一人で立てるまで
一人で立てるまで
006
心が跳ねていた。理由は職場を定時に上がれたから、それだけではなかったと思う。
いつものパン屋へ寄る。紙袋の中には、塩パンが三つ。
二つはお姉さんの分で、一つは僕の分だった。そう伝えたところで、彼女はきっと三つとも自分の前に並べる。取り返そうとすれば、面白がって笑うのだろう。
その顔が浮かんだ。
胸の奥が、小さく鳴る。
知らないままでいられた頃なら、それだけのことだった。
けれど、一度気づいてしまえば、もう目を背けられなかった。彼女の部屋へ向かう足取りも、次に何を言われるのかを考える時間も、前と同じではいられない。
だからといって、僕が何かを変えるつもりはなかった。
いつも通り、兄の話を聞く。いつも通り、世話を焼く。塩パンを取り上げられれば文句を言って、揶揄われたら適当に言い返す。
それくらいなら、きっとできる。
十分ほど前に送ったメッセージに、まだ返事はなかった。
きっと彼女は、いつも通り夕食でも作っているのだろう。
早く着いたら、何か手伝えばいい。冷蔵庫から食材を出して、皿を並べて、いつもの青いマグカップに水を注ぐ。
そうやって、いつもの顔で会えばいい。
路地を抜けて、いつもの角が近づいてくる。その先には、見慣れたアパートが見えるはずだった。
玄関まで、あと一分。
それだけあれば、うるさいくらいに鳴っている胸だって、ちゃんと抑えてしまえるはずだった。
そう思っていた。
道路の端に座り込んだ、お姉さんを見るまでは。
街灯の下で膝を抱え、俯いている。肩に落ちた髪が揺れていた。
違った。揺れているのは髪ではなく、身体のほうだった。
「……お姉さん?」
返事はなかった。駆け寄って彼女の前に膝をつく。
「お姉さん、どうしたんですか」
肩に触れた。身体が、ひどく強張っていた。
顔が上がる。
目は開いていた。僕を見ているはずなのに、視線が合わない。唇だけが、かすかに動いていた。
「……戻らなきゃ」
「何があったんですか」
「……」
息が浅かった。
肩が何度も上下している。胸元を掴んだ指が震え、もう片方の手では鍵を握り締めていた。
「お姉さん」
「もどらなきゃ」
「分かりました。もう大丈夫ですから。家に戻りましょう」
それ以外、彼女は何も言わなかった。
彼女の手から鍵を受け取り、どうにか部屋へ戻った。玄関に座り込んでも、お姉さんは僕の服を離さなかった。
背中に閉じた扉が当たっている。脱ぎかけた靴は、二人分とも玄関に散らばっていた。紙袋は足元に転がり、持ち手が折れ曲がっている。
お姉さんは、僕の胸元に顔を押しつけていた。
「着きましたよ」
背中に手を添える。それでも、お姉さんの指が、シャツを強く掴んだ。
「戻らなきゃ」
「戻ってきましたよ」
「でも」
「ここにいます」
髪が顎に触れた。
「お姉さんも、僕も。ここにいます」
抱え込んだ身体は、熱かった。浅い呼吸が胸元に当たるたび、彼女の震えが服越しに伝わった。
金曜の夜とは違う。酔っているわけでも、甘えているわけでもない。ただ怖くて、縋れるものを離せずにいるだけだった。
それでも、胸の奥が落ち着かなかった。
彼女を支えているはずの腕に、余計な力が入る。近すぎる呼吸と、額の重みを意識したところで、何になるわけでもない。
「大丈夫です」
もう一度言って、背中を撫でた。彼女が頼れる人間でいればよかった。
それだけでいい。
お姉さんの呼吸は、すぐには戻らなかった。
短く吸って、吐く前にもう一度吸う。胸元を掴む手が少し緩んだかと思えば、また同じ場所に力がこもる。
背中を撫でて、大丈夫だと繰り返す。
それでも、しばらくのあいだ、彼女は何も聞こえていないようだった。
部屋の奥で冷蔵庫が低く鳴っていた。
どこかを走る車の音が近づいて、遠ざかる。玄関の扉の向こうで、誰かの靴音が一度だけ止まった。
やがて、お姉さんの呼吸が少しずつ長くなった。
乱れていた肩の動きが収まる。シャツを握る指先からも、ようやく強張りが溶けていった。
「……弟君」
胸元で声がした。
「はい」
「ごめん」
「いいですよ」
「服」
彼女は掴んでいたところを見た。
