(8) 「こんなにいい曲の良さがわからないなんて」
出た先はよくわからない場所だった。私のようなただの部屋でもなく……なんて言うのだろう。とにかく不思議な場所だった。
少し歩くと、一般的な住宅よりも大きく広い家が見えてきた。屋敷というか邸宅というか。もしかしてあれが、彼の家……?!
「着いたよ。これが俺の家」
「こっ、これが……!! すご〜い……大きい……」
入る前から興奮して、辺りをきょろきょろと見てしまう。家が大きいとなると、当然庭も広い。凄い。凄いしか出てこない。こんな家、間近で見たことがなかった。
「さ、入って。部屋に案内するから」
まずい。心臓の鼓動がうるさい。わ、私は本当にこの家に上がっていいのだろうか!
「お、お邪魔しま〜す……」
「どうぞ。」
思わずそろそろと歩く。壁も床も絨毯も、窓も全部素敵。自分の家の中を歩く時の音とは何かが違う。深くて重い。
廊下がいくつもある。部屋もたくさんある。あんまりウロウロしちゃいけないかなぁ。
「飲み物持ってくるね。何がいい?」
「えっと、うーん……ロゼはよく何を飲んでるの?」
「俺? 最近は紅茶かな」
「じゃあ紅茶がいい! ロゼといっしょ!」
「わかった。待っててね。お菓子はフィナンシェでいい?」
「うんっ!!」
ロゼが部屋を出て行った。待っている間、緊張で脚が震えそうだ。いや既に震えていた。
そういえばここは彼の部屋……で合っている、よね?机にベッドもあるし。ロゼの部屋ってこんな感じなんだ……。突然来ちゃったのに部屋がすっごく綺麗に片付けられてる。イリスの花畑に行く時にはもう片付けしてた、ってことだよね。
家の外観から想像する通りの、ちょっと良さそうな家具。でも豪華すぎない。本棚には難しそうな名前の本がずらりと並んでいる。多分学問の本に、小説と、これはなんだろう?タイトルらしいものが見つからないが、なんかかっこいい模様がついている。ロゼってこんな本を読むんだ……。私も小説は読んだりするけど、他に読むものといえばせいぜい図鑑とちょっとした学習書くらいだし。人が読んでる本を知るのって、なんだかおもしろい。
「お待たせ。」
部屋の扉が開くのと同時に、紅茶の華やかな香りとバターの香ばしい香りが部屋にふわりと広がった。
「わぁっ、おいしそう~!」
彼がおしゃれなトレーから紅茶のカップとフィナンシェを乗せた小皿をテーブルに移した。早く食べたくて手が飛び出そうになる。
「さ、どうぞ。紅茶、まだちょっと熱いから気を付けてね」
「はーい! いただきま~す!」
まずは紅茶を、火傷に気を付けてゆっくり飲む。う~ん、とってもいい匂い……。紅茶を飲む機会はそんなに多くないからあまり詳しくないのだけれども、私は茶葉の独特な香りがとっても好き。特にこの紅茶、風味豊かで上品……。こんなに美味しい紅茶は初めてだ。貴族が豪華な洋館で飲んでいるようなお茶みたい。
飲みながら、ロゼをちらりと見る。カップの持ち方から口への運び方など、細かな所作が美しくて驚いた。収穫祭の時も思ったが、やはりロゼは育ちがいいのかもしれない。なんだか素敵で、とても惹かれる。
「う~んいい香り……それにとっても美味しい! どうやったらこんなに美味しく淹れられるの?」
「淹れ方はポイントがいくつかあるけど、あとは使う茶葉とか……」
「むむむ、なるほど……」
ちょうど持ってきていたメモ帳に、彼から教えてもらったポイントを簡単に書いた。
次にフィナンシェを食べる。なんだこれは。紅茶同様、とにかく美味しすぎる。街のスイーツショップで買えるようなものとは味から食感、香りまで何もかもが違いすぎる。
「これすっごく美味しい……!! こんなに美味しいの、初めて食べたや!」
「よかった。これ、昨日作ったやつの余りだから……次は焼きたてを振る舞うね」
「えっ焼きたて?! というかこれ、ロゼの手作り……?!」
「うん。美味しいって言ってもらえて嬉しいよ」
凄いなあ。私はお菓子作りも料理も、簡単なものを少しやったことがある程度なのに。フィナンシェは前に作ったことはあるけど、焦がしバターがうまく作れなかったし、当然こんなに美味しくできたことはない。私もお菓子作り上手くなって、ロゼに食べてもらいたいな……。
ティータイムも終わり、ついにピアノを演奏してもらえる時が来た。我が家のようにどこかの部屋にとりあえず置いているのではなく、専用の部屋にグランドピアノが置かれていた。お嬢様やお坊ちゃんが通うような学校の音楽室みたい。
他にもいくつか楽器が置いてあって素敵だ。楽器を演奏するための部屋って憧れる。
「わぁ~……っ! すごい、グランドピアノだ~!! いいなぁ~っ」
感動で思わずはしゃいでしまった。何せ、グランドピアノなんて間近で見る機会があまりないのだから。私の家に置いてあるのはアップライトピアノだし、いやアップライトにもアップライトの良さがあるのだが、グランドピアノの大きくて豪華な感じが全方向から見てもかっこよくて、特に真上から覗いたりするのが——。
