兄嫁と風呂と塩パン
兄嫁と風呂と塩パン
001
「来てくれて、ありがとう」
兄の嫁は、いつもそう言って僕を迎えた。
今日だって、そのはずだった。
ベルを押す。返事はなかった。ドアノブを捻る。鍵は掛かっていない。
「お姉さん?」
俄然、嫌な予感がした。
「入りますよ」
扉を開けて踏み込む。返事は待っていられなかった。
玄関には彼女のスニーカー。履き潰したサンダル。仕事机の上に広がったノートパソコンも、テレビの前に転がったコントローラーも、いつもと何も変わらない。
ただ、本人だけがいない。
ワンルームの部屋に、人が隠れられる場所なんて多くない。ベッドを捲っても、ソファの下にも、纏められたカーテンの中にも、その姿はなかった。
「お姉さん」
呼びかける。
「お姉さん」
小さな部屋で、何度も、何度も。それでも返事が返ってくることはなかった。
そうやってワンルームを探し尽くした先で、浴室の明かりだけが灯っていることに気づく。最初から視界に入っていたはずだった。なのに、そこへ意識を向けるまでに、酷く時間が掛かった。
「お姉さん?」
扉を叩いても、返事はなかった。耳を澄まさなくたって、水音も足音もそこになかった。誰かの気配すら、あやふやだった。
頭を満たしたのは、浴槽の中に広がる赤だった。返事がない理由、鍵が開いていた理由、彼女が見当たらない理由。そのすべてが、考えたくない最悪の形で繋がっていく。
「お姉さん!」
扉を開けた。紙袋が落ちる音がした。
湿った空気がべったりと頬に触れた。湯船の縁に左腕が投げ出されて、いつも袖の下に隠れていた肘の辺りから、まだらに色を変えた皮膚が覗いていた。ところどころ薄く引きつれたその先は、湯の中へ沈んで見えなかった。
水面は、赤くなかった。
それでも、彼女は目を閉じたまま動かなかった。
「お姉さん!」
濡れた肩を掴む。
湯はとっくに冷めていて、それでも彼女には温度があった。
まだ、温かかった。
「目を開けてください!」
肩を揺する。浴槽の湯が溢れて服に染みた。それでももう一度揺する。彼女の身体がぐらりと傾いて、慌てて腕を回す。引き寄せれば、肌の白さが病的なほどに際立って見えた。
「……んー」
睫毛が震えた。薄く目を開けた彼女が、ぼんやり僕を見た。
「弟君じゃん」
眠たげに瞬きを一つ。欠伸を一つ。
「そんなに慌てちゃって、どうしたの?」
張り詰めていた緊張の糸が、ようやくぷつりと音を立てる。僕はその場に座り込んだ。膝をついた床からスーツに水が染み込んでいた。
「死んでるのかと」
「なわけないじゃん」
彼女は小さく笑った。左目の下から頬にかけて、色の変わった皮膚が僅かに引きつる。
その声を聞いて、ようやく息を吐いた。いつから止めていたのか分からなかった。肺の奥に残っていた空気が、喉を震わせながら長く抜けていく。
目を開けて、喋って、笑った。
生きていると呼ぶには、十分だった。
肩を抱いたままだった腕から、ゆっくりと力を抜く。指先だけは、まだしばらく言うことを聞かなくて、彼女の肩に触れていた。
「よかった……ほんとに、よかった……」
口から零れていた。
「大袈裟だなぁ」
耳元で暴れていた鼓動が、少しずつ遠ざかっていく。
「全然、大袈裟なんかじゃありませんよ」
彼女が死んでいるかもしれない。そんな恐怖がだんだん晴れ始めて、やっと現実に帰ってくる。彼女は入浴中だった。
視線を壁に逃がす。
「……とりあえず、僕は退散します」
「来たばっかなのに?」
「ここからですよ」
「あぁ」
床に手をついて立ち上がる。水を吸い込んだ分、なんだか身体は重かった。
「一緒に入らない?」
「入りません」
背を向けて、一歩浴室から出る。
「沸かしなおすよ。風邪ひくし」
「さっさと上がってください」
「蒼なら、喜んで入ってきてくれるのに」
「兄と一緒にしないでください」
「しないよ。弟君は、ちゃんと出ていくでしょ?」
その言い方は、最初から答えを知っている人のものだった。
「当たり前です」
「うん。知ってる」
浴室の扉を閉めても、彼女は言葉を止めなかった。
「ねぇ、見た?」
「見てません」
「嘘」
「それどころじゃなかったんですって」
「うんうん。弟君は真面目だもんね」
「まだからかってます?」
「うん。おもしろい反応してくれるから」
