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悠久の流水  作者: 中山


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35/37

35話

陸奥騎手はダービーを前にジョッキールームで休憩していたがいつもとは違う空気を感じていた。


誰も話しかけてこないな。

いつもだったらレースの間に声をかけられるのが普通なのに今日はダービーが近づくほどに声をかけられなくなっていく。

注目を浴びているから周りも余計なことを話さないように気を使ってるんだろうけど。

逆にその気配りがこのレースが注目されていることを改めて感じ取らせる。

その結果、自分でもいつもより緊張していることを自覚させられた。


朝からのレースに乗って成績は悪いものではなかったがいつもよりも体が硬くなっているように感じていた。

自分は緊張しないタイプだと思っていたのだがダービーとなるとやっぱり違ったのかダービー前になってもその硬さがほぐれることはない。


飛鳥があれだけうまく乗っていたのに俺が緊張で失敗したら何を言われるかな。

飛鳥がコトヒメとホープフルステークスやオークスに乗る前にアドバイスをしていたのに、いざ自分がダービーで緊張して負けたとなったら合わせる顔がない。

周りにはレースに備えて集中しているように見えるかもしれないが蓋を開ければ緊張していつもの様に振る舞えていないだけだった。

土佐騎手や加賀騎手も自分の事で精一杯で陸奥騎手に気に掛ける余裕は無く、いつもの陸奥騎手の女優の無さに気づいていなかった。


レース前のいつもと違う感覚に若干の戸惑いを覚えながらレース前のひとときを過ごしていたが、気づくと他のジョッキーは皆パドックの方へ向かって行くのに気づき慌てて赤城調教師と浅葱オーナーの待つパドックへと向かった。




赤城調教師と浅葱オーナーがパドックで待っていると、続々とジョッキールームから騎手が出て来てそれぞれの騎乗馬の調教師とオーナーの場所へと向かった。

土佐騎手と加賀騎手も出てくる中、陸奥騎手がなかなか出てこなかった。

浅葱オーナーはいつもなら真っ先に出てきてレース前にリラックスしながら会話をするのに今日は最後まで出てこないことを訝しんだ。

「陸奥騎手が来ませんね」

「いつもならもう来てるはずなんですが何かありましたかね」

2人でなかなか出てこない陸奥騎手を気にかけていると陸奥騎手がジョッキールームから駆け足でこちらに向かってきた。

「随分遅いじゃないか居眠りでもしてたのか」

「すいません、ちょっと考え事をしてたらパドックに来るのが遅れてしまって」

陸奥騎手の謝る姿をの見て浅葱オーナーはいつもと違う気配を感じた。

いつもだったら軽口の一つも行って場を和ませるのにすぐに謝るのを見てふと緊張しているのかと思った。


しばらく会話をするとその予感は確信に変わった。

いつも鷹揚自若としていて緊張からは無縁のように思っていたがこの大舞台を前にしたらさすがに緊張とは無縁ではいられないのだとを思うとホッとして笑みを浮かべた。

「何かおかしなところがありましたか」

「いや、陸奥騎手が緊張しているのを見たら少しおかしくなりまして」

そう言われた陸奥騎手は一瞬ドキッとした。

自分では緊張していることは自覚していたが周りに悟られるほど態度に現れているとは思わなかったからだ。

「緊張してるように見えますか」

「ええ、今までのレース前と比べたら明らかに違うなと思うぐらいには」

「騎手が緊張して不安にさせてしまいましたか」

「いえ、むしろ安心しましたよ」

赤城調教師と陸奥騎手にとってその思いがけない反応だった。

赤城調教師も陸奥騎手がいつもより緊張しているのは察していたが浅葱オーナーを心配させまいとあえて黙っていたのだ。

「いつもレース前から緊張もしないで飄々としている姿を見て、レース前に下手なことを言ってペースを崩したらいけないのではないかと声をかけづらいところがあったんですよ」

レース前はリラックスして和気あいあいと話していたと思っていたのだが、そんな目で見られているとは露ほども思わなかった。

「陸奥騎手も人間だったのだと思うと 少しほっとしましてね。次のレースからはもっと気楽に話しそうですよ」

浅葱オーナーがそう言い終えると合図がなり、周回していた馬が止まった。

陸奥騎手と赤城調教師は浅葱オーナーに頭を下げるとジンライフウレツのもとに向かった。




「緊張はほぐれたか」

ジンライフウレツに乗ろうとすると赤城調教師が語りかけた。

「ダービーを勝つチャンスを目の前にして全く緊張しないなんてことはあり得ないからさっきは何も言わなかったがヒヤヒヤしていたんだ」

浅葱オーナーにはお礼を言わないといけないな。

これで安心してレースに送り出せる。

「今のお前なら安心してレースを見れる、あとは任せたぞ」

浅葱オーナーと赤城調教師の言葉を聞いてさっきまで肩にのしかかっていたプレッシャーはなくなりいつもの感覚でジンライフウレツに乗ることができた。

「赤城先生、安心して見ていてください。最後の直線でぶっちぎってゴールしてきますよ」

いつも通りの姿に安心した赤城調教師が軽く頷くと陸奥騎手はジンライフウレツを促しレースの舞台へと向かった。




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