7 見ないふりをして
多分、私は自分が思う以上に動揺していたのだろう。話し合いを終えてから、どうやって自邸まで戻ったのかあまり覚えていない。
「今日は大変だったから、父上への報告は明日にしような」
「そうですね。お父様を説得する作戦も考えないといけませんし……」
馬車の中でお兄様とそんな会話を交わした事だけが記憶の底に薄っすら残っているけど、それ以外は邸に帰ってからの記憶さえも曖昧だ。
それでも、おそらくちゃんと普段通りの行動は取れていたのだろう。
気が付けば私はしっかりと寝支度を済ませた状態で、自分のベッドに横たわっていた。
時刻はとっくに午前零時を過ぎ、暗闇が辺りを包み込んでいる。
あんなにも色々な事がいっぺんに起こったのだから、当然酷く疲れているはず。
実際に体は泥の様に重たくて、指先を少し動かすのさえ酷く億劫だ。
それなのに、なぜだか頭の芯だけが冴えてしまって、全然眠れない。
脳裏をよぎるのは、ヘンリー様のあの台詞。
『シェリルみたいな地味な女は、男にとってはなんの価値もない』
『地味なお前なんて、誰からも愛されない』
「……そんな事、言われなくても知ってるわよ」
思わず口から零れた呟きは、誰の耳にも入る事なく闇に溶けた。
マクブライド公爵令息だって、義憤に駆られて交際を申し込んでくれただけ。
間違っても、勘違いなんてしない。
してはいけない。
──だって、勘違いなんかしたら、後で辛い思いをするのは自分自身なのだから。
ずっと見ないふりをしていた心の奥の古傷が、再びジクジクと痛みを訴え始める。
私はその痛みを堪える様に枕に顔を埋め、大きく息を吐き出した。
いつの間にか降り出した雨が、激しく窓を叩いている。
先程まで廊下の方から仄かに感じていた、深夜まで働いている使用人の気配も、静寂の中で窓の外から時折聞こえていた梟や野良猫の鳴き声も、全てが掻き消された。
雨の夜は嫌いだ。
雨音に隔絶された寝室の中にいると、なんだかこの世に独りぼっちで取り残されてしまったみたいな気分になる。
憂鬱な状況が重なってしまい、余計に気持を浮上させる事が難しくなった。
シーツに包まってギュッと目を閉じ、私は只管、この孤独で重苦しい時間が過ぎ去るのを待った。
翌朝は、いつもより早い時間に叩き起こされた。
「お嬢様っ! お嬢様ってばっっ!!
お願いですから、起きてくださいませ!
お・じょ・う・さ・まーーーーっっ!!」
肩を大きく揺さぶりながら、耳元でそう叫んでいるのは、私の専属侍女のニコラである。
いつも元気なニコラだが、今日はいつも以上にテンションが高い。
……ってゆーか、率直に言って、うるさい。
私は眠い目を擦りながら、寝返りを打った。
まだ体が重くて起きられる気がしない。
昨夜はなかなか寝付けなかったし、なんだか夢見も悪かった気がする。
どんな夢を見ていたかまでは思い出せないけど。
「……んー…………なに? 今、何時?
……まだ六時じゃない。どうしたのよ……、そんなに慌てて……」
「呑気な事を言ってる場合じゃないんですよぉ!
マクブライド公爵家から、今日の午前中に伺うと先触れが届いたんですっ!!」
「ふーん……、そう。マクブライド公爵家……か、ら、………………っ??
……ん? えっ!? マクブライド公爵家から?」
ニコラの言葉が脳に到達した途端、綺麗さっぱり眠気が吹っ飛んだ。
「ですから、さっきからそう言ってるじゃないですか!
旦那様にご挨拶をなさるとの事ですが、なぜだか先方は、お嬢様にも同席をとお望みらしいです。
さあさあ、公爵家のお方にお会いするのですから、いつも以上に気合いを入れてお支度しましょうね。
急がないと時間がありませんよ! まずは湯浴みから!!」
慌ててベッドから降りた私は、腕捲りをしたニコラの手により、浴室へと放り込まれた。