悪戯っぽく笑うその顔が、頭に浮かんだ。兄の惚れた顔だった。
「火傷、見たんでしょ」
浴槽の縁に投げ出されていた左腕が浮かぶ。腕にも痕が残っていることくらい知っていた。ただ、普段は服に隠れている部分まで、あんなふうに見えたのは初めてだった。
「……少しだけ」
「えっち」
くすくすと聞こえた。少し慎重に答えを考えた時間が馬鹿馬鹿しくなる。それでも生きている証拠だったら、どれだけ彼女に揶揄われたっていいとも思えた。
「玄関の鍵、開いてましたよ」
「あー、確かに。昼に換気して、そのあと閉めた記憶ないかも」
「もっとしっかりしてください。僕以外の誰かだったら、どうするつもりだったんですか」
「それは、そのときでしょ」
「酷い目に遭ってからじゃ遅いんですよ」
「はいはい、ごめんごめん」
反省の色がない、適当な謝罪だけ渡される。
「でも、今日は弟君だった」
扉の向こうで水が荒れた音がした。揶揄うのにはもう満足したのか、ようやく上がる気になってくれたらしい。
「来てくれて、ありがとう」
何度聞いたか分からない、いつもの言葉だった。それを今日も聞けたことで、ようやく胸の奥に残っていた強張りが解けていく。
何の前触れもなく当たり前が壊れる。簡単に理不尽に巻き込まれて、そうやって人は突然消える。それを知ったのは三年前だった。
兄が死んだ。
電話口でそう告げられた時、最初に浮かんだのは結婚式で馬鹿みたいに笑っていた顔だった。たった三か月。その幸せの絶頂から三か月しか経っていなかった。僕の肩を抱いて上機嫌に酒を勧めてきた顔が浮かんだ。それが僕の見た、最後の兄の顔だった。
アパートへ火が燃え移り、火事になったらしい。兄は間に合わなかった。運び出された時にはもう息がなかったと聞いた。正しい説明だったのだろう。それでも電話口で告げられた事実を信じるのには時間が掛かった。
それでも葬儀は待ってくれない。身元が確認され、兄の死は手続きに変わった。日付が決まり、親族に連絡が回り、ついこの前結婚を祝って集まった顔ぶれと、今度は喪服で再会することになった。
誰一人、心が追いついていないように見えた。
その中に、お姉さんだけがいなかった。
彼女は病院にいた。
火事が起きたその時、彼女はたまたま外にいたらしい。けれど兄がまだ中にいると知って、燃えるアパートへ戻った。兄を置いて逃げるような人ではなかった。それが兄の好きになった彼女なのだと思う。それでも、残された側からすれば、褒めて済ませられる話ではなかった。
兄は帰らなかった。彼女の左の頬と腕には、その代償だけが残った。
病室にいた彼女は別人だった。見舞いに僕が行っても、お姉さんは何も話さなかった。兄の隣で笑っていた顔はもうそこにはなかった。時折、うわ言のように兄の名前を口にする。彼女に掛ける言葉を、当時の僕は知らなかった。
あれから三年。
月日は残酷で、それでも優しかった。
脱衣所と浴室を隔てている扉の先で、彼女は今、軽口を叩いている。揶揄って、笑って、動いて、そうやって今日も生きていた。
それだけで、十分だった。
「弟君、ちゃんと拭いときなよ。そこの一番上にタオル置いてるから」
「分かりました」
「拭いてくれてもいいよ。私を」
「お断りします」
「風呂に押しかけてきたくせに?」
「まだ言います?」
返事の代わりに笑い声がする。
棚の一番上からタオルを取り、濡れたスーツの膝を拭いた。それでも染みてしまった部分はどうにもならない。小さく溜息をつく。
「部屋で待ってますね」
「うん。待ってる間、冷蔵庫の中は適当に取っていいから。でも、私のプリン以外ね」
「食べませんから」
「蒼はそう言って食べた」
「兄と一緒にしないでください」
何を言っても兄を経由して返ってくる。
彼女が兄の話をするときは、少しだけ声が弾む。少しだけ、あの結婚式の日に彼女が帰った気がした。
「ねぇ、後で髪乾かしてよ」
きっと彼女は僕に兄を重ねているのだろう。
「仕方ないですね」
それは別に、嫌いではなかった。
彼女を通して僕も兄を見ていたことも、また事実だった。
脱衣所を出て、ワンルームに戻る。ソファの前のテーブルに紙袋を置き、冷蔵庫からペットボトルの水を一つ取り出した。
「お姉さんも水飲んどいてください」
