7.転機-1
HSサウス社の騒動から1ヶ月ほどの後。
会社を辞めたケリーは大陸西の都市へと住居を移していた。
以前住んでいた街はHSサウス社のお膝元。
あのまま住み続けて噂になるのを嫌がったのだ。
しかし残念なことに、心機一転して全てが上手く動き出すという幸運には恵まれていなかった。
「どうしたものかしら...」
私はソファに寝転がって、天井をぼんやり眺めながら独りごちった。
父のために働くという目標を失った今、私は糸が切れた凧のようにフラフラとした人生を歩んでいる。
今確かなものがあるとすれば、それは銀行の残高だけだった。
「気前がいいというか、なんというか...。追い出した人間に払う額じゃないと思うんだけど」
銀行の通帳を開くと、そこに記載されている数字に目が眩みそうになった。
そう、会社を辞めるに際して、自分のケーキ屋を持つくらい容易い額が懐に転がり込んできた。
出店費用に道具の購入、原材料の仕入れ、運転資金と指折り数えても、十分有り余る。
「ミックスバーの売上を考えれば分からなくもないか...。大企業で成果を上げると見返りって凄いのね...」
報酬をケチれば後々訴訟で揉める可能性がある。
HSサウス社の重役たちはそれを嫌がっただけかもしれない。
だが、成果には報酬をという原則を守るところは尊敬に値した。
私は通帳をテーブルへと放り投げ、再び天井を眺める。
「自分の店を開く...以前なら迷わずそうしたんだけど」
かつての目標が実現できるというのに、気分は全く高揚しなかった。
街を散歩していて立地の良い空き店舗を見ても、心動かされないのだ。
「どうしたものかしら...」
ソファの上で当てもなくゴロゴロと転がっていると、家のドアがガチャリと開いた。
「ただいま」
そう言って家に入り込んでくるのは、食品が詰め込まれた紙袋を抱えたリオだった。
「おかえりなさい。何買ってきたの?」
「トマトと白身魚が安かったから、それと野菜とパンをいくつか。昼食はこれでスープを作ろう」
私はソファから起き上がって彼を出迎える。
そう、私とリオはアパートで同棲していた。
(このやり取りにも慣れてきたわね)
あの日、自席で退職の準備をしていると、リオがやってきて「僕も会社を辞める。君について行く」と言い出したのを思い出す。
将来を有望視されていたエリートの彼が会社を辞めるのは大事だし、彼の収入が断たれるのはもっと問題だった。
彼に対する申し訳なさもあり、なし崩し的に今の状況へと落ち着いたのだった。
(同世代の男性と同じ屋根の下でというのがアレだけど...。面倒を見てもらうのは今に始まったことじゃないし、2人なら生活費も抑えられるし...)
私の懐は暖かくなったばかりなので、そんな言い訳は通じないことくらい理解している。
周囲からどう見えるか、近所のおばさまたちがどんな噂話をしているかを考えればなおさらだ。
(でも、何事にも建前というものがあるのよ)
誰ともなく言い訳をしつつ、リオと一緒に昼食を作り、テーブルへと並べる。
炒めた白身魚とトマトのスープに、玉ねぎとレタスの上に刻んだベーコンを散らしたサラダ、鶏のレバーペーストを添えた焼き立てのパン。
所帯じみた料理だが、既に食べ慣れた味なので不満はない。
「悩んでたみたいだけど。何かあった?」
リオはスープを啜り、トマトの甘さに舌鼓を打ちながら質問してきた。
「何かというか...、この先どうしようかなって」
私はフォークでサラダをつつきながら答える。
この1ヶ月の間、ずっと答えが出せなかった問いを口にすると、リオは「ふむ」と呟いた。
「自分の店を始めるんじゃなくて?そうしない理由でもあるの?」
リオはこちらをジッと見つめてくるが、咎めるような素振りはない。
ケーキ屋を開けと言っているのではない。
私が根底で何を考えているのか、それを問うているのだ。
「その...」
「その?」
「このまま引き下がるのが悔しくて...」
私が頬を赤く染めながら口にした言葉を聞き、リオは唖然とする。
そして、お腹を抱えて笑い出した。
「アッハッハ!大した負けず嫌いだね。あんなことがあったのに!」
「うぅ...」
恥ずかしさのあまり、私はリオから顔を逸らす。
「それで、本当は何がしたいんだい?できる、できないじゃなくて。君自身はどうしたい?」
本当は何がしたいのか。
そう問われ、頭の中で絡まっていた思考がクリアになる。
驚くほどスッと言葉が出てきた。
「自分のチョコレート会社を立ち上げたい。ハムズスイーツ社に喧嘩を売って、クリーヴたちを見返したい」
ハムズスイーツ社で働いた経験は私を変えた。
事業を動かし、会社を経営する楽しさを知ってしまったのだ。
もはや自分の店を持つだけでは足りない。
もっと大きな市場で戦いたいという欲が生まれていた。
そして、どうせ戦うなら相手のリングで勝った方が気分がいい。
「いやぁ、負けず嫌いもそこまでいけば大したものだ!」
リオはパチパチと拍手し、満面の笑みを浮かべた。
しかし、それはすぐに切り替わり、真剣な表情でこちらを見返してきた。
「でもね、僕は反対だ。今のままじゃ戦いにならないよ」
「どうして?私を支えてくれるんじゃなかったの?」
私は少しだけ非難するような口調で彼を問い詰めるが、彼の表情は全く変わらない。
「支えるのと、無謀な戦いに駆り立てるのは違う。君の判断が間違っている時は、そう指摘するのが僕の役目だ」
「そんな...」
反対されるとは思っておらず、私はリオの言葉にショックを受けた。
しかし、すぐに別の可能性が頭の中で閃いた。
(よくよく考えてみれば、彼はいつも誠実だったわ。つまり、何かしら理由があるってことね)
しかし、少し考えてみたが、明確な理由は思いつかなかった。
(チョコレートを始めとした材料を仕入れて、菓子を作る。極論を言えばそれだけの事業よね。小売店で取り扱ってもらえないとか?でも、自前の店舗を持てばなんとかなるし...)
私が悩んでいると、流石に見るに見かねたのかリオは苦笑しながら補足した。
「単純な話だよ。君は原材料メーカーと取引できない。少なくとも君が想定している条件では無理だ」
「えっ、どうして?相手も商売なんだから、売れるなら売るでしょ?」
物を売る商売をしているのに、売ってくれないとはどういうことか。
支払うお金がないというなら分かるが、恐らく彼が言っているのはそういうことではないはずだ。
「こういうのは説明するより体験した方が実感できる。一度関係者に話を聞いてみるといい。僕が手配するよ」
「...お願いするわ」
私は素直に頭を下げて頼み込んだ。
どうせ時間はある。
多少遠回りしたとしても、ソファで転がっているよりマシだった。




