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その言葉の宛先

その言葉の宛先

 004


「弟君はさ」


 何かを言いかけて、お姉さんは言葉を止めた。


 夏もそろそろ終わりを迎える、そんな金曜の夜だった。


 夕食を終えたテーブルには、チューハイ缶と食べかけのツマミが並んでいる。照明を落とした部屋で、テレビだけが少しだけ眩しく部屋の輪郭を作っていた。画面の中では、若い男女がお互いの気持ちに気づかないまますれ違っていた。


「何ですか」


「……いや。やっぱ、何でもないや」


 お姉さんは缶に口を付けた。ただ、画面を見ていた。


 何を聞こうとしたのか、こんな恋愛映画を見ている中で彼女の考えることはそう多くないように思えた。それでも口に出す直前になって止めたのは、少し踏み込み過ぎだと思ったのかもしれない。


 今更、それでもお姉さんであろうとしたのだろう。


「そういうのは、今はないですよ」


 缶の縁から、彼女の唇が離れる。


 彼女は兄の面影を誰かに持っていかれることを恐れていたのかもしれない。


「社会人になって、前より出会いがなくなりましたし」


 だから、少しだけ安心したようにも見えた。


「……聞いてないけど」


「そうですね」


「生意気」


 お姉さんは、もう一度画面へ視線を戻した。その横顔は優しかった。


「弟君さ、よくここに来るでしょ」


「兄との約束ですから」


「まぁ、そうなんだけどさ」


「そろそろ鬱陶しくなってきました?」


 彼女が拒んでいないことを知って、そう冗談を投げる。冗談だと理解して、お姉さんも笑う。幼稚な答え合わせだった。


「そういう話じゃない」


 飲み干された空き缶がテーブルに置かれる。少しだけ、音が響いた。


「私にばっかり。いや蒼との約束にばっかり時間使ってたら、弟君にとってよくないんじゃないかなって思ってね」


 少し負い目でも感じていたんだろうか。


「恋人の一人でもいれば、そうだったかもしれませんね」


 本音は、仕事に追われて恋愛にかまけている時間などなかった。


「そう」


 お姉さんは新しい缶を引き寄せ、プルタブに掛かり損ねた爪先が一度だけ弾いて、小さく音が鳴った。


「結婚は、考えたりしないの」


「彼女もいないのに、もう結婚の心配までしてくださるんですね」


「人生の先輩が、弟君の先のことを考えてあげようって言ってる」


「二個しか違わないでしょう」


「二個も違う」


 何度目かの試みの先で、ようやくプルタブが開いた。そのまま彼女は満足げに一口。


「それに、人生経験の差は大きい」


 何かを考えているのかもしれないし、ただ酔ってるだけかもしれない。彼女は少し目を細めて画面の向こうの男女を眺めていた。


「結婚はいいものだよ」


 その声にきっと後悔は混じっていなかった。


「面倒なことも、勿論多かったけどね。洗濯物は裏返しだし、脱いだ靴下が片方だけなくなってるし、料理を手伝わせたら使う食器が倍になるし」


「兄らしいですね」


「でしょ」


 お姉さんは笑った。


「一人だったら、もっと楽なことだっていっぱいあったと思う」


 酷く昔のことでも懐かしむように、彼女は息をつく。


「それでも、蒼と一緒でよかった」


 お姉さんはもう一度缶を傾けた。


 兄との時間へ、お姉さんは向き合っている。失ってしまったものとしてだけではなく、確かに幸せだった思い出として。


 兄の言う通り、お姉さんは強い人だった。


 僕が必要ではなくなる日も、そう遠くないのかもしれない。


「この人たちこれだけ引っ張っておいて、結局うまくいかないんですかね」


 画面の中で、女が男の手を振り払う。男が何かを言いかけて、結局その背中を見送ってしまう。女の左手の指輪が映される。


「どうだろうね。ちゃんと最後まで見てのお楽しみでしょ」


「今のとこ、諦めた方が二人とも幸せになりそうだと思いますけど」


「それがわかってるからって、諦められるとも限らないんだと思うよ」


 含みのある言葉だった。缶の側面についた水滴を指で払う。一本の筋が途中で途切れて、膝の上へ落ちた。


「昔さ、そういう友達がいたんだよ。十個くらい年上の、既婚者の先生を本気で好きになっちゃった奴が」 


「止めてあげなかったんですか」


「私が知った時にはね、止めるまでもなかった。本人が報われないことを一番分かってたから、私は何も言わなかった」


 また、缶を傾ける。今日はいつもよりいっそうペースが速い。


「正しくないことも、最後に自分が選ばれないことも。全部わかってて、それでも利口なふりをして、やめられなかったみたい」


「なんか、難儀な人ですね」


「馬鹿だと思ったよ」


 随分と親しげな悪口だった。


「最後はしっかり傷ついて、一週間くらい廃人みたいになってたしね」


「だったら、最初から諦めてた方がよかったんじゃないですか」


「でも、それは結果を知ってるから言えることでしょ」


「結果が変わる見込みはあったんですか」


「どうだろ、私はあるようには見えなかった」


「だったら余計に駄目でしょう」


 きっと想像通りの返事だったんだろう。お姉さんの笑みは少し先回りしていた。


「弟君は正しいんだと思う」


