9話
赤城厩舎でカナヅルコトヒメの調教に苦労している日々が続いていた。
そこに関東の美浦トレセンに行っていた大和騎手が栗東トレセンに帰ってきた。
「おはようございます。今日からまたよろしくお願いします」
大和騎手が早朝の厩舎で元気な挨拶をすると
「飛鳥、帰ってきたのか」
加賀騎手が久しぶりに厩舎に来た大和騎手に挨拶をした。
「おはようございます。加賀さん、また今日からよろしくお願いします」
「土佐先生のところでは問題なくやれていたみたいだな。明親からも厩舎でのことは連絡を受けているよ」
土佐明親騎手は土佐調教師の甥で、加賀騎手の同期に当たる人で関東の方でもトップジョッキーの一人である。
加賀騎手とは騎手学校時代から仲が良く、今回大和騎手が関東で長期滞在するにあたってその手伝いをしたのが加賀騎手である。
そのつてを使って加賀騎手が土佐明親騎手と土佐調教師に話をつけたのだ。
「美浦でお世話になっている間に、土佐先生の所属馬と合わせて2勝することができました。自分としてはよくやったかなと思ってます」
大和騎手は滞在の間に何度か土佐厩舎の馬に乗せてもらいその中の1頭で勝つことができた。また別の厩舎でも乗せてもらった馬で1勝することができたので今回の美浦での長期滞在はまずまずの成果であった。
「俺もほっとしてるよ。土佐先生の厩舎で預かってもらえないかと頼んだのに、全く役に立たなかったらと思うと毎日心配していたよ」
加賀騎手は大和騎手が結果を出してくれたのでほっとしていた。
「私も加賀さんに恥をかかせないように頑張りましたから」
「それじゃあ今度は赤城厩舎の馬で結果を出さないといけないな」
「はい。修行の成果が出せるように頑張ります」
大和騎手も美浦での勢いのまま栗東でも結果を出していきたいとやる気を出していた。
「飛鳥は今日調教に乗るのか」
「はい。今日はアハトリヒトに乗る予定です。加賀さんは?」
「俺はカナヅルコトヒメに乗ることになっているよ」
加賀騎手は声を落として答えた。
「カナヅルコトヒメに乗るんですか。私は今日が初めてなんですよ。美浦に行ってる時からずっと楽しみにしてたんですよ」
「そういえばカナヅルコトヒメが厩舎に来るのを楽しみにしていたんだったな」
「はい」
大和騎手は今日初めてカナヅルコトヒメとジンライフウレツを見ることができるので昨日からワクワクしていた。
「 今は馬房にいるはずだから見に行くとしようか」
「はい。行きましょう」
大和騎手の楽しそうな顔を見て、果たしてカナヅルコトヒメの調教が終わった後も笑っていられるのかとは想像しながらカナヅルコトヒメのいる馬房にむかった。
馬房に行くと北上厩務員がカナヅルコトヒメの世話をしているところだった。
「おはよう北上」
「 おはようございます加賀さん。飛鳥さんもおはようございます、こっちに帰ってきてたんですね」
「 おはよう北上君。 朝から元気がないね」
大和騎手はカナヅルコトヒメに会うのを楽しみに厩舎に来たのに、北上厩務員が肩を落としながら作業をする姿を見て体調が悪いのかと心配の声をかけた。
「今日は北上がカナヅルコトヒメの担当なのか」
加賀騎手は北上厩務員が元気のない理由をすぐに察した。
「はい、そうです。今日の調教は加賀さんが乗るんでしたね」
「ああ。今日も無事に終わるように頑張ろう」
2人は今日の調教が無事に終わるようにと同じ思いを持っていた。
「どうして2人とも不安がっているんですか?」
大和騎手が2人の姿を見て疑問を持った。
「飛鳥はカナヅルコトヒメが入厩してからの出来事を聞いていないのか」
大和騎手がカナヅルコトヒメについて知らないようなので聞いてみると
「カナヅルコトヒメの調教や世話が大変だという話は聞いています」
大和騎手はカナヅルコトヒメの調教や世話が大変だという話は聞いているが、電話での世間話の中での話題だったので、多少誇張していると思って聞いていた。
そのために実際の厩舎のスタッフが感じていたカナヅルコトヒメの癖馬っぷりを過小に評価していた。だから、北上厩務員が朝から落ち込んでいる姿を見てもカナヅルコトヒメの世話をすること落ち込む理由が繋がらなかったのだ。
「どうやら他の馬の基準で考えているようだな」
加賀騎手がカナヅルコトヒメの苦労を普通の馬の感覚で考えているようなので注意も兼ねて説明した。
