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兄の後始末

兄の後始末

 002


 お姉さんの新居で、最初に完成していたのは首を括るための輪だった。


 壁際には畳まれた布団。床には口を開けたままの段ボール箱。水と菓子パン、ゼリー飲料だけが、その中に雑然と詰め込まれている。食卓も椅子もなく、カーテンすらまだ付いていなかった。


  生きる準備は、何一つ終わっていなかった。終わらせる準備だけが、もうできていた。


「お姉さん」


 呼びかけから少し遅れて、彼女が顔を上げた。目は合うのに、見つけてもらえた気がしなかった。


「これ、何に使うつもりだったんですか」


 お姉さんの視線がロープへ向かう。


「……あぁ」


 返事は、それだけだった。


 引っ越しに使ったとも、何かを縛るつもりだったとも言わない。僕に用途を知られたところで、取り繕う理由さえないらしい。


 背中に冷たい汗が滲んだ。


「これ、もう要りませんよね」


 ロープは軽かった。片手で持ち上がる。


 彼女がいなくなるのに必要な重さは、たったこれだけだった。気づけば、結び目が掌に食い込むほど強く握り締めていた。


「これは預かります」


「……うん」


 お姉さんは、何もない床へ視線を落とした。


「必要になったら、また買うから」


 洗剤でも切らしたみたいな声だった。


 取り上げたところで、何も解決しない。それでも元の場所へ戻すことはできず、僕は持ってきた紙袋の底へロープを押し込んだ。袋の中で形を崩す音だけが残った。


 兄が死んで、もうすぐ二か月になる。


 一か月以上の入院を終えたお姉さんは、この小さな部屋へ一人で移った。それから一度も外へ出ていないらしい。四十九日にも、彼女の姿はなかった。


 紙袋には、お袋に持たされた作り置きが入っている。それを渡して、少し話して、顔色を確かめる。今日はその程度で帰るつもりだった。


「お姉さん」


「……なに」


 病院で見たときより、髪が伸びていた。肩に触れる毛先は好き勝手に跳ね、頬に掛かっても払いのけない。左目の下に残った火傷の痕は薄くなっていたけれど、痩せた頬と、長袖から覗く細い手首ばかりが目についた。


 兄の隣にいた頃のお姉さんなら、僕が言葉に詰まっただけで面白がって笑った。兄の企みには口にする前から気づき、僕まで巻き込まれそうになれば、助けるふりをして一緒にからかった。


 今は、呼びかけても返事が一つ落ちてくるだけだった。


 僕が黙れば、簡単に部屋から音が無くなる。


「座ってもいいですか」


「……うん」


 お姉さんは部屋を見回した。


「椅子、ないんだった」


「床で大丈夫です」


 少し離れた場所へ腰を下ろし、紙袋から保存容器を取り出す。


「お袋からです。温めれば食べられますよ」


「うん」


「最近、何か食べましたか」


「……食べた」


 段ボール箱には、封の切られていない菓子パンが三つあった。賞味期限は、昨日で切れていた。


「冷蔵庫、開けますよ」


「うん」


 扉を開けると、中には水とゼリー飲料しか入っていなかった。持ってきた保存容器は、重ねなくてもすべて収まった。


 食べるものがないわけではない。


 ただ、彼女には食べる理由が残っていなかった。


「……四十九日」


 冷蔵庫を閉めたとき、背中に声が落ちた。


 振り返ると、お姉さんは床に残した保存容器を見ていた。透明な蓋の上から、花の形に切られた人参を指先でなぞっている。


「行かなきゃいけなかったんだけど」


「無理をしなくてよかったんですよ」


「喪服は着たの」


 僕の言葉には触れず、彼女は続けた。


「髪も結んで、靴も履いて、鍵も持った。時間にも間に合うはずだった」


「……はい」


「玄関まで行って、ドアも開けたんだよ」


 容器をなぞっていた指が止まる。


「でも、外だった」


 玄関を開ければ、外がある。


 当たり前のことが、彼女にはその先へ進めない理由だった。


「外に出たら、戻らなきゃって。早く戻らなきゃ、私がいない間にまた火が出たら、蒼が中にいたら、今度はちゃんとそばにいないと、また置いていったら駄目、戻らなきゃ、戻らなきゃって、そればっかりになって」