「それは誉め言葉ですか」


「ううん。全然」


「でしょうね」


 缶はまた傾く。喉へ流れていく様子を、目で追った。


「私ね、ちょっと羨ましかったんだよ」


「不倫がですか」


「違う。そんなの辛いに決まってる」


 映画の中で、決心を固めた男が女を探していた。


「終わりが見えてても、それでも好きでいられることが」


 追いついたところで、何を言えばいいのかも決まっていないのに。男はただ見失いたくない、それだけの理由で人混みを掻きわけている。


「お姉さんだって、兄のことを思っているじゃないですか」


 三年。それは到底軽いものだなんて思えない。


「私と蒼はもっと普通だったから」


「普通ですか」


「好きになって、付き合って、一緒に暮らして、結婚した。誰にも隠さなくてよかったし、誰かを傷つけないと隣にいられないわけでもなかった」


 お姉さんは一度、缶から手を離した。


「蒼を諦めなきゃいけない理由なんて一つもなくて、考えたこともなかった」


 言葉にしてから、その意味を確かめるように彼女は目を伏せた。


 だからこそ、兄を諦める準備なんて彼女にはなくて、傷は無防備な懐に深く残った。


「お姉さんは、普通でよかったんだと思いますよ」


「どうして」


「少なくとも兄は、幸せそうでしたから」


 兄から何度も聞かされていた。そこに疑いようはなかった。


「僕よりお姉さんの方が知ってるでしょうけど」


「うん。知ってる」


 お姉さんは笑った。


 映画の続きに視線を戻す。


 追いかけていた男が女を見つけたのか、その先で二人がどうなったのか、よく覚えていない。缶が空くたびに、どちらかが次を持ってきた。何かを話して、笑って、それが何の話だったのかも、少しずつ曖昧になっていた。


 画面にエンドロールが流れる。知らない名前をぼんやりただ目で追った。


「終わりましたね」


「みたい」


「結局、どうなったんですっけ」


「知らない」


 テーブルには、さっきより空き缶が増えていた。テレビの明かりだけが、部屋をゆっくり明滅させている。


「ねぇ」


「はい」


「こっち」


「ここにいます」


「もっと」


 袖を引かれるままに、身体を寄せた。


「これでいいです」


「ん」


 返事と一緒に、肩へ額が落ちてくる。いつもの甘え方だった。


 拒む理由が手元になくて、だからそのままにした。


 髪が頬を擦る。酒の甘い匂いがした。腕を回すでもなく、ただ倒れないように肩を貸していると、彼女の手が背中へ回った。


「寂しいんですか」


「駄目?」


「そうは、言いません」


「じゃぁ、いい」


 彼女の腕に少しだけ、力が入る。汗ばんだ背中にそれだけがより熱く残った。


 それでも、彼女は足りないらしい。ゆっくり身体を起こしたかと思えば、僕の肩を押した。背中がソファへと沈んでいく。


「なんですか」


「じっとして」


 片膝が、僕の脚を跨いだ。


 ぼんやりと視界が歪む。兄はいつもこんな景色を見ていたんだろうか。思考の靄が晴れる前に、もう片方の膝も反対側へ落ちた。向かい合ったまま、彼女の重みが腿の上に収まった。


 何も言えずにいると、彼女は顔を覗き込む。


 いつもより、近かった。伏せられた目。頬が熱を持っていた。僅かに開いた唇から浅い呼吸が漏れる。


 左頬の火傷の痕が見えた。やっぱり綺麗な人だった。


 目に吸い込まれて合わせる。彼女は緩んだ頬を、優しく歪ませた。今まで見たことのない顔だった。


「ぎゅってして」


「……はい」


 背中へ腕を回した。細かった。けれど、抱き寄せると柔らかな重みが隙間なく胸に重なった。


「もっと」


 耳元で言葉が溶けた。


 言われるがまま力を込める。彼女の身体が小さく揺れて、頬が首筋に擦りつけられた。


 熱かった。


 抱きしめた身体と、酒と、それだけではない熱だった。


 彼女は少しだけ顔を上げる。濡れたような目が、真っすぐに僕を捕らえて離さない。唇が微かに開いて、息を吸う揺れは胸元に伝わった。


 その視線がゆっくり落ちた。


「かたい」


 彼女は蕩けた顔で笑った。


 腰がわずかに動く。


 息が詰まった。


「好き」


 首に回された腕が押し付けられる。髪が頬を擦って、甘い吐息が耳元で崩れる。


「大好き」


 柔らかな重みも、乱れた呼吸も、僕に向けられた笑顔も、何もかも。


 全部、近かった。


 彼女が全部を満たした。


「蒼」


 兄の、名前だった。 


 お姉さんが呼んだのは、弟君でも、僕の名前でもない、兄の名前だった。


 首に回された腕は、そのままだった。膝の重さも変わらない。お姉さんは、さっきと同じ顔で笑っている。


 おかしなことは何もなかった。


 兄の影を、見ていたんだろう。


 言葉も、笑顔も、兄に向けた物だった。


 三年前にも同じ名で呼ばれたことがあったじゃないか。今だって何も変わらない。彼女が泣くために、兄の面影が必要なら、僕を使ったっていい。寂しさを埋めることだって、何も変わりはしない。


 それなのに、もう熱は冷めていた。


 胸だけが、痛かった。


 きっと、これが恋だった。


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