南に着きまして
PTSD
心的外傷。トラウマとも呼ばれている。外的内的要因による肉体的及び精神的な衝撃を受けた事で、心的外傷が突如として記憶によみがえり、フラッシュバックするなど特定の症状が現れる。持続的に著しい苦痛を伴えば、急性ストレス障害であり、一部は1か月以上の持続によって、心的外傷後ストレス障害にもなりうる。
心的外傷となるような体験を、外傷体験という。
ヒョウはパタリと本を閉じると椅子に持たれ、天井を見上げた。
「なぁに黄昏れてんだ?」
ヒョウの視界に映ったのは風呂を出たばかりのケイだった。
彼等が住むここ……南では南の城に住んでいる者一人ずつに一部屋が与えられる。
ケイに呼ばれて彼の部屋に訪れただが、風呂嫌いな彼から臭うあまりの異臭に思わず風呂場に投げ捨ててしまったのだ。
そして、現に至る。
「不潔な奴は嫌いだよ。」「ちゃんと入っただろうが。しつこいなぁ。」
「あの臭いがどれほどまでに害があるか君は分かってないよね。」
「他人の気持ちなんざ興味ねぇよ。」
ケイはタオルでゴシゴシと髪を拭く終えると、作業机の前にあるコンパクトな時計をヒョウに丁寧に手渡す。
「………すごいな。」
「だろ?あと十年もすればみんな時計を持ってるのが当たり前になるぜ。」
今ケイが作っているのは東西南北の頭首に贈るために作られた世界に一つだけしかないオーダーメイド時計だ。
ふと、西の頭首の時計を見てみる。
金色で細かな装飾が施されている美しい時計だった。裏には美しい女神が彫られていて、彼には相応しいと思わざる得ない。手回し懐中時計なので2時間おきに回す形式だ。
「………西の国が恋しいか?」
突然、隣からケイの声がした。ヒョウは虚を付かれたように驚く。
「まさか!こっち(南)の方が断然居心地がいい。」
朝晩ニ食キチンとした食事が食べられるし、地下世界屈指の最先端の技術が揃った国なので、毎日ヒョウの興味を引いてやまない。
そして何より、同僚が皆気のいい人ばかりだ。ヒョウは自分が変わっていると自負していたが、ここではそれを普通として、いやむしろ個性として見なしてくれる。
「西は、もういいのか?」
彼の心配したような声色にヒョウはフゥと息を吐き出した。
「……イザヤが、なんだ?」
「こんなこと、僕が言ってもいいのか分からねぇけど、
好きなんだろう?アイツのこと。」
もう何十回と聞かれたら質問に対してヒョウはすっかり耐性がついてしまい顔色一つ変えずに言う。
「……好きじゃないよ。」
「本当か?」
「本当だよ。」
「絶対にそう言い切れるのか?」
「しつこいなぁ。アイツはそもそも男だろ?」
「違うって!恋愛のどうので聞いているんじゃねぇよ。お前は、人としてアイツに惚れたんじゃねぇのか?………南を選ぶのを躊躇するほど。」
「………。」
グラグラグラと、ヒョウの中の何かが揺れる。
彼の話をされるときはいつも心がざわつく。
そう、……あれからもう半年経ったのだ。
✱ ✱
ヒョウはシャツに袖を通す。今日は南に向かう日なので正装でいくつもりだ。荷物の最終確認をしながら、そっとベットの布団に包まり目を瞑っている彼……イザヤの方に目を向ける。
「……寝たふりか?」
「俺が起きるまではお前はここにいるだろう?」
「………まぁ。」今日のイザヤはやけに素直でどことなくやりにくい。
西に滞在する最後の朝。ヒョウとイザヤは一夜を共にした。
しかし誤解を生じないために予め言っておくが、ヒョウは彼と一線を超えた訳ではない。
ただヒョウとイザヤの利害を一致させた『傷を触る』お遊びをしていただけだ。
ただ、お互い裸で触り合っていただけだ。
他にもっとやることがあっただろうし、できた気もする。けれどヒョウはただ触り合うだけにした。その温もりに浸っているだけで良かった。
「この服は、俺がもらっちゃってもいいのか?」ヒョウは自分の着ている服を指差す。キチンとしたスーツだった。
「それは元々お前が落ちてきたときに着ていた物だろう?」
そうだったっけ?色々な事がありすぎて忘れてしまっていた。
「君が奪ったんだろ。」
「俺はその服を奪った時のアンタの不満そうな顔が見たかったんだよ。」
「なんじゃそりゃ……。」
思ったよりヒョウの反応が悪く萎えてしまったのだとか。
「……それにしても」
「なんだよ。」
「本当にお前、傷で反応するんだな。」彼は色っぽい笑みでニヤリと笑う。
ヒョウは耳をカッと赤らめた。
ヒョウにとってこの趣味が異端で、褒められたものではないことを自負しているのだ。