「よろしくー」
注いでおけと、そういうことだった。食器棚からいつもの二つを取り出してテーブルに並べる。彼女の物と、兄が一度も使っていない兄の物だった。
しばらくして、脱衣所の扉が開く。
お姉さんは濡れた髪をそのまま肩に落として、タオルを掛けたまま部屋へ戻ってきた。こちらを見たのはほんの一瞬で、視線はすぐテーブルの紙袋へ吸い寄せられる。
「塩パンあるじゃん」
「ちゃんと買ってきてますよ。先に髪を乾かしますから、こっちに来てください」
「えー、先に食べよ」
「パンは逃げないでしょ」
「蒼はそう言って逃がしたし」
「逃がした?」
「油断してたら、全部なくなってた」
「僕はそんなことしません」
お姉さんは紙袋からパンを取り出し、僕から守るように胸の前へ抱えた。どうやら、信用はないらしい。
「僕が買ってきたんですけど」
「だからだよ。買ってきた人には一口食べる権利があるって、蒼が勝手に決めてた」
「兄が言いそうなことですね」
「しかも一口が大きいの。あれ絶対、一口って言葉の意味を都合よく解釈してたと思う」
「昔からです。僕のお菓子も、味見だとか言いながら半分くらい持っていきました」
「やっぱり」
お姉さんは納得したように頷いた。夫の悪行を暴いた顔だった。それなのに、その表情には咎めるより懐かしむ色の方が強く滲んでいる。
「で、弟君は食べない?」
「食べません」
「そっか」
彼女はパンを半分にちぎった。その片方を、こちらへ差し出す。
「じゃあ、あげる」
「僕の分も買ってありますよ」
「知ってる。でも、私の分が欲しかったんでしょ?」
「欲しくありません」
「素直じゃないなぁ」
「最初から最後までいらないって言ってますよ」
「いいから。ほら」
押しつけられたパンを受け取る。自分から渡す分には惜しくないらしい。兄もそうやって甘やかされた結果、他人のものに当然の顔で手を出すようになったのかもしれなかった。
「満足しました?」
「うん。髪、乾かして」
「最初からそう言ってます」
お姉さんはソファの前に腰を下ろし、肩に掛けていたタオルを僕へ渡した。濡れた髪を挟んで水気を取る。部屋着の背中はすでに色が変わっていて、このまま放っておけば、さっき浴室で言っていた通り風邪をひきかねなかった。
「兄も、こうしてたんですか」
「うん。濡れたままでいると、うるさかったよ」
「それはうるさくもなるでしょう」
「自分だって、髪濡れたまま平気で寝てたくせに」
「兄の髪は短かったですから」
「そういう問題?」
「僕に言われても」
ドライヤーのコードを伸ばし、スイッチを入れる。温風に押されて、彼女の髪が指のあいだで揺れた。熱が左の頬に当たらないよう、少しだけ角度を変える。
「弟君の方が丁寧だね」
「兄は雑でしたか」
「雑っていうか、じっとしてられない人だったから。途中で飽きて、私の髪を変なふうに立てたりしてた」
「小学生ですね」
「私もそう言った」
お姉さんが笑った。鏡越しではないから、その顔は見えない。それでも笑っていると分かったのは、肩の揺れが指先に伝わったからだった。
「でも、最後までやってくれるんだよ。面倒臭いって言いながら、絶対に途中でやめないの」
「兄らしいですね」
「うん」
短い返事のあと、お姉さんは少しだけ黙った。ドライヤーの音が小さな部屋を満たしている。テーブルの上には彼女のコップと、兄が一度も使わなかった兄のコップが並んでいた。
「こういうの、前と同じだね」
「髪を乾かすことですか」
「それも。パンを買ってきてくれて、一緒に食べて、私が面倒臭がったら怒ってくれるのも」
「怒ってませんよ」
「怒ってるよ。さっきだって、お風呂場ですごい顔してた」
「あれは怒ってたんじゃなくて」
「分かってる」
彼女はそう言って、膝の上に残っていたパンを小さくちぎった。
「心配してくれてたんでしょ」
「当たり前です」
「うん。そういうところが」
そこで言葉を切って、お姉さんはパンを口へ運んだ。続きは聞かなくても分かった。彼女の「前と同じ」は、僕が兄と同じことをするたびに、少しずつ形を取り戻していく。
違うのは、隣にいる人間だけだった。
それを違いとして数えなければ、失った暮らしは案外簡単に続けられるのかもしれない。彼女にとっても、僕にとっても。




