第十二話 「空、渡す者」
朝五時、如月冴は鷹舎の扉を開けた。
止まり木の上で、疾がこちらを見た。数か月前と、同じ目だった。ただ、隣にもう一つ、小さな止まり木が増えていた。今年生まれた若い鷹が、そこにいた。名は、まだつけていない。
疾は、もう毎日は現場に出ていない。週に二、三度、短い依頼のときだけ、冴は疾を連れて出る。それ以外の日は、庭先で据えの時間を取るだけだった。若い鷹の訓練は、疾と並行して進めている。
鷹舎の外に、足音がした。
「おはようございます」
声の主は、まだ二十歳になるかならないかの若者だった。名は、悠人。半年前、フォレストパークの一件のあと、風の噂で如月流のことを聞きつけて訪ねてきた。最初は見学のつもりだったのが、今では週に何日か、冴の元に通ってきている。
「今日は、どっちからですか」
「疾から。悠人は、若鷹の籠手慣らし、続けて」
悠人は、うなずいて若い鷹の方へ向かった。まだ、ぎこちない手つきで、籠手を差し出す。若い鷹は、警戒したように少し身を引いた。
冴は、疾を腕に乗せて外に出た。悠人の様子を、視界の端で見ながら歩いた。
三十分ほど歩いたところで、悠人が声をかけてきた。
「これ、見てもいいですか」
悠人の手には、冴の覚書のノートがあった。休憩の合間に、貸してほしいと頼まれて渡したものだった。
「見取りのところ、羽とか風とか書いてあって、分かりやすかったです。間のところも」
悠人は、ページをめくっていた。手が、途中で止まった。
「これ、何ですか」
開かれたページには、一文字だけ書かれていた。
〈手〉
その下は、白紙のままだった。
「何も、書いてないですけど」
冴は、足を止めた。
疾が、腕の上でわずかに身じろぎした。冴は、その重みを感じながら、しばらく黙っていた。
「……昔、祖父に言われたことがある」
冴は、そう切り出した。
「鷹を乗せるんじゃない、預けるんだよ、って」
「預けるって、何をですか」
悠人が、まっすぐに聞いた。
冴は、答えなかった。腕の上の疾を見た。それから、空を見た。
朝の光の中で、雲が薄く流れていた。
答えは、すぐには出てこなかった。ここまでのノートを書いても、そこだけは埋まらなかった。見取りは分解できた。間も、言葉になった。それでも、この一文字だけは、どうしても書けなかった。
疾が、冴の腕の上で、静かに羽を整えた。
いつもの重さだった。
冴は、ゆっくりと口を開いた。
「……分からない部分を、預けるんだと思う」
悠人が、ノートから顔を上げた。
「分からない部分、ですか」
「風がどっちに変わるか、鳥がどう動くか、疾が今日どう思ってるか——全部、本当は分からない。分かった気になってるだけで、最後は分からないまま、任せてる」
冴は、疾の方を見た。
「疾にも、私が今日どこまで無理をさせないでいてくれるか、分からないはずだから。……それでも、預け合ってる」
言い終えてから、冴は少し黙った。まだ足りない、と思った。だが、これ以上は、今は出てこなかった。
悠人は、しばらく黙っていた。それから、ノートを閉じて、冴に返した。
「……分かるようになりますか。俺にも」
「分からない」
冴は、素直に答えた。
「私も、まだ全部は分からない。だから、一緒に見ていけばいい」
悠人は、小さくうなずいた。それから、若い鷹の方へ戻っていった。
冴は、疾を連れて、また歩き出した。
空は、まだ朝の色をしていた。疾の重みが、腕から肩へ、いつも通り伝わってくる。
いつか、この重みも、誰かの腕に渡る日が来る。
その日がいつになるか、冴にはまだ分からない。
それでも、今は、この重みを、確かに預かっていた。
空、渡す者 完




