5話
月日がたち、2歳の夏になり、厩舎に入厩させる時期がやってきた。
「いよいよ厩舎にやってきますね」
陸奥騎手は調教が終わり、赤城厩舎で加賀騎手と休んでいると話題は入厩する馬達の話しになった。
「二頭の事は楽しみにとっておいて詳しいことは聞いてないんですけど、加賀さんは調教にも何度か乗っているからいろいろと知ってるんじゃないですか」
「ああ。まず二頭の名前が決まったそうだ」
「え、なんて名前をつけたんですか?」
「姉がカナヅルコトヒメ、弟がジンライフウレツだ。子供のころの名前の響きから取ったそうだ」
「カナヅルコトヒメとジンライフウレツですか。勝ち上がって人気になってほしいですね」
「ああ、勝ち上がってくれたらな………」
加賀騎手は楽しく話していたのに少しトーンを落とした。
「あれ、加賀さん何か不安な事でもあるんですか、厩舎の皆は楽しみにしてるんですけど」
すると横で作業をしていた北上厩務員が仕事を終えて話に入ってきた。
北上厩務員は去年赤城厩舎に入ってきた新人で厩舎の中では一番若手のスタッフである。
実家は北海道の生産牧場で馬の世話には慣れているので、若いが周りの先輩にも信頼されて、いろいろな仕事を任されている。陸奥騎手や加賀騎手にも可愛がられる期待の厩務員である。
「そんなに期待されているのか?」
加賀騎手が北上厩務員に聞くと。
「それはそうですよ。双子の競走馬と言うだけで珍しいのに一頭は白毛。さらに、赤城先生や光輝さんのお墨付き。加賀さんも調教に乗りいく期待のかけよう。これだけのことが重なったら誰だって期待しますよ」
自分達の想像以上に厩舎の熱量が上がっていたようだ。
北上厩務員は更に言葉を続ける。
「他の厩舎の調教師や騎手の人達も気になっていて聞いてくるし、記者やテレビ局も少しでいいからと話を聞かれてましたからね。厩舎の先輩達も入厩したら、話題になってしばらくは大変な時期が続くだろうから今から覚悟しておけと言われましたよ!」
興奮を抑えられず声を高くして厩舎のスタッフの気持ちを代弁した。
加賀騎手は黙って言葉を聞いていたが、横で聞いていた陸奥騎手がふと
「········ひょっとして、コトヒメの調教うまくいってないんですか?」
と加賀騎手に疑問をぶつけた。
「·········分かるか?」
「加賀さんが言葉を詰まらせるなんてそれくらいしか思い当たりませんよ」
「·········そうか」
加賀騎手はまた黙ると調教の進捗具合を思い出していた。
浅葱オーナーとの話し合いも終わり、赤城厩舎に入ることが決まってからは赤城調教師に依頼されて何度か調教に乗りに行った加賀騎手だったが、想像以上の癖馬だった。
騎乗しようとしても嫌がってなかなか騎乗できないのは当たり前。
コースを走らせれば言うことを聞かずに好きなように走ろうとする。
トレーニングが終わると、さっさと降りろと言わんばかりに振り落とそうとする。
数多くの馬に乗ってきた経験を振り返っても調教でこれだけ振り落とされそうになった馬はいないと断言できるほどの暴れ馬だった。
加賀騎手はそれまでの調教の経緯を二人に語った。
「ジンライフウレツとカナヅルコトヒメの調教の進み具合はかなりの差があるとは聞いてましたけどそこまでとは·········」
陸奥騎手はコトヒメの調教の想像以上の苦労に絶句した。
「けど、厩舎に入厩できるということは調教はうまくいってるという事ですよね。大人しくなって調教出来るようになったんじゃないんですか?」
北上厩務員は入厩出来るようになったのだから多少の遅れはあっても調教は進められたのではないかと疑問をもった。
「それが、コトヒメは本当に頭がいいんだ。暴れてスタッフを手こずらせるが、これ以上やったら人間も我慢の限界というギリギリで調教を受けてくれるんだ。それで調教を進めることが出来て何とか入厩までこぎつけたんだ」
