三年で取り戻した物
三年で取り戻した物
003
最初に帰ってきたのは、マグカップだった。
「はい」
マグカップに入った紅茶が差し出される。青地に白い小さな星が一つ、持ち手の下に隠れるように描かれている。
お姉さんの手には、同じ形の白いマグカップ。そちらには青い星がついていた。
「こっち、貸してあげる」
「これって」
「そう。やっと見つけた」
以前兄夫婦のアパートで見た事がある、揃いのマグカップだった。
「だいぶ時間かかっちゃったけど、一つ戻ってきた」
彼女がどれくらいの時間をかけたのかは分からない。同じものを探すための時間もあったのだろう。それをもう一度、二つ揃えて置くための時間も。
受け取ったマグカップはじんわりと温かかった。
「私が白で、蒼が青」
「どっちを使うか決めたのは、兄でしょう」
「正解」
「自分が蒼だから」
「それは不正解」
お姉さんは白いマグカップを両手で包んだ。湯気が顔の前を通り過ぎても、目はそのまま手元へ落ちている。
「私に白が似合うから、だってさ」
紅茶に口をつける。すぐには飲み込まず、何かを思い出すように視線を伏せた。
「私にこの白いマグカップが似合うから、このセットを買おうって。蒼はそう言ってた」
お姉さんは笑わない。それでも、いつもより口数が多い気がした。
「なんか、兄らしいですね」
「うん。そう思う」
白いマグカップに、もう一度唇が触れる。兄に似合うと言われた色を、お姉さんは自分の手でもう一度選んだ。
兄の方を向いたままだとしても、それが生きるための一歩であることに変わりはなかった。
いつもより少しだけ、お姉さんの声を聞けた。
それだけで、今日は十分だった。
きっと兄も、そう思うはずだった。
*****
「来てくれて、ありがとう」
そう言って迎えられたのは、この日が初めてだった。
兄の代わりに、お姉さんの元へ通っていた。断られはしない。けれど、歓迎されたこともなかった。それでも今日は、お姉さんのほうから僕を迎え入れてくれた。
その一言だけで、いつもの玄関が少し違って見えた。
兄が死んで、一年。
部屋には兄が寝心地にこだわって選んだソファがあった。台所には、お姉さんが兄と喧嘩してまで買った調理器具が並んでいる。兄と暮らした痕跡が増えるたび、この部屋に残る空白は少しずつ薄れていた。
「弟君、しよ」
差し出されたのは、コントローラーだった。一昨日と比べて、見覚えのあるゲーム機が一つ、テレビの前に増えていた。
「これ、兄が持ってたやつですよね」
「覚えてたんだ」
「よく二人でやってるって、聞いてましたから」
「そう。勝ったほうが、一つお願いできるの」
「へぇ」
「洗い物とか、アイス買ってきてとか。蒼は嫌な顔しながら、でもちゃんとお願いを聞いてくれた」
「兄が勝った時は?」
「蒼は、もう一回って」
「もう一回?」
「勝ったときのお願い。もう一回やろうって、いつもそれ」
「なんだか、兄らしくないですね。あの人はもっと欲深いものだと思ってました」
「そうかもね」
お姉さんは、もう一つのコントローラーへ視線を落とした。
「もう一回、って。決まって蒼はそう頼んでた」
欲深い兄にしては、随分とささやかなお願いだった。いや、あの人にとっては、それ以上のものがなかっただけかもしれない。
差し出されたコントローラーを受け取る。兄の定位置だった彼女の左側に、今日は僕が座った。
「弟君、下手」
「初心者狩りですよ。さっきからお姉さんのキャラ変な動きし続けてるじゃないですか。もっと手加減してください」
「しない」
画面には、僕の敗北ばかりが積み重なっていった。
「もうやめる?」
何度目か分からない敗北の先で、お姉さんが膝にコントローラーを置いた。
「いいえ、もう一回お願いします」
「それ、蒼っぽい」
少しだけ、彼女の口角が上がったように見えた。
兄のお願いは、もう一回。
僕はまだ一度も勝っていないのに、同じものを欲しがっていた。
「今日は一勝するまでいますから」
「いいよ。朝まで付き合ってあげる」
「明日も仕事です」
「寝坊しないといいね」
お姉さんがコントローラーを握り直した。
画面の中で、次の対戦が始まる。
勝つまで帰らないと言ったのは、負けたくなかったからではない。
気のせいだったとしても、もう一度くらい確かめてみたかった。
****
『塩パン』
不器用な我儘だった。お姉さんから届いたメッセージはそれだけだった。買ってきてほしい、の一言すらついていない。お願いにしては随分雑だ。
それでもその三文字に、随分と振り回された。
近くのパン屋を調べて、評判のよさそうな店に向かった。一軒目は売り切れで、二軒目でようやく手に入れることができた。
「来てくれて、ありがとう」
その言葉で迎えられることに、すっかり慣れた二年目の秋だった。
テーブルに紙袋を置くと、お姉さんが中を覗き込んだ。
「二つある」
「一つは僕のですよ」
「ふうん」
お姉さんは二つとも取り出して、自分の前に並べた。
「聞いてました?」
「聞いてたよ」
「一つは僕のです」
「知ってる」
