19.
放課後のチャイムが鳴り響き、ホームルームが終わると同時に教室の空気が緩んだ。
昼神聖華は自分の席で鞄を片付けながら、見えない尻尾をちぎれんばかりにパタパタと振っていた。
昼休みに奉太郎と一緒にお昼ご飯を食べた幸福感が、未だに胸の奥でポカポカとくすぶっている。
超ご機嫌な気分のまま、隣の席で帰り支度をしている奉太郎を誘おうと、大きく息を吸い込んだ。
「阿智くんっ、一緒に帰ろ――」
「昼神さん、ちょっといいかな」
声をかけようとした瞬間、教室の入り口から不意に名前を呼ばれた。
振り返ると、そこには見知らぬ男子生徒が立っていた。
隣のクラスの生徒だ。
周囲のクラスメイトたちが、ヒソヒソと好奇の視線を向けてくる。
聖華は一瞬できょとんと目を丸くしたが、彼が醸し出している特有の嫌な雰囲気を感じ取り、すぐにすべてを察してしまった。
どうせ、またいつものアレだ。
聖華の豊かな胸と派手な見た目だけを目当てにした、下心まみれの呼び出しである。
今ここで冷たく断れば角が立ち、また「誰でもいいくせに気取っている」などと嫌な噂を立てられてしまう。
聖華は諦めたように小さく息を吐き、作り笑いを浮かべた。
「いいよ。どうしたの?」
男子生徒に促されるまま、教室を出ようと立ち上がる。
その時、横から伸びてきた手が、聖華のブレザーの袖を軽く引き留めた。
「どうしたの?」
振り返ると、奉太郎が凪いだ瞳でこちらを見上げていた。
その声はいつも通り平坦だが、どこか心配しているような微かな熱がこもっている。
「あっ、なんでもないよっ! すぐ戻るからっ!」
聖華は慌てて笑顔を作り、無理やり明るい声を出した。
「何でも無い顔してない」
奉太郎が静かに、しかし鋭く指摘する。
その真っ直ぐな言葉と優しさに、聖華の胸がギュッと締め付けられた。
頼ってしまいたい。しかし、下心まみれの泥沼のようなトラブルに、大好きな彼を巻き込むわけにはいかないのだ。
「ホント大丈夫だからっ! じゃあねっ!」
聖華は半ば強引に袖を振りほどき、小走りで男子生徒の後を追って教室を飛び出した。
案内されたのは、放課後は人気がなくなる旧校舎の裏手だった。
男子生徒は振り返るなり、ニヤニヤとした下卑た笑みを浮かべて口を開く。
「俺と付き合ってよ」
「ごめんなさい。あたし、そういうのは無理だから」
聖華は即座に、きっぱりと拒絶した。
すると、男子生徒の顔からスッと余裕が消え、露骨に不機嫌な表情へと変わる。
「じゃあ、いいや。一回ヤラせてよ。誰にでもヤラしてくれるって噂でしょ?」
ズカズカと距離を詰められ、壁際に追いやられる。
男子生徒の視線が、制服のブラウスを押し上げる聖華の大きな胸にねっとりと絡みついていた。
気持ち悪さと恐怖で、聖華の全身に鳥肌が立つ。
「そんなことしないよっ!」
「嘘つき! ホントは誘ってるんだろ! そんなデカい胸して、男を煽ってるくせに!」
逆ギレした男子生徒が、強引に聖華の腕を掴もうと手を伸ばしてくる。
逃げ場を失った聖華が、ギュッと目を瞑り、悲鳴を上げそうになった瞬間だった。
「何やってるのかな」
気怠げで、ひどく冷ややかな声が旧校舎裏に響いた。
ハッとして目を開けると、そこにはスクールバッグを肩にかけた奉太郎が立っていた。
感情を一切読ませない凪いだ瞳が、男子生徒を静かに見据えている。
「お、おまえには関係ないだろっ!」
邪魔をされた男子生徒が、苛立ち紛れに吠える。
「関係あるよ。クラスメイトだし」
奉太郎は淡々と答え、ゆっくりとした足取りで聖華と男子生徒の間に歩み出た。
その背中が、震える聖華を庇うように立ち塞がる。
圧倒的な冷静さを前に毒気を抜かれたのか、男子生徒はチッと舌打ちをして背を向けた。
「待って。謝ってよ」
立ち去ろうとした背中に、奉太郎の静かな声が刺さる。
男子生徒が苛立たしげに振り返った。
「あ?」
「女性にさっきみたいな、ひどいことを言うのは、よくない」
「阿智くんっ」
奉太郎のあまりにも真っ直ぐな言葉に、聖華は思わず彼の名前を呼んだ。
しかし、それが男子生徒の逆鱗に触れてしまったらしい。
「うるせえっ!」
激昂した男子生徒が、思い切り拳を振り上げた。
避ける時間は十分にあったはずだ。
しかし、奉太郎は一歩も引かず、ただ無抵抗のままその拳を受け入れた。
ゴッ! という鈍い音が響き、奉太郎の顔が横に弾かれる。
頬が赤く腫れ上がり、口の端から一筋の血が流れた。
「きゃあっ! 阿智くんっ!」
聖華が弾かれたように悲鳴を上げる。
しかし、奉太郎は顔色一つ変えずに正面へ向き直り、親指で口元の血をスッと拭き取った。
「これで、先生に報告することもできる。大事にはしたくないだろ」
痛みを微塵も感じさせない、底冷えするような平坦な声だった。
暴力を振るわれたという揺るぎない事実を武器に、淡々と相手を脅し上げる。
その底知れない不気味さに、男子生徒の顔がサァッと青ざめた。
「く、くそっ!」
男子生徒は怯えたように後ずさると、脱兎のごとくその場から逃げ出していった。
残されたのは、静まり返った旧校舎裏と、頬を腫らした奉太郎、そして呆然と立ち尽くす聖華だけだ。
「ごめんなさいっ! あたしのせいでっ」
聖華は堪えきれず、奉太郎の胸にすがりつくようにして泣き崩れた。
大粒の涙がボロボロと溢れ出し、彼の制服を濡らしていく。
自分が強がらなければ、彼にこんな痛い思いをさせることはなかったのだ。
「君のせいじゃない。謝る必要もない。悪いのはアイツだし」
奉太郎は静かにそう言うと、ポロポロと泣きじゃくる聖華の頭にぽんと手を乗せた。
不器用で、けれど酷く優しい手つきだった。
「それに」
少しだけ間を置き、彼がポツリとこぼす。
「お互い助け合おうって、言ったでしょう」
それは、火傷をしたあの日、彼がカレーの代金とトントンだと言って笑い飛ばしてくれた言葉の延長線上にあるものだった。
彼にとっては、弁当の貸し借りも、暴力から身を挺して守ることも、すべてが等価の『助け合い』なのだ。
その優しすぎる理屈に、聖華の心は完全に打ち砕かれた。
「阿智くん……うううううっ」
もはや言葉にならず、聖華はただ彼の胸に顔を埋めてしゃくり上げた。
自分をいやらしい目で見ない唯一の男の子。
そして、傷つくことを恐れずに自分を守り抜いてくれた、たった一人のヒーロー。
彼への重すぎる愛情が限界を突破し、純情ギャルはもう二度と抜け出せない深みへと堕ちていくのだった。




