12.
温かくて、少しだけ甘い出汁の香りが鼻腔をくすぐる。
トントントンと、まな板をリズミカルに叩く包丁の音が響いていた。
キッチンに立つエプロン姿の母親の背中は、幼い昼神聖華にとって何よりも安心できる絶対的な場所だった。
お母さんの作るご飯は、いつだって魔法みたいに美味しかった。
一緒にキッチンに立ち、見よう見まねで野菜の切り方を教わる時間が、聖華は大好きだった。
しかし、その温かく色鮮やかな日常は、ある日を境に唐突に色を失ってしまう。
甘い出汁の匂いは、鼻を突く冷たい消毒液の匂いへと変わった。
軽快な包丁の音は、無機質に心拍を刻む電子音へとすり替わる。
真っ白な病室のベッドに横たわる母親は、日を追うごとに小さく、細くなっていった。
「あたし、一人でやっていけるよ」
小さな手で、骨張って冷たくなった母親の手を痛いほど強く握りしめる。
涙を見せたら、お母さんが安心して眠れない。
だから聖華は、必死に強がって笑顔を作った。
「料理も、掃除も、洗濯だって、全部ひとりでできるようになったから」
お母さんが教えてくれたカレーのレシピは、もう完璧に作れるようになった。
一人ぼっちの暗い部屋に帰るのも、もう全然寂しくない。
だから、どうか自分のことなんか気にしないでほしい。
「だから……だから、心配しないで……」
その切実な願いが届いたのかどうか、今となってはわからない。
ただ、母親の力なく微笑む顔だけが、聖華の記憶の中で白く薄れていく。
深い深い悲しみの底へと、身体がゆっくりと沈んでいく感覚があった。
◇
ハッと息を呑み、昼神聖華は跳ね起きるようにベッドの上で身を起こした。
目尻からツーッと冷たい雫が伝い落ち、シーツに小さな染みを作っていく。
悲しい夢を見たはずなのに、目覚めた瞬間にその核心の記憶はすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
ただ、胸の奥をギュッと握り潰されるような、酷い喪失感だけが残っている。
昔はこういう悲しい夢を見たとき、いつも決まって暗い部屋で膝を抱え、亡き母のことを思って泣いていた。
でも、今は違う。
(阿智くん)
不意に脳裏に浮かんだのは、世の中のすべてに達観したような、あの不器用な少年の顔だった。
感情の起伏が薄く、いつも塩対応。
それなのに、昨夜も転びそうになった聖華を真っ先に庇い、自分の手に火傷を負ってまで助けてくれた。
その凪いだ瞳や、ぶっきらぼうで優しい声を思い出すだけで、冷え切っていた心が嘘のようにポカポカと温かくなっていく。
悲しみはすっかり溶けて消え、代わりにフワフワとした甘い熱が胸の奥を満たしていく。
聖華は見えない尻尾をパタパタと振り、ベッドの上でだらしない笑顔を浮かべた。
(好きだなぁ)
完全に彼という底なし沼に沈んでいる自分を自覚しながら、聖華はゆっくりと立ち上がる。
制服に着替えるため、姿見の前に立つ。
鏡に映るのは、ルーズに巻いたミルクティーブロンドの髪と、嫌でも目を引く発育の良すぎる大きな胸だ。
ふと、ブラウスのボタンを留めようとした聖華の手がピタリと止まる。
(どうすれば、阿智くんとカレカノになれるのかな)
男の子はみんな、こういう大きな胸が好きなはずだ。
しかし、奉太郎のあの凪いだ瞳が、聖華の身体を性的な目線で舐め回してきたことなど一度もない。
聖華はコクリと喉を鳴らし、少しだけ震える手で、ブラウスの第一ボタンを外してみた。
胸元の谷間が、いつもより無防備に強調される。
本当は、こんなふうに肌を晒すのは大嫌いだった。
有象無象の男たちから、いやらしい性的な対象として見られるからだ。
でも、阿智奉太郎になら、いい。
てゆーか、むしろ彼になら、見てほしいとすら思ってしまう。
(あたし、なんてエッチなこと考えてるんだろ)
自分のふしだらな妄想に顔から火が出そうになり、聖華は両手で真っ赤な頬をパチンと叩く。
気合いを入れてリップを塗り直し、スクールバッグを手にして勢いよく部屋を飛び出した。
隣の部屋の前に立ち、小さくこほんと咳払いをする。
意を決して、インターホンのボタンを押した。
ピンポーン、と無機質な電子音がマンションの共用廊下に鳴り響く。
ドアが開いたら、まずはとびきりの笑顔で偶然を装うのだ。
そして、一緒に学校へ行くための完璧な言い訳を披露する。
頭の中でシミュレーションをこなし、見えない尻尾を振りながら待機した。
しかし、十秒経っても、二十秒経っても、一向にドアが開く気配はない。
部屋の中から、生活音一つ聞こえてこないのだ。
(あれ。でてこない。どうしたんだろ)
昨日の今日だ。
まさか、庇ってくれたときの火傷が悪化したのではないか。
それとも、一人暮らしの部屋で急病で倒れているのではないか。
最悪の想像が脳裏をよぎり、聖華の顔面から一気に血の気が引いていく。
強烈なオカン魂が限界を突破し、聖華は力任せに鉄のドアを叩き始めた。
「阿智くんっ。大丈夫っ。阿智くんっ」
ドンドンドンッと遠慮なくドアを叩きまくる。
それでも反応がないため、聖華は震える手でスマートフォンを取り出した。
慌ててメッセージアプリの通話ボタンを押し、耳に当てる。
数回のコールの後、ガチャリと通話が繋がった。
「阿智くんっ。大丈夫っ。ケガっ。病気っ」
『? もう学校だけど』
「あ」
涙声で叫んだ聖華の動きが、ピタリと静止した。
スピーカー越しの奉太郎の声は、恐ろしいほど平坦でいつも通りだった。
現在の時刻は、彼のような真面目な生徒なら、とっくに登校を終えて教室で読書をしていてもおかしくない時間である。
カァァァァァッ。
一瞬にして、聖華の全身の血液が沸騰した。
誰もいない廊下で、一人で勝手にパニックになり、一人でドアを叩きまくっていたのだ。
『どうしたの?』
「なんでもないでひゅっ」
見事に噛み倒した裏返った声で通話を切り、聖華はその場にペタンとへたり込んだ。
羞恥のあまり膝から崩れ落ち、頭を抱えてうずくまる。
(あかっぱじ。なんたるあかっぱじっ)
五十三万IQの頭脳をもってしてもリカバリー不可能な大失態。
純情ギャルは一人、冷たい廊下で悶え苦しむのだった。
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