30話
カナヅルコトヒメはオークスを3着でゴールし、コトヒメの春のクラシックは終わった。あとは秋のクラシックに備えて長期放牧に出されることになる。しかし、赤城厩舎の春のクラシックはまだ終わっていない。
「 いよいよ日本ダービーですね」
「レツがデビューした時はまだまだ先だと思っていたがあっという間だな」
厩舎にとっても春の最後の大一番になるジンライフウレツの日本ダービーを前に赤城調教師と羽黒調教助手も心を躍らせていた。
先週までカナヅルコトヒメの取材で忙しくしていた厩舎は一息つく暇もなく今度はジンライフウレツの取材で持ち切りだった。
ジンライフウレツの最終追い切りを終えてあとは 本番に備えるだけとなる。
カナヅルコトヒメとジンライフウレツの取材でオークスの前から続いていた取材も収まり厩舎も一息ついて通常の雰囲気に戻って来ていた。
「仕上がりは万全ですね」
羽黒調教助手も調教のタイムを見てこれならレースに万全の状態で挑めるとほっとしていた。
「これだけ自信を持ってダービーに臨めるのは初めてだからな。本番まで気を抜かないようにしないとな」
後は本番を待つだけだが油断は出来ない。
レースの前日に体調を崩したり歩様に違和感があったためにレースに出れなかった例は珍しくは無い。
カナヅルコトヒメも弥生賞の直前に体調を崩したために出走を取り消している。
ジンライフウレツは体調を崩したり怪我をしたことは無いがそれでも気にしすぎということはないだろう。
「俺がダービーを勝てた時の三笠先生もこんな気持ちだったのかな」
「赤城先生がダービーを勝った時ですか」
赤城調教師は騎手時代に師匠の三笠調教師の所属 馬クリスタルソニックで日本ダービーを勝った時のことを思い出した。
当時の赤城調教師は周りの注目を浴びて目の前の日本ダービーのことだけに集中して厩舎の事には考えが及ばず、ダービーをどうやって勝つかしか考えられなかった。
師匠の三笠先生は何も言わずいつも通りに馬を仕上げることだけに集中して、ダービーに最高の状態で送り出すことだけに専念していた。
いつも通りのその姿を見てダービーを勝てるかもしれないというプレッシャーに押しつぶされそうになっていた当時の赤城騎手はレースだけに集中することができ、その気遣いに救われていた。
しかし、今こうして日本ダービーに本命の馬を出走させる立場になると当時の三笠先生の気持ちを考えさせられた。
カナヅルコトヒメとジンライフウレツが来てから厩舎に訪れる人達が増え、厩舎スタッフは馬の世話以外の仕事や対応に手を取られて負担が大きくなっていた。
2頭が活躍し注目を浴びるほどその負担は大きくなっていった。
オークスと日本ダービーの前になるとなるとその忙しさはピークに達していた。
赤城調教師は忙しさで疲労が貯まるスタッフに気を配り厩舎の他の馬に問題が無いように気を配らなければならなかった。
馬の調教以外の事柄が山積みになる日々にうんざりしていると、ふと師匠の三笠調教師との日々が頭に浮かんだ。
最高の状態で日本ダービーに望めたのは三笠先生のお陰だ。今の自分と同じように普段の馬を仕上げるのとは別の仕事に追われる中で最高の状態に馬を仕上げてくれたのだ。
あの頃はわかった気でいたが、今自分がその立場になって本当の意味で三笠先生の苦労を理解した気がした。
あの時の恩返しをしないとな。
三笠先生はまだ若かった自分を育てて馬を任せてくれた。
今こうして調教師としてやっていけるのは三笠先生の教えがあったからだ。
ジンライフウレツとカナヅルコトヒメを預かってまだ若手の光輝と飛鳥を乗せると決めた時、三笠先生がクリスタルソニックに乗れと言った時の事を思い出した。
コトヒメに飛鳥を乗せることにこだわるのは、自分も三笠 先生にチャンスのある馬に乗せ続けてもらったからこそ弟子にもそうしてやりたいと思うからだ。
「それじゃあ天国の三笠先生の為にも光輝には頑張ってもらわないといけませんね、赤城先生が期待して任せてくれたんですから」
「騎手の腕は俺より遥かに上だがな。
光輝の様にあいつに任せて負けたのなら仕方がないと思って乗せたのか、飛鳥の様に負けたらその責任は全部とる覚悟を持って乗せたのか。
今になって聞いてみたいことが増えるばかりだよ」三笠調教師はすでに亡くなっている。
亡くなる前に調教師としてダービーを勝つ姿を見てもらいたかったがそれは叶わなかった。
だから次の墓参りにはダービーの勝利をお土産に報告したい。
ダービーは最も運のある馬が勝つという。
双子でなかなか売れなかったのに浅葱オーナーに買われ競走馬になることができた。
光輝に出会い地方でデビューをするはずが中央でデビューすることになった。
今年のクラシックで最も運に恵まれた馬はジンライフウレツとカナヅルコトヒメの2頭だろう。
運も実力もある馬に実力のあるジョッキーが乗る。
これほどの好条件が揃うことはもう二度とないだろう。
ジンライフウレツとカナヅルコトヒメに巡り会えた事に感謝しながらレース当日まで気を抜かないように気を引き締めてジンライフウレツの休む馬房を覗きに行った。