「ぐちゃぐちゃにしちゃった」
「気にしてません」
「……うん」
返事をしても、お姉さんは離れなかった。
僕も、背中から手を退けなかった。
外を、もう一台車が通り過ぎた。
「何があったか、聞いてもいいですか?」
「……外に出た」
「それは、なんとなくわかりますけど」
「だよね」
彼女の笑おうとした声は、上手く形にならなかった。以前何度か聞いた、無理をした声だった。
「そろそろ出ないと、前に進まないと、って思ってたんだよね」
お姉さんは僕の胸元を見たまま続けた。
「今日は調子が良かったんだよ。玄関を出て、鍵も閉めて。建物の前まで行って」
「はい」
「もうちょっとだけなら、歩けるかなって。弟君が来る前には、戻るつもりだったんだけど」
「はい」
「角のところまでは行けたの」
彼女の指が、シャツの皺をなぞる。
「そこまでは、まだ部屋が見えてたから」
お姉さんは、そこで言葉を止めた。
「曲がったら、見えなくなっちゃって」
指先が止まる。
「たったそれだけなのに、急に駄目になった」
「……はい」
「戻らなきゃって。それしか考えられなくなって」
彼女は目を閉じた。
「戻ったって、蒼はいないのに」
喉が、小さく震えた。
「とっくに分かってた。もう死んじゃったことも、部屋で待ってないことも。そんなの、ずっと前から」
「はい」
「でも、戻らなきゃって。早く戻らないと、また間に合わないって」
お姉さんの息が、また短くなった。
「もういいです」
「よくない」
「今はそれで十分です」
「全然、十分じゃないよ」
お姉さんが顔を上げる。目元が濡れていた。
「もう三年だよ」
声が揺れる。
「三年も経ってるのに、私、まだ蒼のお墓にも行けてない」
「お姉さん」
「四十九日も行けなかった。お墓ができたって聞いたときも、一周忌も、その次も」
頬を伝った雫が、僕のシャツに落ちた。
「みんな、ちゃんと会いに行ってるのに」
「それは」
「私は一回も行けてない」
彼女は首を振った。
「行かなきゃいけないのに。話したいことだっていっぱいあるのに」
声が途切れる。
「結婚したのに」
服を掴む指が、もう一度強くなった。
「一生一緒にいるって言ったのに。死んだときもそばにいられなくて、お葬式にも行けなくて、そのあとだって、一回も」
「お姉さんのせいじゃありません」
「私のせいだよ」
「違います」
「だって、私が行けてないんだから!」
声が狭い玄関に響いた。
お姉さんは自分の口元を押さえた。息を吸おうとして、喉が引きつる。
「……ごめん」
「謝らなくていいです」
「ごめん、違う。弟君に怒ってるわけじゃなくて」
「分かってます」
「そうじゃなくて」
何かを言おうとして、言葉にならない。お姉さんは逃げ場を求めるように、僕の胸元へ顔を伏せた。
「自分が嫌なの」
くぐもった声が、服越しに伝わった。
「蒼、絶対に心配してる。ちゃんとご飯食べてるかとか、仕事してるかとか、私が一人で大丈夫かとか」
彼女の肩が小さく揺れる。
「ちゃんと大丈夫だよって言いたいのに」
言葉と一緒に、息が崩れた。
「全然、大丈夫じゃない」
背中を撫でた。返す言葉は見つからなかった。
「弟君にだって、ずっと迷惑かけてる」
「迷惑じゃありません」
「迷惑だよ」
「僕が勝手に来てるだけです」
「簡単に言わないで」
お姉さんが顔を上げる。
「仕事が終わったら、いつも来てくれて。買い物もしてくれて、ご飯も付き合ってくれて」
「僕は」
「この前、結婚はいいよって言ったの、私だよ」
目元を擦った指先が、また濡れた。
「弟君にだって、やりたいことがあるでしょ。会いたい人とか、好きになる人とか。そういうの、ちゃんと大事にしなきゃいけないのに」
胸の奥が詰まった。
「私のせいで、全部、できなくなってる」
「そんなことはありません」
「あるよ」
「ありません」
「今はなくたって、きっと可能性を潰してる」
お姉さんは、泣きながら首を振った。
「私が一人で何もできないから」
「何もできないわけじゃ」
「できてない」
声が擦れていた。
「蒼のところにも行けない。弟君のことも、いつまでも引き留めてる。外に出るくらい、普通なら誰だってできるのに」
