19話
朝日杯フューチャーリーステークスも終わり赤城調教師はカナヅルコトヒメの調教を神経を研ぎ澄まして行っていた。
「飛鳥、カナヅルコトヒメの調子はどうだ」
「良くなってきてると思います。黄菊賞の前よりも力強さを感じます」
調教に乗った大和騎手はホープフルステークス前の最後の追い切りに騎乗した。
朝日杯フューチュリティステークスの前に調教に乗った時は硬さがありレースに不安があった。
ところがレースが近づく程に硬さは無くなりいつも通りの騎乗が出来るようになっていた。
飛鳥のメンタルのケアをどうしようかと悩んでいた赤城調教師には嬉しい誤算だった。
「リラックスして乗れているな」
「はい。これならホープフルステークスも上手く乗れそうです」
「随分と調子が良くなっているか何かあったのか」赤城調教師はここまで切り替えて乗れる様になった理由を不思議に思い質問した。
すると返ってきた答えは、悩んでも自分の腕で勝てるわけではない。カナヅルコトヒメ次第なのだから、考えるのをやめたというのだ。
「周りの人に聞いてどんなレースをすればいいのかと悩んだんですけど、それで悩んで上手く乗れないんじゃ本末転倒です。だから考えずに今の自分の出来る騎乗をしようと開き直りました」
いくら悩んでも自分の実力では周りには敵わない。カナヅルコトヒメの実力でG1に騎乗出来るのだから今まで通りに乗って駄目ならまた出直そうと腹をくくった。
そうしたら緊張もなくなって悩む前よりも上手く乗れるので自分でもビックリしていた。
その言葉を聞いていた周りは呆れてしまった。
初めてのG 1に騎乗するのに何も考えずに乗ったらむしろ良くなった等と言ったら赤城先生に怒られるのではないかとヒヤヒヤしながら聞いていた。
しかし赤城調教師は怒ることなく飛鳥の話を聞いていた。
武雄の言ってたのはこのことか。
朝日杯フューチュリティステークスが終わった後に加賀騎手と話した時に
「飛鳥は意外と大物になるかもしれませんよ」
と加賀騎手が言っていたのだが、その理由を話してはくれなかった。
意外と図太い性格だったんだな。
初めてのG1で緊張して何も出来ずに終わる可能性も考えていたのだ。
思ったよりもいい性格をしているようだ。
自分が考えるよりも楽観的な性格で深刻にならないのは嬉しい誤算だ。
とはいえメンタル面の不安がなくても初めてのG 1騎乗。まだ2年目という経験の少なさ。周りと比べての技術の差と懸念材料は幾つもある。
馬の能力でも周りと比べて圧倒できる程の差は無い。今までのレースのように馬の能力で勝つのは上G 1のレベルでは無理な話だ。
馬の調子は良く、騎手も問題無くレースに望めるが、やはり勝つのは厳しいだろうなと思いながらも掲示板に載るレースはして欲しかった。
周りの声を黙らせる為にも次の騎乗で飛鳥には頑張って欲しいものだと本番のレースへと思いを馳せた。
調教を終えたカナヅルコトヒメは厩舎に戻り、担当の北上厩務員が世話をしていた。
「カナヅルコトヒメの世話も大分慣れてきたな」
そこに加賀騎手と陸奥騎手がやってきた。
「そりゃあ1番長く世話をしていますからね。癖馬だから慣れないと体がいくつあっても足りませんよ」
わだかまりのある声でカナヅルコトヒメの苦労を語りだした。
「浮かない顔だな。初めて担当した馬がG 1に出るというのに元気がないじゃないか」
ホープフルステークスに出走が決まって飛鳥は初めてのG1で緊張はしていたがG1に騎乗出来る事は喜んでいた。だが、北上は担当馬がG1に出る喜びより不安や心配が顔に出ていた。
「加賀さんも光輝さんもカナヅルコトヒメの担当にこんな新人の厩務員がなるなんてありえないから安心しろとカナヅルコトヒメが来る前に言ってましたよね」
カナヅルコトヒメが厩舎に来た当初は担当が決まっておらず、厩舎の厩務員が交替で世話を行なっていた。
北上厩務員が担当になった事もある。
そのあまりの大変さに2人に愚痴を言った時、これだけ難しい馬なら若手の厩務員に任せるわけがない。直に担当も決まるだろうからそれまでの辛抱だと励まされた。
しかし、カナヅルコトヒメの調教を大和騎手が行なう様になると北上厩務員が一緒に面倒を見ることが多くなったのだ。
ある時、大和騎手が近くにいると機嫌が良くなり暴れないので、大和騎手と北上厩務員がそばいる間に大井厩務員が作業を行なおうとすると突然カナヅルコトヒメの機嫌が悪くなり作業どころでは無くなってしまった。
慌てて大和騎手がなだめたが大人しくしてくれない。
どうしたものかと悩んでいるとカナヅルコトヒメがこちらを見ずに前を向いていた。何かあるのかとそちらを見ると北上厩務員が立っていた。
それを見た大井厩務員はもしかしてと思い、北上厩務員にカナヅルコトヒメの世話を手伝う様に言った。
北上厩務員は言われるままにカナヅルコトヒメの世話を手伝ったが先程の様に暴れたりはしなかった。
大和騎手に宥められて機嫌が良くなったのかと思ったのだが、大井厩務員に言われて世話の途中で手伝いを止めてカナヅルコトヒメから離れるとまた機嫌が悪くなった。
