8話
ジンライフウレツとカナヅルコトヒメが栗東に来て2週間が経った。
最初にあった心配は一つも外れず、全て現実のものになった。
「カナヅルコトヒメは動かないのか 」
「厩舎前からガンとして 動こうとしません 」
調教の初日からコトヒメは言うことを聞かず なかなか調教には向かおうとしなかった。
「先生、羽黒さんが」
「どうした」
コトヒメの調教が終わった後に降りようとしたタイミングで暴れられて落とされました」
「何、羽黒は大丈夫なのか?カナヅルコトヒメは?」
「カナヅルコトヒメは羽黒さんを振り落としたら暴れずにどこに行くでもなくそのまま佇んでいていたので、すぐに北上さんが厩舎連れていきました。北上さんが確認したところでは大きなケガはないようです。
黒田さんも体を打ちましたが骨を折ってはいないようです 」
「そうか 、一応病院に行くように言っておいてくれ」
赤城調教師は羽黒調教助手がカナヅルコトヒメの調教を終えた後に振り落とされたと聞いて心配したが、軽い怪我で済んだ と聞いてほっとした。
「アハトリヒトが怯えています」
担当の厩務員が赤城調教師に知らせに来たが、話を聞くと厩舎で預かっているアハトリヒトがコトヒメに怯えてしまって近づこうとしないのだという。「アハトリヒトは4歳だったな」
「はい」
2歳上なのに怯えているのが馬が臆病と考えるべきなのか、4歳馬でも怯えさせているカナヅルコトヒメの気性が凄いのか。
「周りの古馬たちも威嚇しようとするんですが、逆にカナヅルコトヒメが威嚇し返して古馬たちがちょっかいをかけようとしないのでカナヅルコトヒメがすごいのでは?」
入ってきて早々に厩舎のボスになろうとしているのかとこれからの苦労を想像して頭が痛くなった。
北上厩務員はカナヅルコトヒメが来てからの2週間の間に疲労がたまり疲れた顔をしていた。
「大丈夫か北上?」
「 加賀さん、光輝さん、おはようございます」
早朝の調教前の二人の挨拶に力のない言葉で返事をした 。
「だいぶ疲れてるみたいだな」
「はい 、最初に話を聞いていた時の自分に教えてやりたいですよ 。カナヅルコトヒメを世話する苦労はその想像の10倍はあるぞと」
加賀騎手と北上厩務員はカナヅルコトヒメが厩舎に来てからの厩舎のスタッフの苦労を陸奥騎手に話し出した。
「カナヅルコトヒメの世話は誰が担当になるかは結局決まらずにとりあえず周りのスタッフ全員で交代で行って相性が良さそうな人を決めようという話になったんですが、もう初日から大変で次の人に注意を促したり励ましたりが続いてます。
カナヅルコトヒメの担当の日が来ると皆憂鬱になっていますよ」
「横で見ていて大変そうだとは思ったけど、厩舎スタッフは相当メンタルをやられてるんだな」
陸奥騎手が精神的な負担が大きく、皆が疲労を溜めているのをを感じていた。
「メンタルだけじゃなくて身体もですよ 。厩舎を出て調教を行う時にも不安だから2人で引かないといけないし、調教が終わった後も羽黒さんや加賀さんを振り落とそうとするんですよ。それを抑える時も全力で対応しないといけないから担当になった人は生傷が絶えない状態です。
北上厩務員はここまでの苦労を語った。
「逆にジンライフウレツはすごく順調に過ごしていますね、カナヅルコトヒメの苦労とは対照的ですよ」
ジンライフウレツの調教に乗っている陸奥騎手に対して半分妬みの感情を込めて感想を述べた。
ジンライフウレツは陸奥騎手も調教に乗っていたがカナヅルコトヒメとは逆で厩舎の中でも大人しく人懐っこく、調教に乗ってもに全く問題無く、終わった後もカナヅルコトヒメの様に振り落とそうとしない。
カナヅルコトヒメの担当を経験した人は、毎日平和に世話や調教を行うスタッフを羨ましい目で見ていた。
「 さすがに申し訳ないと思っているよ」
陸奥騎手は自分がジンライフウレツとコトヒメが赤城厩舎に来る切っ掛けを作った事に少し後ろめたさを感じていた。