彼女の額が、僕の肩に当たった。
「なんで、私だけできないの」
答えは出せなかった。
外に出れば、兄が死んだ日へ戻される。
彼女にとってそれは、ただ玄関を開けて歩くだけのことではない。けれど、そう伝えたところで、お姉さんが自分を許せるわけではなかった。
「もう、こんな私、嫌だ」
彼女の手が、僕の服を握り締めた。
「ちゃんとしなきゃいけないのに」
背中へ回した腕に、少しだけ力を込めた。
お姉さんは涙を零した。息を失うことはなかったけれど、それはすぐには止まらなかった。
肩が震えるたび、背中を撫でた。
部屋の奥に置かれた時計の針が、何度も小さく鳴っている。足元の紙袋は横倒しのままだった。口から覗いた包装が、玄関の灯りを薄く反射していた。
どれくらい経ったのかは分からない。胸元を掴んでいた指先が、ようやく緩んだ。
「……ごめん」
「謝らなくていいです」
「今日、そればっかりだね」
「何度だって、言いますよ」
お姉さんが、赤くなった目元を押さえた。ポケットからハンカチを取り出して、彼女に渡す。
「どうぞ」
「……ありがと」
ハンカチで目元を覆う。泣いたあとの浅い呼吸が、ゆっくりそれでも確かに整っていった。
「外へ出るなら」
お姉さんが、ハンカチの上からこちらを見た。
「僕がいるときでいいでしょう」
「それじゃ、意味ないよ」
「どうしてですか」
「弟君がいなくても、できなきゃ」
お姉さんはハンカチを下ろした。
「一人で立てるようにならないと」
「今日、外へ出たじゃないですか」
「途中で動けなくなった」
「それでも、出たでしょう」
「帰れなかった」
「前は、玄関の先へも行けなかったじゃないですか」
お姉さんが黙った。
「建物の外まで行って、角のところまで歩いた」
「……それだけ」
「それだけじゃありません」
脱ぎかけた彼女の靴が、玄関の端に転がっている。白い紐の先に、黒い砂がついていた。
「僕がいなくたって、きっとお姉さんは立てます」
お姉さんがこちらを見る。
「それでも、立てるようになるまで、僕が隣で世話を焼いたっていいでしょう」
「でも」
「一人でやらないと意味がないなんて、兄は言ってませんでした」
「……蒼が?」
「お姉さんは強いから、すぐ一人で立てるって」
お姉さんの視線が落ちた。
「すぐ、なんて嘘だったけど」
「兄の言うことですから。見積もりが甘かったんでしょう」
「三年も?」
「大口叩くのは、いつものことだったじゃないですか」
お姉さんの口元が、ほんの少しだけ動く。
「……そう、だったね」
「だから、もう少しくらいかかってもいいんです」
「もう少しって、どれくらい」
「お姉さんが大丈夫になるまで」
「これ以上、弟君の時間を奪うわけにはいかない」
「僕が勝手にいるだけでしょう」
「でも」
「これは兄との、約束ですから」
お姉さんは黙った。
僕の顔を見て、それから握ったハンカチへ視線を落とした。
「……そっか」
彼女の指が、布の端を摘まむ。
「兄が僕に残した約束ですから、中途半端にはしたくないんですよ」
「……うん」
お姉さんは小さく頷いた。
「……じゃあ、もう少しだけ」
「はい」
「付き合ってくれる?」
「そのつもりです」
「……うん」
お姉さんは、ようやく僕から身体を離した。
背中に添えていた手を下ろす。胸元に残っていた熱が、少しずつ薄れていった。
玄関の隅で、紙袋が倒れている。手を伸ばして起こすと、お姉さんがその中を覗いた。
「塩パン」
「三つです」
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないでしょう」
紙袋の口は潰れて、持ち手にも皺が寄っていた。中のパンは、少し形が崩れている。
「一つ、ぺちゃんこかも」
「僕の分にします」
「いいの?」
「潰れてないふわふわの方が、好きでしょう」
「うん、好き」
お姉さんが、少しだけ笑った。僕も笑った。
お姉さんが一人で立てるようになるまで、隣にいる。そのためなら、何度だって兄の名前を口にできた。
彼女が安心して頷いてくれる限り、僕はまだ、彼女の隣にいられた。




