13.
早朝の教室。始業にはまだ随分と時間がある。
誰もいない静かな空間で、阿智奉太郎は自分の席に座り、教科書とノートを広げていた。
親の都合で一人暮らしをしている彼にとって、朝の教室での予習復習は、誰にも邪魔されない日課の朝活となっている。
静寂の中、シャープペンの芯が紙を擦る音だけが小気味よく響いていた。
ガラリと教室の前扉が開き、幼馴染の塩尻みさおが鞄を肩にかけて入ってきた。
彼女は迷いなく奉太郎の席まで歩いてくると、机の端にポンと小さな袋を置いた。
「おっす。今日も早いね」
塩尻みさお。奉太郎の幼なじみであり、クラスメイトでもある。
「みさおか。これは?」
「これ、あげる。VTuber『ワインの兄貴』の新作グッズ。サンプルもらったから」
奉太郎が淡々と応じると、みさおは苦笑いしながら肩を竦めた。
「こないだのアルバイト代わり」
「いらないって言ってるのに」
「パピーがどうしてもってさ。ご意見もよろしくって。奉太郎のフラットな意見、すごく助かってるんだって。マミーもあんたのこと信頼してるし」
「そうか。ありがたくもらっておく」
袋の中身を鞄にしまおうとしたその時、机の上に置いていた奉太郎のスマートフォンが短く震えた。
画面にメッセージアプリの通知がポップアップする。
差出人は昼神聖華。先ほどの、一人で勝手にパニックに陥っていた謎の通話の続きだった。
画面を盗み見たみさおが、ふぅんと鼻を鳴らす。
「なんだよ」
「べつにー。昼神さんと、まだ繋がってんだなって」
「そうだよ」
隠すことでもないため、奉太郎は短く肯定した。
みさおはどこか含みのある視線を奉太郎に向け、机の前に身を乗り出してくる。
「別にいいんだけどさ。結局、付き合うの?」
「またそれか。どうして極端な結論に急ぐんだ」
奉太郎が呆れたように小さく息を吐くと、みさおは真剣な顔つきになった。
「男女の友情なんて、成立しないでしょ。結局、付き合うか付き合わないかに落ち着いちゃうわけじゃん」
「極端な意見だよ」
世の中の人間関係をすべて恋愛の枠組みに当てはめようとする同年代の風潮に、奉太郎は小さく首を振った。
そんな奉太郎の塩対応を前にして、みさおは少しだけ表情を和らげ、ぽつりとこぼす。
「ねえ。いいんだよ、昔みたいにうちに来ても。パピーもマミーも全然気にしてないし」
彼女の声には、幼馴染を案じる純粋な気遣いが滲んでいた。
一人暮らしの寂しさを埋めるための、彼女なりの不器用な提案なのだろう。
「ひとりでご飯食べるの、さみしいでしょ?」
「いや、今はそうでもないよ」
奉太郎は手元のノートから顔を上げ、凪いだ瞳でみさおを見返した。
その真っ直ぐな否定に、みさおはわずかに息を呑む。
少しの沈黙の後、彼女は探るような声で尋ねた。
「……昼神さんのおかげ?」
「そうだな」
聖華が無理やり押しかけてきて手料理を振る舞うようになってから、一人でゼリー飲料をすするような無機質な食事はなくなった。
親の都合で一人暮らしを強いられ、静かすぎる部屋で淡々と時間を消費するだけだった奉太郎の日常は、あの日を境に一変したのだ。
強引に上がり込んでは台所に立ち、美味い飯を作り、くだらないことで一喜一憂しては騒々しく笑う。
うるさくて、少しドジで、やたらと世話焼きなクラスメイト。
彼女の存在が、今の奉太郎の生活に確かな温かさをもたらしているのは事実だった。
「あの明るさに、救われてるとこある」
奉太郎の口からこぼれた素直な本音に、みさおは目を丸くした。
他人に無関心なこの幼馴染が、誰かの影響を肯定的に受け入れていることが意外だったのだ。
「それに、見てて……面白いしな」
不意に口を突いて出た言葉に、奉太郎自身も少し驚いた。
しかし、それは紛れもない本心だった。
勝手に勘違いをして自爆したり、五十三万IQなどと謎の自信を掲げてはポンコツな失敗を繰り返したりする彼女の姿は、見ていて飽きない。
凪いだ水面のように平坦だった奉太郎の感情に、彼女はいつも小さな波風を立てていくのだ。
その騒がしさが、今の奉太郎にとってはひどく心地よかった。
「……ふぅん」
みさおは視線を逸らし、短く呟いた。
窓の外を眺める横顔には、安堵と、どこか寂しげな色が入り混じっている。
「良かったね」
「ああ。ありがとう」
奉太郎が短く感謝を口にすると、みさおはひらひらと手を振りながら自分の席へと歩いていった。
一人残された奉太郎は再びスマートフォンに目を落とす。
画面の向こうで今頃あかっぱじをかいて悶えているであろうお隣さんのことを思い浮かべ、彼の口元にはほんの少しだけ穏やかな笑みが浮かんでいた。
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