 言葉が次第に速くなる。一度も息を継がないまま、お姉さんは胸元を掴んだ。


「息が、できなくなって」


 きっと、彼女は呼吸の仕方を忘れていた。口を開いても、喉だけが小さく鳴る。肩が何度も上下するのに、何も吸い込めていない。


「お姉さん」


 彼女の前へ膝をつき、肩に手を添えた。


「もういいです。話さなくていい」


「戻らないと」


「ここにいます。もう戻ってますよ」


「違う」


 手首を掴まれた。細い指先からは想像できないほど、強い力だった。


「私、あのとき外にいたから。蒼を一人にしたから。今度はそばにいないと、また死んじゃう」


「お姉さん、兄は」


「分かってるよ!」


 何も無い部屋に、大きく響いた。


 その大きさに彼女も驚いたのか、お姉さんは僕の手を放した。行き場を失った指先が、膝の上で固く組まれる。


「もういないのも分かってる。帰ったっていないし、私がここにいたって、何も変わらない。そんなの、全部分かってるのに」


 息を吸うたび、喉が引きつった。


「でも、まだ怖い」


 膝の上の手が震える。


「死ぬのは、別にどうでもいいのに」


 紙袋の中で、ロープが擦れた。


「蒼がまた死んじゃうのが、怖い」


 少し話して帰るつもりだった。


 それでも、もうどうやって帰ればいいのか分からなかった。


 兄は死んでいる。


 彼女は誰よりそれ知っている。それでも外へ出れば、間に合わなかったあの日へ戻される。


 彼女の中で、兄はまだ死に続けていた。


「……ごめん」


 お姉さんは、握り潰した胸元の皺を指で押さえた。


「変だよね」


「謝らなくていいです」


「でも、四十九日」


「行けなかったんでしょう」


「私が行きたかったの」


 そこで初めて、彼女が僕を見た。


「最後まで一緒にいてあげられなかったから。それくらいは、ちゃんとしたかった」


「お姉さんのせいじゃありません」


「そういう話じゃないよ」


 責める口調ではなかった。


 正しいか間違っているかなんて、彼女は最初から話していなかった。


「一緒にいたって、助けられたかは分かんない。私も死んじゃったかもしれないし、二人とも助からなかったかもしれない」


 お姉さんは膝を抱え、その中へ顔を伏せた。


「でも、それでもよかった」


 服の奥で、声がくぐもる。


「蒼が死ぬなら、私は隣にいたかった」


 生きていてよかった。


 そう言うことが正しいんだろう。少なくとも僕は彼女まで失わずに済んだことを、心からよかったと思っている。


 それでも、その言葉を彼女には渡せなかった。


「兄から、聞いていたことがあります」


 伏せられていた顔が上がる。


「……蒼が?」


「結婚する前です。何かあったら、お姉さんのことを頼むって」


「何かって?」


「そこまでは考えてなかったんでしょうね。縁起でもないことを言うなって返したら、笑ってましたから」


 兄は、いつも軽い調子で大きなことを言った。


『ほんの少しでいいんだよ。佳奈は強いから。俺がいなくても、すぐ一人で立てる』


 だったら僕に頼む必要はないだろう。


 そう返すと、兄は何がおかしいのか笑っていた。


「兄は、お姉さんは強い人だって言ってました」


「強くなんかない」


 返事だけは、迷いなく返ってきた。


「全然、大丈夫じゃない。外にも出られないし、ご飯だって食べられないし、蒼がもういないことも、まだちゃんと分かってあげられない」


 お姉さんの目から、雫が一つ落ちた。


「蒼、何にも分かってない」


 もう一つ、膝の上へ落ちる。


「一生そばにいるって、約束したくせに」


 兄らしい約束だった。


 あの人は昔から、大口を先に叩いて、あとから必死に帳尻を合わせる人だった。会いに行くと言えば夜行バスに乗り、足りないものがあれば、それを埋めるまで走り回った。


 一生そばにいる。


 その約束も、兄は本気だった。


 お姉さんも、信じていたはずだ。兄がそう言うのなら、最後にはどうにかしてしまう。何十年も先まで勝手に二人のものにして、笑いながら帳尻を合わせ続けるのだと。


 けれど、大口を叩いたあとで走り回る兄は、もういない。


 約束だけが、彼女の中に残された。


「ごめん、弟君」


 お姉さんの濡れた目が、僕の顔をなぞった。目元から鼻先へ落ち、もう一度、目元へ戻る。


「謝らなくていいです」


「ごめんね」


「僕は別に」


「蒼」


 兄の名前と一緒に、お姉さんの身体が傾いた。


 反射的に腕を伸ばす。受け止めた肩は、思っていたよりずっと細かった。


「蒼」


 彼女は僕の胸元へ額を押しつけ、服を強く掴んだ。


「なんで」


 押し殺していた声が、そこで崩れた。


「一緒にいるって言ったのに。ずっと一緒だって、言ったじゃん」


 返事はできなかった。


 僕と兄は、顔が似ているほうだった。性格はまるで違うのに、黙って並べば兄弟だとすぐ分かるくらいには。


 今は、それでよかった。


 彼女が泣くために兄の顔が必要なら、僕が似ていてよかった。


 お姉さんは、何度も兄の名前を呼んだ。


 どうして一人にしたのか。どうして約束を破ったのか。まだ話したいことがあった。行きたい場所もあった。喧嘩だって足りなかった。謝ってほしかった。自分も謝りたかった。


 二か月間の不在が、途切れた言葉になって溢れ続けた。


 止める言葉も、正しい慰めも、僕には見つからなかった。


 だから、ただ肩を抱いていた。


 どれほど長くても、付き合ってやることにした。


 兄のいない二か月を泣き終えるまで。


 その先に待っている、兄のいない人生まで零れ切ってしまうまで。


 窓から差し込んでいた光が少しずつ細くなり、やがて何もない部屋から色が消えた。どれくらい時間が経ったのかは分からない。胸元は濡れ、掴まれた服には深い皺が残っていた。


 それでも、お姉さんは僕から離れなかった。


「……ごめん、弟君」


 泣き疲れた声が、胸元で小さく震えた。


「いいですよ」


「来てくれて、ありがとう」


 それからも、彼女は泣き続けた。


 兄の後始末だ。そのくらい、いくらでも付き合ってやれた。


今の僕にできる弔いはそれだけだった。

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