「まるで人間をからかっているみたいですね」
「赤城調教師もそう言っていたよ。調教は逆らうが、やるべきことをやらないと終わらないと分かっているから最初は嫌がって仕方がなく調教は受ける。
終わるとすぐに降りろと人間を落とそうとする。
育成のスタッフも戦々恐々の日々だったろうな」
「厩舎に入った後も大変そうですね」
「そうですね、それだけ難しい馬だったら調教は羽黒さんが担当でしょうし、加賀さんと光輝さんも乗るんでしょうけど」
羽黒は赤城厩舎の調教助手である。厩舎の中でも騎乗技術は抜群で厩舎の中でも期待の馬や難しい馬を多く任されてきたベテランである。
北上は調教をで騎乗する先輩達の苦労を予想して心配していたが、実際に調教に乗ることが無いから自分にはあまり関係がないと少し他人事に話していた。
しかし
「他人ごとのように聞いているが、気を引き締めないと痛い目に遭うぞ」
「え?」
加賀騎手は他人事のように聞いている北上厩務員に注意をする。
「調教でこれだけの問題を起こしている馬が普段の生活で何の問題もなく大人しくしていると思うか?」
「·········いいえ」
「馬房の中でも前を通れば威嚇する、ハミをつけるのも当然大人しくつけさせてはくれないし、曳き運動でも大人しくはついてきてくれない。
知らない人間が近づけば常に警戒する、そのために担当するはいつも同じ人達がするようになった。
新人に世話をさせようとしたら危なすぎて身体がいくつあっても足りないとベテランの人達が担当するようになった。
育成スタッフも何人も病院送りになっている。
脅す訳では無いが毎日馬の世話をする厩務員であるお前のほうが1番コトヒメに触れる機会は多いんだぞ」
加賀騎手の忠告を聞いた北上厩務員はその惨状に怯えて、あれだけ馬が来る日が楽しみだと言っていた最初の笑顔は一転して不安な表情を浮かべていた。
流石に脅しすぎだと感じた陸奥騎手は話題を変えた。
「それにしてもコトヒメはそんなに大変な苦労を重ねてきたのにジンライフウレツは全く話題に上がりませんね?」
コトヒメは大変だという話は厩舎にきた時にチラホラと耳にはいることもあったがジンライフウレツの話題は聞くことが無かった事を思い出して質問した。
「ジンライフウレツは調教が順調過ぎるぐらい順調に進められたからな。何処かで怪我や病気で不幸が一気に押しよるんじゃないかとヒヤヒヤしているぐらいだ。
ここまで調教が進んで振り返ってみるとジンライフウレツは0.5頭分、コトヒメは3頭分の労力がかかると出会った頃に言われた言葉もオブラートに包んだ言葉だったんだな。実際は4頭分の労力がかかっているよ」
加賀騎手はここまでの道のりを思い出しながら感慨に浸った。
話題を変えても結局不安を煽るだけだと陸奥騎手は
「まあ安心しろ。こんなに難しいと分かっている馬を若手に担当させようだなんて赤城先生も考えないだろうからな。直接の担当にはならないと思うぞ」
と、お前はまだまだ未熟なのだから担当は出来ないと伝えた。
すると加賀騎手も
「そうだな。コトヒメの難しさはもう分かりきっているし、若手は下手に関わらせたら危険だと考えてベテランのスタッフ中心に考えているだろうから北上はそんなに心配しなくても大丈夫だろう」
と、心配しなくてもお前に担当が回ることは無いと断言した。
北上厩務員はまだまだ経験不足で未熟な自分では難しい馬は任せられないと言われた悔しさが込み上げてきたが、同時に尊敬する加賀騎手や赤城調教師がここまで不安を抱える馬の担当にならなくてもいいのだという安堵が入り交じって複雑な思いを抱えながらその話は終わった。