「俺もカナヅルコトヒメの調教を手伝いますと赤城先生に話したけど、乗って怪我をしてジンライフウレツのデビューに乗れなくなったり、他の厩舎の調教に乗れなくなるのも問題だろうから乗らなくていいと止められてるんだ」
赤城調教師は話題作りにジンライフウレツに陸奥騎手が乗ってデビューしてほしいと考えていた。
カナヅルコトヒメの調教に乗って怪我をしてジンライフウレツのデビュー戦に乗れなくなることを恐れてカナヅルコトヒメの調教には関わらせないでいた。
その分を加賀騎手が引き受けてくれていたのだが、加賀騎手に調教が難しい馬を任せてしまうことに若干の後ろめたさがあった。
その陸奥騎手の後ろめたさを感じて加賀騎手は
「気にすることは無いさ 。カナヅルコトヒメは乗りこなすのは難しい馬だが、それだけ俺の腕を赤城先生が認めてくれているということだからな。調教とはいえジンライフウレツにも乗せてのもらっているし、これだけ良い馬に乗せてもらえるというのは騎手として信頼してもらっている証拠だからな、騎手冥利に尽きるというもんだ」
と、陸奥騎手を気遣った。
「しかしカナヅルコトヒメに誰が乗るのかは悩みの種だな」
「やっぱり加賀さんか光輝さんが乗るんじゃないんですか」
北上厩務員はやはり一番乗っている加賀騎手かジンライフウレツに乗っている陸奥騎手が乗るのではないかと考えていた。
「浅葱オーナーと赤城先生の間では取り敢えずデビュー戦は俺が乗る方向で行こうという話になってるみたいだな。一応話は聞いているんだが、正直ちゃんとレースを出来るか自信が持てないんだ」
加賀騎手は乗ることはできてもレースで騎手の言うことを聞いてくれるかどうかの不安があるために、自分から積極的に乗りたいとは言わなかった。
「 俺も赤城先生も周りの騎手に話を聞いてはいるんだが、ベテランのジョッキーはジンライフウレツには乗る機会があったら是非にと言ってくれるがカナヅルコトヒメは良い返事をもらえない。かといって、乗鞍を確保したい若手などに任せるには癖があって危なすぎる馬だから若いのに任せるわけにもいかないからな」
加賀騎手は騎乗を任せたいレベルの人たちには良い返事がもらえず、かと言って簡単に乗りますと返事をもらえそうな若手の未熟な騎手に任せるには難しい馬なので中々乗り手が決まらないために消去法で自分がデビューを任せられることになるだろうと考えていた。
「加賀さんは嬉しくないんですか?」
北上厩務員はかなり癖のある馬ではあるが、期待されている馬に乗れるのなら喜ぶことではないのかと思っていた。
「乗せてもらえるのはもちろん騎手としては嬉しいし乗りたいとは思うが他にもっと相性の良い騎手がいるんだったらその騎手に任せた方がカナヅルコトヒメの将来にはいいことだからな」
加賀騎手は迷わず言い切った。
加賀騎手は騎手としてベテランであり技術も申し分ないが、誰かを押しのけてまで騎乗させてもらいたいと馬主や調教師にアピールするような性格ではないために騎手としては甘いと競馬関係者やファンには言われていた。
しかし若い騎手や厩務員達にも慕われていて質問や相談もされやすく皆から好かれているために、大きなレースを勝ってもらいたいと周りにも思われている。
北上厩務員も普段からお世話になっている加賀騎手にカナヅルコトヒメに乗れるチャンスがあるのだからもっと積極的に乗りに行くべきではないかと思って出た言葉だったのだがやはり、加賀騎手の答えは馬にとって一番いい道を選びたいというものだった。
「まあ、今年の新馬戦も始まったばかりなのだからまだ焦る必要もないだろう。
ジンライフウレツがデビューしたらカナヅルコトヒメを見る目も変わって乗ってみたいという騎手も出てくるだろうからもう少し様子を見てもいいんじゃないか」
加賀騎手はそう言ってこの話は終わった。




