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何もなかったことに

何もなかったことに

 005


「昨日さ、私、何か変なことしてなかったよね?」


 朝食の途中だった。


 カーテンの隙間から差し込む光が、テーブルの端を白く照らしている。昨夜いくつも並んでいた空き缶は、もう見当たらなかった。代わりに、半分に切ったトーストと目玉焼きが、二人分の皿に乗っていた。


 お姉さんは白いマグカップを両手で包んだまま、僕のほうを見ていた。


「変なこと、ですか」


「うん」


「お姉さんはふにゃふにゃしてましたよ」


「ふにゃふにゃ?」


「酔ったら、いつもそうなるじゃないですか」


「そうじゃなくて」


「他に何かあるんですか」


 お姉さんは口を開きかけて、やめた。マグカップの持ち手を指先で引っかく。短い爪が陶器に当たって、小さく鳴った。


「……やっぱいい」


 昨夜、彼女は僕の胸元で眠った。


 兄の名前を呼んでから、しばらく僕の肩に頬を預けていた。首に回された腕からゆっくりと力が抜けて、やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。


 しばらく動けなかった。


 膝の上には、まだ彼女の重みが残っていた。髪が首元に触れて、息を吸うたび、酒の甘い匂いがした。抱いた身体は温かいままなのに、僕の熱だけがどこから冷えていったのか分からなかった。