それを唯一喜んでくれるイザヤにもそんなこと言われてしまっては、立つ瀬がない。
「……気持ち悪いのは分かってる。」
「んな事一言も言ってねぇだろ?勝手に思考を歪ませるな。お前の悪い癖だぞ。」
「………。」
「ヒョウ、深い意味はねぇからあんまり気にしすんなよ?」
諭すように言う声音にヒョウの心が揺れる。
この男、普段はアホみたいにワガママで意地っ張りでサディストなマゾのくせに、こういう時だけひどく大人びて見えてしまう。
自分より遥かに余裕があって、自分より色んな経験をしていることを話していると、自覚させられる。
「なぁ、イザヤ。」
「ん?」
「一つ聞いてもいいか?」
「あいよ。」
「その背中の傷は誰にやられた。」
「…………。」
彼の表情に曇りが見えた。彼は普段、傷の話も過去の話も何かとウェルカム精神で何でも話してくれる。しかしある一定(点々)のラインからはいつもはぐらかされてしまう。
でも、今日は……いや今日が最後だからこそ知っておきたかった。
なぜ君は、君なんだ?と
責めている訳でもない。否定している訳でもない。ただ…………知りたいだけなのだ。
「……ある男に斬られたんだ。ザクッとね。」沈黙の後、重い口をやっと開いた。
「今までも何度も傷ついたし、何度も傷つけたけど、あれほどまでに死が近く感じたことはなかったなぁ。」
「………。」
「俺はね、あんたに期待してたんだ。」シャツをはだけさせたままイザヤはベットから降りて、ヒョウのすぐ近くまで来る。素肌から赤い点々としたキスマークが垣間見える。
「お前ならこの腐った俺を治してくれるんじゃないか、ってな。」
ヒョウが口を開こうとするのを制止するように彼は手をヒョウの口の前に広げると、話を続ける。
「俺は殴られるのが好きだ。痛いのが好きだ。……だけど時々、ものすごく虚しくなる。そう思っている自分に、そう感じてしまう自分に。
でも、駄目なんだ。
俺はこうなってなきゃいけない。こうなってでしか生きられない。
辛い。
でも気持ちいい。
虚しい。
でも気持ちいい。」
「………。」
「なぁヒョウ。
俺は、どうすればいい?」
自傷気味な笑みで笑った彼は、とても苦しそうだった。美しさとその頭脳を代償に彼に壮絶な過去と深い消えない傷を植え付けた。
それは拭っても拭いきれず、切っても切れ離せない深いものだった。
「………。」ヒョウは、静かに彼を抱き寄せた。
静かに、優しく、そして強く。
彼はヒョウに体を預け、されるがままに立っていた。
ヒョウには彼が時々小さな子どもに見えてしまう。助けを求めている、救いを求めている、小さな子供。
もっと早くに言ってくれれば、ヒョウも何かできただろうか。
(いや、違うな。)
このタイミングだからこそ、彼は話してくれたのだ。
「……時間だ。」小さく耳元で彼の声がした。
イザヤがそっと離れた瞬間、ドアがノックされてアラタが顔を出した。
「おい………あぁ、頭首もいましたか。
……医者、馬を引いているから早く来い。」
「あ、はい。」
荷物をアラタに奪われ、ヒョウも後に続く。
そしてドアから出る前に振り返り、彼に言う。
「俺がちゃんと聞くから、ずっと。」
彼は目を丸くし、それからケタケタ笑い出した。
「バァカ、お前はこれから南に行くんだろ?聞けるわけねぇじゃん。アハハハ!」
「………そうだけど。」
「アホだなぁ。」
「……う。」
「……でも、そうだな。
ありがとな、ヒョウ。」
彼はテーブルに腰掛け少し首を傾ける。
黒い瞳はまるで宝石のように煌めく。
風なんて吹かないのに、彼の周りからは涼しいさっぱりとした風が吹いているように感じた。
(やっぱコイツ、カッコいいな。)
そんな当たり前のことを、ヒョウは今になって初めて素直に思えた。
✱ ✱
「躊躇………してる…のかなぁ。俺。」ヒョウは天井を仰ぎながら独り言のようにつぶやく。
「してるように見えた。……でもぶっちゃけ、僕的にはお前が来てくれて嬉しかったけどな。」
「なんで?」
ケイは照れたように言った。
「………あんまり、気心知れた奴がいねぇからさ。」
「……ケイ。
俺以外にも友達……増やした方がいいぞ?」
「なんだその哀れみの目は!やっぱりお前なんて要らねぇよ!来てくれて良かったとか言った僕がバカだった。」
「嘘嘘。これからはご飯も一緒に食ってやるから。」
「いらねぇっっって!!」
「アハハッ。」
青年たちの笑い声は部屋中に広がった。




