9 侯爵の憂鬱
時は少し遡り、王家の茶会があった日の夕刻。
ベンサム侯爵は苛立ちが抑えられず、西陽が差し込む自邸の廊下を、意味もなくウロウロと歩き回っていた。
「旦那様、ヘンリー様がお戻りになられました!」
駆け寄った執事の言葉に、急ぎ足で玄関ホールへと向かう。
そこにいたヘンリーは不機嫌そうに顔を歪め、薄手の外套を乱雑に脱いで、投げ付ける様に侍女へ渡していた。
「ヘンリー!!
今までどこをほっつき歩いていたんだっ!」
侯爵の怒声が、ホールの高い天井に響く。
「ご存知でしょう? 今日は王家の茶会の日で───」
「その茶会は早々に中止となったのだろうが!
他でもない、お前の愚行のせいでなぁっっ!!」
ヘンリーの戯れ言を遮るように叫ぶ。
あまりの声量に、ヘンリーのみならずその場にいた使用人達まで、ギュッと目を瞑り大きく肩を跳ねさせた。
分家の子息が茶会での顛末を侯爵に報告しにきたのが、おおよそ四時間前。
よりによって王家の催しで、一方的な婚約破棄。しかもそんな大問題を起こした張本人は、どこで油を売っているのか、なかなか帰宅しない。
最初の段階で既にこれ以上ないというほど腹を立てていたはずなのに、時間が経つに連れ、侯爵の怒りは更に大きく膨らんでいった。
本家が傾けば、当然分家にも大きな影響がある。
それを見越して速やかに本家へ報告に来た分家の子息の方が、ヘンリーよりもよっぽど貴族家当主としての適性がありそうだ。
「はぁ……。もうご存知なのですか」
ヘンリーがうっかり零した小さな溜息でさえ、侯爵の癇に障る。
「そのふざけた態度はなんだっ!!
貴様、自分がなにをしたのか分かっていないのか!?
当主である私に断りもなく、勝手なっ…………」
叫びすぎたせいか一瞬視界がグニャリと歪み、足元がふらつく。
「旦那様っっ!?」
執事が素早く支えてくれたお陰で倒れずに済んだが、侯爵は激しく脈打つ胸を押さえながら大きく息を吐き出し、体勢を整えた。
「……取り敢えず、話だけは聞いてやるから一緒にこい」
侯爵は息子の首根っこを掴むと、引き摺る様にして執務室へと連れて行った。
執務室に入るや否や、ヘンリーはヘラヘラと媚びる様な笑みを浮かべながら言い訳を始めた。
「違うんですよ、父上。
悪いのは俺じゃなくて、アイリーンとシェリルが───」
「アイリーン嬢とシェリルは被害者だろうが!
大体にして、なぜ婚約者でもないアイリーン嬢を呼び捨てにしている?」
血管が切れそうなので冷静に話したいのに、つい声を荒げそうになってしまう。
「あんな暴力女に敬称を付ける必要などありません」
仏頂面でそう言い放つヘンリー。
「は? 暴力女とは、なんの話だ?」
「ですから、アイリーンが僕を投げ飛ばして───」
侯爵はその短い言葉で全てを正確に察した。
腐っても侯爵家当主である。
(だとすれば、状況は思っていた以上に悪いぞ……)
事前に分家の子息から聞いた話では、ヘンリーを投げたのはシェリルの兄だった。
王太子の意を汲んだ制裁という形で決着したというが、私怨も大いに含まれているのだろうと推察していたのだが───。
投げたのがアイリーンであれば、更に追加の懸念が浮かぶ。
いくら王太子が箝口令を敷いたとて、人の口に戸は立てられない。
完全になかった事になる訳ではないのだ。
つまり、表面上は静かでも、水面下で噂は巡る。
婚約者に濡れ衣を着せ、一方的に罵った上で婚約を破棄した男。
婚約者の従妹に懸想をして迫り、瞬殺で振られた男。
そして、その小柄で愛らしい婚約者の従妹に、軽々と投げ飛ばされた男(NEW)。
醜聞が、一つ増えた。
しかも特大の。
その上本人はなにが悪かったのかまるで分かっていない。
未だに『アイリーンのせいで───』『シェリルのせいで───』と繰り返している。
学業の成績はトップクラスだったから油断していた。
まさか、これほどまでに常識が身についていないだなんて……。
子供達の教育を妻に任せきりだったのがいけなかったのだろうか?
「シェリルもシェリルだ。
せっかくこの俺が婚約を継続してやるって言っているのに、断って他の男の手を取るなんて……」
「他の男だと!?」
「そうなんですよ!
婚約破棄の話し合いの席で、なんとヴィンセント・マクブライドがシェリルに交際を申し込んだのですっ!!」
憤懣やるかたないとでも言いたそうな様子のヘンリーに、侯爵は益々頭を抱える。
(マズい……マズいぞ。
よりによって王太子殿下の側近を二人とも敵に回すとは……)
シェリルとの交際についてのヴィンセントの本気度はまだ不明だが、状況から見てヘンリーに腹を立てているのは間違いないだろう。
茶会を台無しにしたのだから、当然王太子の心象も悪くなった。
社交界の華と呼ばれるフレッカー子爵夫人の反感も買ったかもしれない。
(いっその事、次男に後継を変更するべきだろうか?)
次男は学業こそヘンリーには少し及ばないが、判断能力は悪くない。
だが、次男はメイドに産ませた所謂庶子である。
出自を理由に、社交界で軽視されるのは目に見えていた。
『どちらが良いか』ではなく、『どちらがマシか』の選択を迫られている。
侯爵の苦悩は、まだ始まったばかり。