「俺や羽黒さんが調教に乗っているが、今まで乗った中でも断トツで難しい馬だ。いつも終わった後には振り落とそうとして普通に降りるのも難しい。 カナヅルコトヒメの調教を担当する日は朝から覚悟をしなければいけない。もし一瞬でも気を抜いたら大事故を起こしかねない大変な馬何だ」
続けて北上厩務員も
「普段からの世話も一苦労で、楽しいと思う暇もありませんよ 。気を抜いたりしたら後ろから噛み付いてきたり、調教のために外に出そうとしても動きたくないと思ったら頑として動かない。誰も担当になりたがらないので皆が持ち回りでやってる状態です」
「そんなに大変な状態だったんですか」
大和騎手は2人の話を聞いて、自分がいない間の厩舎が大変な状態だったことを初めて知った。
「飛鳥、以前からジンライフウレツとコトヒメのことは気にしていたから楽しみだろうが気を抜くようなことをするな。馬の相手をする時に油断をしたら事故につながるのだから当たり前のことだが、カナヅルコトヒメの場合はさらに注意しないと馬も自分も大事故につながるかもしれないから肝に銘じて心におくんだぞ」
加賀騎手はカナヅルコトヒメとジンライフウレツに会えることで浮かれていた大和騎手に気を引き締めるように強い口調で注意をした。
大和騎手は加賀騎手からの注意を聞いて自分が浮かれているということを自覚した。事故を起こしたり怪我をしないように改めて気を引き締めた。
大和騎手が気を引き締めていることを確認した加賀騎手は
「それじゃあカナヅルコトヒメとジンライフウレツを見に行くか」
とカナヅルコトヒメとジンライフウレツを見に行こうと大和騎手に伝える
「はい」
大和騎手は最初の浮かれた返事ではなく、気を引き締めたはっきりとした返事をして馬房に向かった。
加賀騎手について厩舎に入っていった。
そして、ある馬房が目に止まった。
中から白い毛色の首が飛び出して離れていても直ぐに分かった。
馬房に近づくと人が来たことに気づいたカナヅルコトヒメが顔をこちらに向けてきた。
「この仔がカナヅルコトヒメですか」
大和騎手は初めて見るコトヒメに感動した。
カナヅルコトヒメを見た瞬間から言葉も発することなくただその姿を見続けている。
コトヒメもまた、初めて見る大和騎手に興味を持ったのか、じーっと大和騎手の顔をみ続けていた。
「 初めて見るコトヒメはどうだ」
加賀騎手が質問すると
「感動です。真っ白で本当に綺麗な馬ですね」
大和騎手は素直な気持ちをそのまま伝えた。
「初めて見た時は俺もそういう気持ちだったんですけどね」
北上厩務員も初めて出会った時の楽しみな気持ちを思い出していた。
「写真を撮っていいですかね」
大和騎手がカナヅルコトヒメと一緒に写真を撮ってもいいかと質問すると
「確か浅葱オーナーが昨日から泊まって、今日の調教を見に来ているはずだ。ちゃんと許可をもらった方がいいだろう」
浅葱オーナーが厩舎の見学に来ているので、撮影するなら挨拶して、許可をもらってからがいいだろうと加賀騎手が言った。
「それじゃあ浅葱オーナーが来ているか確認してきます」
北上厩務員が確認しに事務所に向かって行った。
北上厩務員が出て行った後も、カナヅルコトヒメはこちらから目を離さず、じーっと見続けている。
加賀騎手はその姿を見て
「やけに大人しくしているな。普段なら初めて見る人はもっと警戒しているのに」
大和騎手を見ても大人しく頭を出しているのを見て驚いていた。
「本当に普段そんなに問題起こしているんですか?
とてもそうは見えないんですけど」
大和騎手が注意をされていたので、警戒しながら頭を撫でようとした。しかし、カナヅルコトヒメは全く嫌がらずに大人しく撫でられている。
「ああ。初めて会う人間に対しては警戒して近づかせようとしないのにこんなに大人しいのは初めてだな」
カナヅルコトヒメが大人しく大和騎手に撫でられている姿を眺めていると、北上厩務員が戻ってきた。
「 オーナーと先生に許可をもらえました。それと、オーナーが子供達にも見せてあげたいから、後で写真をもらえるとありがたいと言ってました」
「分かった。それじゃ許可も貰えたことだし撮ろうか」
オーナーの許可がもらえたので加賀騎手は大和騎手がカナヅルコトヒメの頭を抱えている姿を写真に納めた。
大和騎手と写真を撮っている間もカナヅルコトヒメは大人しくしており、何事も無く撮り終えた。
「ありがとうございます」
大和騎手は写真を撮り終えたので抱えていた手を離して写真を確認しよう 加賀騎手の方に近づこうとした。
すると
「えっ」
突然頭に衝撃が走った。
カナヅルコトヒメが大和騎手の頭に噛み付いたのだ。




