10話
時間は少し逆上る。
大和騎手と加賀騎手が早朝の挨拶をしている頃、赤城調教師と浅葱オーナーが話をしているところだった。
「赤城先生、朝早くからすいません」
「浅葱オーナーおはようございます。昨晩はよく眠れましたか」
「はい、お陰様でぐっすり眠ることができました」
浅葱オーナーはカナヅルコトヒメとジンライフウレツの調教を見学するために昨日から、栗東トレセンに宿泊して、早朝の見学に備えていた。
「もうすぐ調教を始めますので、もう少しお待ち下さい」
「はい、わかりました。しかし、これだけの数の馬が調教をしている光景は壮観ですね」
厩舎に来るまでの道中ですれ違う馬や、準備運動に何頭もの馬達が歩いている姿を見ていると、改めて競争馬を調教するための施設なのだと実感した。
「これからさらに増えますからね。ただ、カナヅルコトヒメは少し馬がいなくなってから調教を始めたいと思います」
赤城調教師にカナヅルコトヒメの調教は少し後になると聞くと
「周りの馬と一緒に調教しないんですか」
「はい。調教の最中に暴れて周りに迷惑をかける恐れがあるので、どうしても慎重に調教を進めていかざるを得ませんので」
赤城調教師の説明を聞いて浅葱オーナは最初の頃とはまた別の方向で不安を抱えることになる。
「最初はレースに出れるように育ってくれるかを心配しながら馬を買わせてもらいましたが、まさか競走馬としては無事に育ってくれているのに乗る人がいなくて悩むことになるとは思いもしませんでしたよ」
「私もですよ。何年も馬を扱ってきましたが、未だにわからないことだらけです」
2人が笑いながらカナヅルコトヒメの事を話していると北上厩務員が入ってきた。
「おはようございます。浅葱オーナー」
北上厩務員は浅葱オーナーに気付くと、カナヅルコトヒメと写真を撮りたいので良いですかと聞いてきた。話を聞くと、浅葱オーナーは、すぐにOKを出した。
赤城調教師からも、オーナーが問題ないと言っているので、問題が起きないように気をつけるようにと注意を受けて北上厩務員は出ていった。
北上厩務員が出て行くと
「すいません、朝からこんなお願いをして」
大和騎手がオーナーと顔合わせもしていないのに写真を撮りたいと頼みにきたことを謝ると
「いいえ。それだけがカナヅルコトヒメを気に入ってくれている証拠ですからね 。それに、その写真を見たら娘達も喜ぶでしょうから」
浅葱オーナーは気にしていなかったが、その後大和騎手の話になった。
「 そういえばカナヅルコトヒメが栗東トレセンに来てからだいぶ経ちますが、大和騎手はカナヅルコトヒメと写真を撮っていなかったんですか?」
「はい。カナヅルコトヒメが来る前に美浦トレセンにしばらく滞在していたので、栗東にはいなかったので。なので、今日初めて会ったはずです」
赤城調教師は大和騎手がカナヅルコトヒメを気にしており、調教に乗ることができないので環境を変えて腕を磨くために進んで自分から関東に滞在しに行ったのだと説明をした。
「 カナヅルコトヒメに乗るために自分から美浦に行くとはやる気を感じますね」
カナヅルコトヒメに乗れるようにと努力する姿はとても好意的に感じる。
これからも頑張って活躍して欲しいと応援したくなった。
その後2人が話を終えて雑談をしていると、突然厩舎から騒がしい音が聞こえてきた。何があったのかと赤城調教師は厩舎に向かった。
「どうした、何かあったのか」
厩舎に入り確認すると、頭を抱えながらうずくまっている大和騎手と興奮しているカナヅルコトヒメをなだめている北上厩務員と加賀騎手の姿があった。
「加賀、何があったんだ」
「飛鳥がカナヅルコトヒメに頭を噛まれたんです。それで慌ててしまいまして」
何が起きたのかをを聞くと赤城調教師は大和騎手に怪我はないかと確認した。
大きな怪我は無く大丈夫だと直ぐに受け答えしたのでひとまずほっとした。
その後に、少し怒りながら皆に注意をした。
「カナヅルコトヒメには十分注意しろと言っているのに何でこんなことになっているんだ」
カナヅルコトヒメに頭を後ろから噛まれたと聞いて、撮影に夢中になって気を抜いてしまったのだろうと思い、注意を怠ったことを叱りつけた。
しかし、帰ってきた答えは異なるものだった。
「すいません先生。撮影する前のカナヅルコトヒメが飛鳥にあまりにもなついて大人しかったもので。撮影する時にも時にもまるで嫌がる素振りがなかったので、 自分も気を抜いてしまいました」
横で大和騎手も油断して注意を怠った事を反省して頭を下げていた。
話を聞いた赤城調教師は、ふと気になった。
「待て。カナヅルコトヒメがそんなに大人しくしていたのか」
カナヅルコトヒメは警戒心が強く初めて見る人間には特に警戒する。
