き返した翌日も、自分から靴を履いた。昨日より手前で引き返した日も、次はもう少し進めるかもしれないと言った。


 本当に、強い人だと思う。


 外へ出るときは、必ず手を握った。


 最初は僕からだった。玄関で靴を履き、鍵を持ったお姉さんへ手を差し出す。彼女はそれを見て、少しだけ迷ってから、その上に自分の手を重ねた


 いつからか、靴を履いたお姉さんのほうから手を伸ばすようになった。


『弟君は、私の命綱だから』


 そう言って、彼女は僕の手をとった。


 進む距離は、いつもお姉さんが決めた。


 歩けば僕も歩く。足を止めれば、僕も止まる。戻りたいと言われれば、繋いだ手を離さないまま部屋へ戻った。


 僕から、その手を前へ引いたことはなかった。


「そう簡単にはいきませんよ」


 皿の上で、ハンバーグを一口分に切る。


「三年間、解決しなかったものなんですから」


「それは、そうなんだけど」


 お姉さんは箸の先で、付け合わせの人参を転がした。


 オレンジ色の欠片が皿の縁まで動いて、またハンバーグの隣へ戻る。口調ほど、諦めている顔ではなかった。


「それでも、だいぶ立ち直りは早くなりましたよね」


「失敗してから?」


「そういう言い方をするなら」


「じゃあ、失敗するのが上手くなってるだけじゃない」


「やり直すのが上手くなってるんです」


 お姉さんの箸が止まった。


 こちらを見て、それから、また人参へ視線を落とす。


「……弟君、採点甘くない?」


「お姉さんが、自分に厳し過ぎるだけですよ」


 最初の頃は、部屋へ戻ってもすぐには動けなかった。


 一時間近く、僕の胸元から顔を上げられない日もあった。呼吸が落ち着いても、身体の強張りはなかなか解けない。肩の震えが止まってからも、落ち込んだ気分は長く残った。


 それが練習を重ねて、半分になり、さらに短くなった。


 波はあったけれど、部屋へ戻って水を飲み、落ち着いてから台所へ立てる日が増えていた。


 今、目の前に並んでいるハンバーグだって、部屋へ戻ってからお姉さんが作ったものだった。


 僕の胸に収まっている時間は、前より短くなった。


 きっと、それが正解だった。


 彼女が前に進んでいる。彼女の役に立てている。それが嬉しかった。そこに、嘘はなかった。


 苦しい時間なんて、一秒でも短いほうがいいに決まっている。


ただ、落ち着いたあと、僕の胸元から離れていく温度だけは、少し名残惜しかった。そんなことを考えてしまう理由を、僕はもう知っていた。


「ねぇ、弟君。手、見せて」


「手ですか」


「うん」


 お姉さんが箸を置いた。


 二人分の皿の間から、こちらへ手が伸びてくる。外へ出るときと同じように、掌は上に向いていた。


 断る理由も見つからなくて、自分の手を重ねると、彼女の指が僕の指を包んだ。外で握ったときより、少しだけ温かかった。


「……うん。大丈夫」


「何がですか」


「命綱。ちゃんとあるか、確かめてた」


 あるに決まっている。


お姉さんの目の前に座っているのだから。


そう返せばいいはずなのに、彼女の指が触れている場所ばかり、やけに鮮明に分かってしまう。


 視線を青いマグカップへ逃がした。


「ここ、外じゃありませんよ」


「わかってるよ」


 お姉さんが、僕の顔を見る。


「命綱なんだから、確かめてたっていいでしょ」


 指先に、少しだけ力がこもる。


「大事に使わないと」


 返事ができなかった。


 外へ出るときに握る手は、彼女を支えるためのものだった。


 今は部屋の中にいる。戻らなければならない場所も、越えられない角もない。


 それでも、お姉さんは僕の手を握っていた。


離してほしいわけじゃなかった。


ただ、このままでいてほしいと望むことのほうが、きっと許されなかった。


「……もう、いいですか」


 お姉さんは、ほんの少しだけ黙った。


「うん」


 彼女が手を離す。そのまま、何事もなかったように箸を持ち直した。掌に残った熱は、なかなか消えなかった。


 僕も箸を持ち直す。ハンバーグを口に運ぶと、いつもより少しだけ味が薄かった。


「これ、味変えました?」


「お、よく分かったね」


「兄なら、ソースを足してますよ」


「足すね。味見もしないで」


 お姉さんは、呆れたように笑った。困らされたはずの話なのに、その声には少しも棘がない。


「怒っても、次作るときには忘れてるし」


「兄らしいですね」


「そういうところ、全然言うこと聞かなかった」


 箸の先でハンバーグを切りながら、お姉さんが続ける。その視線は、自分の皿へ落ちたままだった。


「でも、弟君は濃いの、あんまり好きじゃないでしょ」


 箸が止まった。


「……覚えてたんですか」


「前に言ってたじゃん」


 何でもないことのように言って、お姉さんは人参を口へ運んだ。


 話したのは、一度だけだった。


 兄は味の濃いものが好きだったけれど、僕はもう少し薄いほうが好きだ。何のついでだったかも忘れたほど、何気なく口にしただけだった。


 お姉さんは、それを覚えていてくれた。


 兄の好きだったハンバーグを、僕の好みに合わせて作っていた。


 兄に似ているところではない。兄とは違う、僕のことを覚えていた。


 上手く顔を作れなかった。


 それを嬉しいと思ってしまったことが、苦しかった。


 皿へ視線を落とした。今の顔は見せられなかった。


「おーおー、そんな美味いか」


 いつもと同じ、揶揄う声だった。どうして僕が顔を上げられないのか、お姉さんは訊かなかった。


「ええ」


 喉の奥が詰まった。


「とっても、美味しいです」


「ちゃんと、おかわりもあるから」


「もらいます」


 箸を握り直した。


「必ず」


 ただ美味しいだけなら、よかったのに。

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