もう一度北上厩務員が世話を始めるとまた大人しくなる。
この一件があって何が違うのかを比べて一つの結論が出た。
北上厩務員を見ると他の厩務員が世話をしようとしても嫌がり、北上厩務員に世話をする様に言っているのではないかという結論に至った。
その話を赤城調教師が聞くと暫く思案した後、北上厩務員が呼ばれカナヅルコトヒメの担当を任される事になった。
北上厩務員は最初何を言われたのか理解できず唖然とした。
思考が停止して黙っていたが、言われた事を理解するとすぐに反論した。
カナヅルコトヒメの世話を何度かしてきた。
それだけで他の馬との違いは身に染みている。
厩舎の先輩達も強い馬なのは認めているが気性難で自分から担当させて欲しいと言う人はいない。
それほど難しい馬なのでもっと経験のある先輩たちの方がなるべきだと説得しようとした。
だが赤城先生は首を縦には振らなかった。
赤城調教師にとってもカナヅルコトヒメの担当厩務員を誰にするかは頭痛の種だった。
有力馬だが厩舎に来た早々から問題を起こして誰も自分がやりますと手を挙げてくれない。
そんな状況で飛鳥が乗ると不思議と暴れないことが分かって他にも心を許す相手は出てこないかと願っていた。
そんな時にカナヅルコトヒメが北上厩務員を気に入ったようだと大井厩務員に言われた赤城先生は渡りに船と北上厩務員の世話をする所を確認すると直ぐに担当にする事を決めた。
赤城調教師と大井厩務員にサポートはするから引き受けてくれと言われて断れるはずもなくカナヅルコトヒメの担当厩務員をする事になった。
「担当になったとはいえ大井さんも気にかけてくれているし、厩舎全員でサポートしているのだから実際には厩舎全体でやってるようなもんだろう」
「そりゃあ周りも手伝ってもらってますから自分だけで面倒を見ているわけでは無いですよ。
だけど担当になってから矢面に立たされているのは俺なんですよ」
手伝ってもらえるのはありがたいが担当を代わろうと言ってくれる先輩はいないのだ。
「飛鳥さんが乗ると暴れたりしないし加賀さんが乗った時も最初の頃より言う事を聞いてくれるようになったのに厩舎での振る舞いは相変わらずです」
むしろ成長している分大変さは増している。
カナヅルコトヒメはなぜ自分が近くにいると世話をさせようとするのかとボヤキの声が出てしまう。
「勝ち上がってくれて喜びたいけどその代わりに担当の期間は長くなる。これが数年間続くと思うと素直に喜べないんですよ」
まだ2年目で担当馬がG1に出る幸運に恵まれたのに普段の苦労がその幸運を打ち消してプラマイゼロだ。
心情的にはマイナスのほうが上回っている。
10年以上厩務員をしていても担当馬がG1に出るのさえ難しい。いくら大変な馬の馬になったとはいえ他の厩務員に失礼だろうと諌めようとしたのだが
「こんな難しい馬を任されるわけないだろうと言われたのに何で俺が担当になっているんでしょうね」
北上厩務員は以前加賀騎手と陸奥騎手に言われたその一言でカナヅルコトヒメの担当の問題は他人事のように感じていた。
それなのに自分が当事者になっている今の状況に対して二人に愚痴の一つも言いたくなっていた。
陸奥騎手は北上厩務員に担当になることはないと言った事を気まずく感じた。
何と言えばいいのか考えていると
「俺なんかよりはるかに長く多くの馬に携わってきた赤城先生でも予想ももしていなかったんだ。俺程度の騎手が簡単に任せるわけがないなんて決めつけては駄目だったな。俺もまだまだ勉強不足だな」
そう言って背中を向けて去って行った。
去って行く加賀騎手の背中を見ながら呆気に取られていると陸奥騎手も腕を組んで頷きながら
「加賀さんでも分からないのに俺が知ったかぶりをするなんて慢心していたな。安易に決めつけないように反省しないとな」
そう言って北上厩務員の肩を叩くと
「俺もまだまだ未熟だって事だ。お互いにもっと馬の事を勉強しないとな」
そう言って加賀騎手の後を追って去って行く。
2人の後ろ姿を見ながら放心していると世話をしていたカナヅルコトヒメの機嫌が悪くなったのか早く世話をしろと言っているかのようにいなないた。
はっとしてカナヅルコトヒメに近づくと謝りながら顔を撫でたが中々機嫌が直らなかった。
「文句を言ったのを怒ってるのか」
カナヅルコトヒメを宥めながら謝った。
「こんなに強い馬を任せて貰ったんだからもっと喜ばないといけないんだけどな」
飛鳥さん程ではなくてももう少し俺にも優しくしてくれないか。
そう思っているとカナヅルコトヒメは北上厩務員の手を振り払い餌を寄越せと言わんばかりにバケツに頭を入れて催促してきた。
バケツに餌を入れると北上厩務員を気にすること無く餌を食べ始めた。
いずれ引退する時には懐いてくれるんだろうか。
「それまで現役を続けるためにも次のレースも良い走りを見せてくれよ」
そう言って期待の言葉を掛けるがカナヅルコトヒメは反応する事無くバケツに頭を入れて餌を食べ続けた。