そう言って、彼女は一つ目に齧り付く。それでももう一つは、逃がさないように反対の手で押さえている。
「それも食べるんですか」
「食べるよ」
「僕のは」
「ない」
「僕が買ってきたんですけど」
「じゃあ、お願い一つ聞いてあげる」
お姉さんは、もう一つの塩パンにもかじりついた。さすがに少し呆れた。食べるものがあっても手をつけなかった人が、今は僕の分まで取り上げている。しかも悪びれない。
もう首を括る人には見えなくなっていた。呆れより、よっぽどそれが強かった。
「だったら、また頼ってください」
きっと兄の真似事だった。
「弟君は欲がないね」
「兄ほどじゃありませんよ」
「生意気」
言い返そうとして開いた口に、ちぎった塩パンを放り込まれる。バターの香りと、少し遅れてしょっぱさが口の中に広がった。
「ご苦労。大儀であった」
「なんですか、それ」
お姉さんが笑った。僕もつられて笑う。
まだ外へは出られない。それでも、笑うことも、食べたいものをねだることも、前よりずっと上手になっていた。
ほんの少しでいい。すぐ一人で立てる。
兄が勝手に思い描いたその言葉に、お姉さんは少しずつ追いつき始めていた。
****
いつものように仕事終わりに彼女の家へ寄る。最近はお姉さんが夕食を用意してくれることが増えていた。
「ごちそうさまでした。今日も、おいしかったです」
「お粗末さまでした。やっぱり蒼と好みが似てるから、分かりやすい」
テーブルの上には、空になった皿が二枚。流しには、兄と喧嘩してまで買った調理器具が置かれている。
以前はゼリー飲料だけが並んでいた冷蔵庫に、今は使いかけの野菜や調味料が入っていた。
兄の死から、もうすぐ三年になる。
お姉さんは確実に前へ進んでいた。外に出られない、それさえ除いてしまえば、昔に戻ったように見えた。
「弟君、飲む?」
食器を片づけて戻ってきたお姉さんの手には、チューハイ缶が二本。
「明日も仕事なんですけど」
「一本くらいなら平気でしょ」
「だったらお姉さんも一本までにしといてくださいね」
「はいはい」
一本じゃ済まないことくらいわかっていた。すぐに飲み終わって、冷蔵庫からまた二本取り出して戻る。
「お姉さん」
「なに」
「一本くらい、って言いましたよね」
「これくらいいいじゃん、細かい男は嫌われるよ」
「誰にですか」
「私に」
それは困る。まだ、彼女に嫌われる訳にはいかなかった。少なくとも、外へ出れるまで。兄が心配しないほど彼女が回復するまでは。
「分かりました。もう一本だけです」
「素直でよろしい」
差し出された缶を渋々受け取る。
中身が減るにつれて、考えることが少しずつ億劫になっていく。終電の時間も、明日の予定も、今はどちらもどうでもよかった。
「弟君、そっち詰めて」
「十分、空いてますよ」
「いいから」
言われたとおりに身体をずらすと、お姉さんは空けた場所ではなく、僕の隣へ座った。
「詰めた意味、ありました?」
「気持ちの問題」
「何のですか」
「私の」
肩が触れる。そのまま、お姉さんは僕の腕を両手で抱え込んだ。
酔うと、人の温度が恋しくなるのだろう。
きっと、兄がいた頃からそうだった。飲んだときにだけ彼女が見せる腑抜けた顔を、兄は何度も隣で見ていたのかもしれない。夫婦はきっと、僕の知らないところで、こういう時間を積み重ねていた。
「弟君」
「はい」
「いつもありがとね」
腕に掛かる重みが、わずかに増した。
「急にどうしたんですか」
「別に。そういう気分だっただけ」
「酔ってますね」
「酔ってないよ」
「さっきより声が近いです」
「そばにいるからでしょ」
言い返そうとすると、お姉さんが顔を上げた。頬が少し赤い。目が合うと、何を思ったのか、唇を尖らせてみせる。
迫ってくる気配はなかった。
少し顔を引くだけで済むほどの距離が、最初から残されている。お姉さんも、それを越えるつもりなどないのだろう。
それでも僕は、彼女の顔の前へ手のひらを差し出した。
「何してるんですか」
「ご褒美」
「いりません」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮じゃないです」
抱きつかれるくらいなら構わない。
寂しい人が誰かの温度を借りることと、それより先へ進むことは違う。お姉さんも、その違いを分からなくなるほど酔ってはいないはずだった。
だから僕も、本気で咎める必要はなかった。
ただ、止めるべきところで手を出して、冗談として終わらせてやればいい。
お姉さんは僕の手を軽く叩いた。
「ほんと、可愛くない」
「よく言われます」
「誰に」
「最近よく、お姉さんに」
彼女は少し考えてから、声を立てて笑った。そこに兄を見つけたから笑ったのか、僕の返事がおかしかったのかは分からない。
ただ、その笑い声は、僕と過ごしている今この瞬間に生まれたものだった。
お姉さんはそのまま、また僕の肩に頭を預けた。
寂しいのだろう。
兄の代わりにはなれなくても、こうしている間だけ、その寂しさを紛らわせることはできた。
それでよかった。
お姉さんは笑っていた。だから、それで十分だった。