 テレビの画面は、いつの間にか暗くなっていた。エンドロールが終わったあとの黒い画面に、重なった二人分の輪郭だけが映っていた。


 安心しきった寝顔だった。


 僕の胸元に頬を寄せたまま、彼女は何の疑いもなく眠っていた。そこにいるのが誰なのか、もう確かめる必要もないみたいに。


 首に絡んでいた指を一本ずつ外した。起こさないように背中へ腕を回し、膝の裏を支えて抱き上げる。


 ベッドへ下ろすと、お姉さんは小さく身じろぎして、枕に頬を押しつけた。掛け布団を肩まで引き上げても、目を覚ますことはなかった。


 それだけだった。


 彼女が心配するようなことは、何もなかった。


 それでも、眠った彼女の顔を見ていることができなくて、逃げるようにソファへ戻った。目を閉じても、眠りは浅いままだった。


「昨日のこと、あんまり覚えてないんだよね」


 お姉さんがトーストの端を小さくちぎる。


「飲みすぎです」


「弟君だって飲んでたじゃん」


「僕はちゃんと、覚えてますよ」


「全部?」


「たぶん」


「そっか」


 ちぎったトーストが口へ運ばれる。何度か噛んで、白いマグカップで流し込んだ。


「なんか、すっごい寂しかった気がするんだよね」


「酒が入ったら、だいたいいつもそうじゃないですか」


「人を寂しいヤツみたいにいうなよ」


「違うんですか」


「違わないけど」


 お姉さんは小さく笑ったあと、もう一度だけ僕の顔を見た。


 酔うと、お姉さんは誰かにくっつきたがった。肩へ頭を預けて、腕を抱え込んで、触れている場所が多いほど落ち着いた顔になる。


 兄がいた頃、その先で二人がどうしていたのかは知らない。


 知らなくたって、夫婦だった二人の夜を想像することくらいはできた。


 だから彼女が、何を確かめたいのかも分かっていた。


「……もしかしたらさ、弟君にキスの一つでもしちゃったんじゃないかと」


 トーストをちぎる指が止まっていた。お姉さんは僕の返事を待つあいだ、皿の上を見ていた。


「そんなこと、させるわけないでしょう」


「……だよね」


「自衛くらいはできます」


「……でも、期待くらいはしたでしょ?」


 お姉さんは顔を上げて、面白がるように目を細めた。いつもの、こちらの返事を先回りして待っている顔だった。


「馬鹿なこと言わないでください」


 いつも通り、返せたと思う。


 お姉さんは何も気づかず、もう一口トーストをかじった。皿の端に落ちた小さな欠片を指先で集め、そのまま口へ運ぶ。


「弟君はさ、真面目だもんね」


「当たり前です」


「信用してるよ」


 青いマグカップへ手を伸ばした。


 返事の代わりに口をつける。紅茶はまだ温かかった。飲み込んだあとも、その温度だけが喉の奥に残った。


「それより、部屋着はもう少し胸元の詰まったものにしてください」


「見たんだ」


「見えたんです」


「スケベ」


「そういう話じゃありません」


「じゃあ、どういう話?」


「兄に顔向けできませんから」


 お姉さんは、少しだけ笑った。


「そっか」


 何もおかしなことは言っていない。


 兄に顔向けできないようなことも、一つもなかった。


 ただ、口にした言葉だけが、いつまでも喉の奥に残っていた。


「ごちそうさま」


 お姉さんが空になった皿をこちらへ寄せる。目玉焼きの黄身が、白い皿の上に薄く残っていた。


「置いといてください。洗いますから」


「いいの?」


「朝食を作ってくれたお礼です」


「じゃあ、任せちゃおうかな」


「どうぞ」


「割らないでよね」


 お姉さんの視線が、テーブルに並んだマグカップへ落ちる。


「そんなに信用ないですか」


「だって、見つけるの大変だったし」


「分かってます」


 白いマグカップに残っていた紅茶を飲み干して、お姉さんはソファへ戻った。リモコンを手に取ると、朝の情報番組が小さな音で流れ始める。


 僕も自分の分を飲み干し、皿と一緒に二つのマグカップを流しへ運ぶ。蛇口を捻ると、冷たい水が指のあいだを抜けていった。


 皿に残っていた黄身を落とし、スポンジへ洗剤を垂らす。泡が膨らむにつれて、トーストの焦げた匂いが柑橘の香りに変わった。


 青いマグカップを手に取る。持ち手の下に、小さな白い星が一つ。


 これが割れたら、きっと彼女は悲しむ。


 もう一度同じものを探すのかもしれない。それとも、片方だけになった白いマグカップごと、食器棚の奥へ仕舞ってしまうのだろうか。


 濡れた陶器が、指先で僅かに滑った。


 持ち直す。


 泡を洗い流し、いつもより慎重に水切り籠へ置いた。


 その隣に、白いマグカップを並べる。持ち手の下には、同じ形をした青い星が一つ。


 二つで一組だった。


 昨日までだって、知っていた。


 蛇口を止めても、指先から水が落ちていた。


「弟君、今日どうするの?」


 ソファから声が飛んでくる。


「帰りますよ」


 布巾へ手を伸ばす。


「もう?」


 そのまま、指先が止まった。


「昨日からいるんですから、もう十分でしょう」


「別に、十分とは言ってないけど」


 テレビでは、どこかの店の新作スイーツが紹介されていた。お姉さんは画面を見たまま、ソファの背にもたれている。


「着替えもありませんし、一度帰らないと」


「そっか」


 それだけ言って、お姉さんはテレビへ視線を戻した。


 もう少しいてほしい。


 たったそれだけの意味を、都合よく受け取りそうになった。


 彼女は、一人になるのが寂しいだけだ。


 僕でなければならない理由なんて、どこにも見つからなかった。


「また来る?」


「えぇ、近いうちに」


 考えるより先に答えていた。


「仕事が早く終われば、月曜にでも」


「いつも通り?」


「いつも通りです」


「そっか」


 今度は、少しだけ嬉しそうに聞こえた。


 僕はもう一度、青いマグカップを見た。


 持ち手の先に残った水滴が膨らんで、水切り籠の底へ落ちた。隣の白いマグカップには、朝の光が当たっていた。


 いつも通りに通って、いつも通りに兄の話を聞いて、いつも通りに彼女の寂しさを埋める。


 それでいい。


 そうしていれば、きっと、僕が何を期待したのかも、誰にも知られずに終わってくれる。


 お姉さんにも。


 兄にも。


 僕自身にも、いつか分からなくなるかもしれない。


「今度、何か欲しいものあります?」


「塩パン」


「またですか」


「駄目?」


「二つ買ってきます」


「三つ」


「お姉さんは一つじゃ足りないんでしたね」


「学んでくれてて、よろしい」


 お姉さんが笑った。僕も、いつも通りに笑えた。


 それだけのことが、昨日までより少しだけ難しかった。

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