21.
部屋は静まり返っていた。
シャーペンが紙を擦るカリカリという音と、時計の秒針が時を刻む音だけが無機質に響いている。
阿智奉太郎は、広げた参考書からふと顔を上げ、自室の壁へと視線を向けた。
隣の部屋から、ドタバタというせわしない足音や、何か硬いものを床に落としたような鈍い音が微かに壁越しに聞こえてくる。
相変わらず、一人でも騒がしいお隣さんだ。
奉太郎はシャーペンを机に置き、小さく息を吐いた。
親の都合でこの部屋で一人暮らしを始めてから、彼にとって「静寂」は当たり前のものだった。
誰にも干渉されず、誰のペースにも巻き込まれない。無駄のない効率的な生活。それに不満を抱いたことなど一度もなかったし、一人きりの時間を寂しいと思ったことすらなかった。
以前の食事といえば、ゼリー飲料やコンビニのサンドイッチをパソコンの画面を見ながら流し込むだけの、単なる栄養補給の作業でしかなかった。
無音の部屋で一人で過ごす時間は、奉太郎にとって最も合理的で落ち着くはずの空間だったのだ。
……それなのに。
(なんだか、いつもより静かすぎる気がするな)
昼神聖華が、強引にこの部屋の境界線を越えてくるようになってから、奉太郎の生活は一変した。
勝手に上がり込んでは台所に立ち、美味い飯を作り、くだらないことで一喜一憂しては騒々しく笑う。
彼女がいると、部屋はいつだってうるさくて、騒がしい。
けれど、そこには確かな「体温」があった。
今は、キッチンから聞こえてくる包丁の音や、甘い出汁の匂いがひどく恋しい。
くだらないテレビ番組を見ながら、「それなー!」とケラケラ笑う彼女の甲高い声がないだけで、部屋の空気がやけに冷たく感じられる。
彼女が自分の部屋に帰ってしまい、再び一人きりになったこの空間が、今はひどく広く、そして寂寞として思えるのだ。
これが『さみしい』という感情なのだろうか。
他人に無関心で、常にフラットでありたいと願っていた自分の中に、そんな人間らしい、そしてひどく非合理的な感情が芽生えていることが不思議だった。
ポッカリと胸の中に空いたような、正体不明の空虚感。
凪いでいたはずの水面に、ポツン、ポツンと波紋が広がっていくような感覚。
(彼女のあの騒がしさに、すっかり毒されてしまったらしい)
自嘲気味に口の端を緩めた、その時だった。
ピンポーン。
不意に、玄関のインターホンが軽快な電子音を鳴らした。
この時間に訪ねてくる人間など、一人しかいない。
奉太郎は立ち上がり、ゆっくりとした足取りで玄関へと向かい、ドアを開けた。
「どうしたの?」
「さっき助けてもらったから、そのお返し! じゃじゃーんっ、特製すき焼きセットだよっ!」
そこに立っていたのは、両手にずっしりと重そうなスーパーのレジ袋を提げた聖華だった。
自慢げに突き出されたレジ袋の中には、見事なサシが入った高級そうな牛肉のパックと、大量のネギや焼き豆腐が見え隠れしている。
「さすがに悪すぎるよ。すき焼きだなんて」
奉太郎は思わず顔をしかめた。
旧校舎裏での出来事は、お互いに助け合うことでトントンになったはずだ。それなのに、こんな豪華なお返しをもらっては、また彼の方が負い目を感じてしまう。
しかし、聖華は気にする素振りも見せず、ふわりとミルクティーブロンドの髪を揺らして首を傾げた。
「阿智くん、お肉キライ?」
「……いや、キライじゃないけど」
「じゃあ、一緒に食べよっ!」
聖華は満面の笑みを浮かべ、見えない尻尾をちぎれんばかりにパタパタと勢いよく振った。
「ご飯はね、一人で食べるより、一緒に食べたほうが絶対に美味しいんだよ!」
何の打算もない、純度百パーセントの底抜けに明るい笑顔。
その言葉を聞いた瞬間、奉太郎の胸の内にあった薄暗い空虚感が、春の陽だまりに照らされた雪のように、スッと溶けて消えていくのを感じた。
効率的で無機質だった一人の食事より、不器用で騒がしい二人での食事の方が、遥かに温かくて美味しい。
その事実を、奉太郎はもう否定できなかった。
「……そうだね。俺も、そう思う」
奉太郎は自然とドアを広く開け、彼女を部屋の中へと招き入れた。
すき焼きの甘い匂いを想像させる彼女の背中を見つめながら、奉太郎は小さく息を吐く。
先ほどまで感じていた微かな寂しさは、もう完全にどこかへ消え去っていた。
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