36話
「ダービーの日はいろんなことをやるのね」
浅葱オーナーとその家族はパドックでジンライフウレツと陸奥騎手を送り出した後、家族と共に馬主席でレースが始まるのを待っていた。
「お客さんもいつもより多いしこんなに競馬ファンがいるとは思わなかったわ」
摩耶は皐月賞やオークスにも応援に来ていたが、日本ダービーを観に来た観客の数に驚いていた。
1週間前のオークスの観客も多いと思っていたのに日本ダービーを前に東京競馬場はそれ以上の観客が来場しているのが一目で分かった。
「朝から来て葵も菫も退屈するのではないかと心配したけどそんな事は無かったわね」
夫が馬主になるまでは競馬場とは馬のレースを行い ギャンブルをする人達だけが来る場所だと思い込んでいた。
実際に競馬場に来てみると子供連れで来る家族も多くおり、ギャンブルをしに来るというより家族で遊びに来たという雰囲気だ。
昼間にはダービーに乗るジョッキーの騎手紹介もあり、ダービーが始まるまでに色々なイベントもあって新鮮な驚きだった。
レースが始まるのは夕方からなのに夫に午前中から競馬場に行こうと言われた時はレースが始まるまで 何もすることがなく退屈するのではないかと心配したが、子供達も競馬以外の色々なイベントを楽しんで喜んでいた。
そしていよいよレースの時間が近づいてくると馬達がコースに入場して返し馬を終えて輪乗りをしながらレースが始まるのを待っていた。
スタンドの前では国歌を歌っており、このレースが今までとは違う特別なレースだと素人ながらに感じさせられた。
ふと輪乗りをしているジンライフウレツに目をやると1頭だけ止まってスタンドの方を見つめていた。
娘達はその姿を見て歌を聞いているのだとはしゃいでいた。
今日はコトヒメの出るレースではなかったので朝から競馬場に行くと言われた時は消極的だったのだが、色々なイベントもあって2人とも楽しむことができたようで安心していた。
このままレースに勝って最後まで楽しい気持ちで終わってほしいと願いながらレースが始まるのを待っていたが、夫と九十九はその横でジンライフウレツについて話していた。
「レツは大丈夫なのかね」
九十九は輪乗りを外れてこちらを見ているジンライフウレツの姿を見て懸念を持った。
「レツは何でも興味を持つと赤城先生も言っていたからな。
今まで見たことがない数の人や歌を聞いて興味を持っているんだろう」
「レースに影響しないといいんだけどな。せっかく 騎手の不安要素がなくなってくれたのに馬が集中できてないかもしれないなんて思わなかったよ」
競馬は難しいよとため息をつきながらレツの姿を見つめる九十九を見ながら浅葱オーナーも内心では同じ思いだった。
パドックで陸奥騎手が緊張しているのを感じて緊張がほぐれるかと一言伝えたが、言った後にむしろ緊張させてしまったかと後悔の念が込み上げた。
しかし、騎乗の手伝いを終えた赤城調教師から
「緊張がほぐれていつも通りに乗ることができています。ありがとうございます。」
と言われてレース前に緊張をほぐす手伝いができてほっとして馬主席に戻ることが出来た。
入場して返し馬を見ても調子が悪いようには見えなかったので安心して見ていたのに1頭だけこちらを見ているレツの姿を見て多少の不安を覚えた。
赤城調教師が言っていたことを思い出して大丈夫だろうとは言ったが、レースを前に初めて見る姿に果たしてプラスなのかマイナスなのかの判断はつかない。
その姿を見ながらリラックスしていい走りができる証拠だと自分を納得させた。
加賀騎手はコルネットトーンと輪乗りをしながら横で佇んでいるジンライフウレツに目をやった。
他の騎手も輪乗りから外れてスタンドを見ながら 佇むジンライフウレツの姿を見て何かあったのかと 注意を向けている。
知らない馬だったら何かあったのかと思いこれはチャンスがあるんじゃないかと思うところだが、加賀騎手はよく知っている馬なのでそんな期待が膨らむことはなかった。
いつも通りに乗れているしこれはかなりきつそうだ。
ジョッキールームでは緊張している雰囲気を感じていたが今そんな雰囲気を全く感じない。
さっきまでの光輝だったらレツが突然輪乗りから外れて焦るだろうが、焦ることなくレツのしたいようにさせてリラックスさせている。
さっきパドックで浅葱オーナーと話していたが、それがいい気分転換になって緊張もほぐれたのだろう。
これじゃあコルネットトーンが勝つのは望み薄だな。
加賀騎手はレース前にあった作戦はキッパリ諦めた。
後は一か八かのレースをするだけだ。
予想ではジンライフウレツとシックルウイーズルの勝負になるだろう。
普通にやっても勝ち目はないのだから思い切ったレースをしようと覚悟を決めた。
「レツはマイペースだな」
レツは普段歌われていない国歌やいつも以上のお客さんでいっぱいの状況に興味を持っているのかスタンドをじっと見つめている。
さっきまでだったら突然の行動に焦って余計なことをして馬にストレスを与えていたかもしれない。
いつも通りのマイペースぶりにかえって安心すら覚える。
そしていよいよ時間が来た。
ゲート前へと向かいファンファーレが鳴り、順に ゲートへと入っていく。
トラブルもなく無事に ゲートに入ると騎手はその瞬間を待つ。
そしてスタートの合図が鳴るとゲートが開き一斉に馬達はスタートした。