「何かリクエストとかある? 定番のクラシックと、一応ピアノも作曲したものがあるよ」
「ええっ! 迷うなぁ……うーん、ど、どっちも聴きたい!」
「いいよ。わかった。」
そう言って、ロゼは楽譜を置かずに椅子に座った。
私は邪魔にならない程度で、彼の近くに寄った。
ロゼの手が滑らかに鍵盤の上をすべり、演奏が始まった。バイオリンを弾いてくれた時みたいに、また辺りが舞台に変化したような気がした。
1曲目はクラシック。私も聴いたことがある、有名な曲。穏やかで、落ち着いていて、どこか寂しさのある曲。彼にぴったりだ。私もこの曲を弾きたいと思ったことはあるが、上級者向けでまだ自分にはできなかった。
圧倒された。彼は一度もミスを起こさなかった。決して短くはない曲なのに、楽譜もなしに。この難易度で。彼の演奏、それはプロのピアニストそのものだった。
あまりの衝撃で、拍手したくても腕が微塵も動かない。なんとか口だけは動かす。
「ロゼっ、すっごぉ~い!! プロの人みたい……!!」
「そ、そう? 流石にそこまでじゃないけど……嬉しいな、ありがとう」
もっと自信持ってもいいのに。だって同い年でこんなに上手い人、見たことないもん。
「……それじゃ、最後に俺が作った曲、弾かせてもらうね」
「うんっ!!」
さっきの曲とは少し違った雰囲気のメロディが響きだす。バイオリンの時と同じ、やさしい詩のような。彼はこういう曲を作るのが得意なのかな。
有名なクラシックみたいに、華やかで音が多くて、高い演奏技術があっての曲ではない。親しみやすく、口ずさみたくなる……どこか、例えば古い村に伝わる歌のような。そんな雰囲気が、彼の曲にはあるのだ。
「わぁ~~……っ! めちゃくちゃ素敵! 私、ロゼが作る曲すっごく好き! 毎日聴きたいくらい!」
「ほんと? そう言ってくれて嬉しいな……。また聴かせたいよ!」
ロゼはさっきよりも嬉しそうだった。私もロゼがそう笑ってくれるのが、とっても嬉しい。
「私もロゼみたいに楽器上手くなりたいなぁ~……! ピアノはまだ、習い始めてちょっとだけど……ロゼもやっぱり、習ってるの?」
「うん。小さい頃から、一応。」
小さい頃、か。ということは、もう何年も経っているわけか。英才教育というやつだろうか?
「……俺が作った曲、どれも大人の前ではあまり弾けないんだ。『もっとまともな曲を練習しろ』って。だからいつも、一人でひっそり作って、こっそり演奏してるんだ。でも……レイカが聴いてくれて、喜んでくれてよかった。ありがとうね。」
「ええっ、『まともな曲』だなんて……。ロゼのだってこんなに綺麗で素敵なのに!こんなにいい曲の良さがわからないなんて、人生損してるなぁ」
私が身を乗り出してそう言うと、ロゼはどこか困ったように苦笑した。その微笑みが、一瞬だけ苦しそうに見えたのは……私の気のせいだったのだろうか。
彼にピアノを弾いてもらったあと少し雑談していたら、もうあの花畑に帰る時間になった。もっと色んな部屋をじっくり見たかったし、もっとロゼと彼の家で一緒にいたかったけれど、また次の機会だ。短い時間でも、色んなことが知れて楽しかったな。
「ねえロゼ、またロゼのお家に行ってもいい? 家の人、誰もいない時に!」
樹を背もたれにのんびりしながら、私は言った。
「そうだね……うん、いいよ。またおもてなしするね」
「いいの?! やったぁ~!」
またロゼの紅茶が飲める。ロゼのお菓子が食べられる。ロゼのピアノが聴ける。最高だ。今度遊びに行けたら、次はどの楽器で何を演奏してもらおうか。他にも色々やりたい。楽しみだなあ……。
その日の夜、親から「今度の日は遅くに帰るからご飯とかなんとかしといて」と言われた。いつもならはーあ、めんどくさいなあと思うことなのだが、今は──
(やった!ロゼと遅くまで遊べる!家に誘うこともできちゃう!やった、やった、やった!)
口角が上がりそうなのをなんとか抑えて、部屋に戻りすぐアレイドを起動させた。彼とは明日も会えるから朝に話してもよかったのだが、待てなかった。
『ロゼ起きてる? 明々後日、私の親が遅くまで帰ってこないらしいんだけど、よよよかったら私の家で遊ばない?!』
ドキドキ……。
……………………。
メッセージを送ってから5時間ほどの時が経った。もう深夜になっちゃったけど、まだ返ってこないなぁ。もしかして寝ちゃってるのかな。寂しい……。
そろそろ寝ようと思っているのに、返信がいつ来るのかとソワソワして眠れない。そうしていたら、机の方からかすかに音が聞こえた。これはアレイドの通知音だ!
ベッドで横になっていた体をもそもそと起こし、ドキドキしながらアレイドを開く。