今日初めて見た大和騎手に対して、警戒せずに触れさせたと聞いて耳を疑った。
「 はい、これを見てください」
撮影していた大和騎手とカナヅルコトヒメの映像を赤城調教師はじっと見入った。
カナヅルコトヒメがこれほど気を許して触れさせることなど、今まで一度もなかったことだ。
大和騎手に嫌がられず触れられている姿は驚きだった。
その動画を赤城調教師はしばらく考えながら見続けていた。
誰も話さない時間が続くと、おもむろに顔を上げて大和騎手に問いかけた。
「 飛鳥、頭は大丈夫か」
「はい、突然で驚いただけで怪我はしていません」
「それじゃあ今日のカナヅルコトヒメの調教に乗ってみるか」
その提案に大和騎手は一瞬思考が止まった。
「どうした、乗りたくないのか?」
赤城調教師が再度問いかけると
「いえ、乗りたいです。けど、私が乗っていいんですか?」
大和騎手はカナヅルコトヒメが難しい馬で加賀騎手や羽黒調教助手助手が苦労しながら調教してると聞いており、自分が乗せてもらえるとは思わなかったので驚いた。
「正直どうなるかわからないが、初めてでここまで警戒しないで懐いているのはのは初めてだ。
一度乗ってみてどんな感じになるのかを確かめて見たいんだ」
カナヅルコトヒメにレースで誰を乗せるかで悩み続けている中で、藁をも掴む気持ちで大和騎手を乗せてみようと思ったのだ。
大和騎手は戸惑いを隠せなさなかった。
まさか自分が調教に乗ることになるとは微塵も思っていなかったのだ。
カナヅルコトヒメの調教に乗ると決まった後準備をすると、カナヅルコトヒメにまたがり調教に向かう。
念の為に北上厩務員に曳かれながらコースに向かった。
騎乗した後もいつ暴れるのかと注意をしながらコースへと向かうが、行く途中一緒に走る加賀騎手が横に並ぶと一言アドバイスをしてきた。
「余計なことを考えて体が硬くなっているぞ。いつもの馬と同じように気持ちよく走らせることに集中すればいいんだ。ただ、いつもより馬の挙動不測のに気をつけろ」
そう言われて大和騎手は気持ちが楽になった。
そして、コースに着くとカナヅルコトヒメの調教が始まった。
「さあ、行くよ」
カナヅルコトヒメに声をかけコースを走り始めて大和騎手は驚いた。
まだデビューしていない新馬だというのに走りが今まで乗ってきた馬と全く違った。
まだまだ新人の自分にそれほどレベルの高い馬が回ってくるわけではないが、それでも今までに乗った馬では感じたことのない感触でこんなに早く走ることができるのかと感動を覚えていた。
「よーし行くよ 」
カナヅルコトヒメの調教のラストで全力で走らせる。その走りは、この馬ならきっと上まで行けるだろうと期待に胸を躍らせる走りだった。
その後も調教メニューをこなして行ったが、今までの問題が嘘のように順調に進み、無事に終えることができた。
赤城調教師は予想以上の結果に驚かされた。
「聞いていた話しだと大変なことになると覚悟していたんですが、無事に終わりそうですね 」
浅葱オーナーが無事に調教が終わったので拍子抜けしてしまった。
「はい。私もこの結果には驚きました。加賀から随分と懐いていると聞いたので、祈る思いで一度乗せてみましたが期待以上です」
この結果に満足している赤城調教師は続けてオーナーに進言した。
「浅葱オーナー。カナヅルコトヒメの騎手の候補に飛鳥を加えさせてもらえないでしょうか」
「大和騎手ですか?最初はジンライフウレツと一緒に陸奥騎手に乗ってもらいたいと思っていたのですが。それか調教に乗ってもらっている加賀騎手に乗ってもらえたらいいと思っていたのですが」
「カナヅルコトヒメはかなり扱いづらい馬です。光輝や武雄と比べたら飛鳥の腕はまだまだです。ですが、今日ほどカナヅルコトヒメの調教を問題なく進められたことはありません。
明日からの調教で飛鳥以外が乗って問題無く調教が出来るようになってくれたらそれが一番いい。それなら光輝や武雄で良いでしょう。しかし、明日からの調教でも飛鳥が一番上手く乗れるのなら飛鳥も候補に入れたいのです」
候補と言っているが実際には飛鳥を乗せたいという決意が感じられた。
「レースでどんなことになるかは分かりません。 しかし、今のカナヅルコトヒメを任せるのなら一番相性のいい騎手を乗せてデビューさせたいのです。明日からの調教を見てからになりますが了承して頂けないでしょうか」
その言葉を聞いてしばらく考えると
「分かりました。これだけ馬に携わっている方々が苦労されているんです、 一番いいと思う騎手を選んでください。お任せします」
浅葱オーナーは全てを赤城調教師に任せると決めると、カナヅルコトヒメと大和騎手に目をやり、これからの成長に期待した。




