34 侯爵令息の虚勢
ヘンリー・ベンサムは、あの日からずっと焦っていた。
たった一度の失敗なのに、邸の中でも学園内でも、ヘンリーの扱いはガラリと変わってしまったのだ。
爵位継承の絶対条件として課されたのは、常識やマナー、道徳に関する教育だった。
正直、最初はくだらないと思った。
『侯爵令息を咎められる人間なんて殆どいないのだから、マナーなんて多少悪くても問題ない』
『そんな時間があるなら、数式や異国語の一つでも覚えなさい』
母親も、家庭教師達も、いつもそう言っていたから。
実際、少しくらい横暴に振る舞ってみても、誰もヘンリーを咎めなかった。
友人という名の取り巻き連中は、当然ながらヘンリーよりも身分が下の者ばかりだし、婚約者も伯爵家の令嬢だったから、周囲には彼を諌められる権力者などいなかったのだ。
(やはり母上の言う事は正しかった。皆、俺には逆らえないんだ)
井の中の蛙的な状況に置かれたヘンリーがいつの間にか増長し、『少しくらい』の部分の解釈が勝手にどんどん拡大されている事には、誰も気付いていなかった。
『この世の中は、基本的にギブアンドテイクで出来ています。
たまたま生まれた家の爵位が高いだけで、どんなに横暴に振る舞っても許されるなんて事はありません。
自分より低い身分の者に対しても、最低限の礼儀は必要ですし、片方にとって不利益しかない関係はいつか必ず破綻します』
『馬鹿なっ!
選ばれた人間である俺が、なぜ下々の者に媚びねばならないんだ!』
新しい教師の教えは、ヘンリーにとって理解し難い物であり、当然ながら強く反発した。
『媚びろとは申しません。
しかし、王族や高位貴族が皆から崇められ、贅沢な生活を享受しているのは、国の安寧や経済の活性化に貢献し、民の生活を守っている、その報酬なのです。
まだなにも成し得ていないヘンリー様がこれまで優遇されていたのは、全て現侯爵様やご先祖様の功績に対する敬意による物。
残念ながら、ヘンリー様自身が尊敬を集めている訳ではございません。
だからこそ、たった一度の失敗で見限られ、貴方の周囲には誰もいなくなったのですよ。
それを心に留めて、もう少し謙虚な心をお持ちください』
悔しかった。認めたくなくて、耳を塞いでしまいたかった。
でも───、教師の言葉は、ヘンリーの現状を的確に言い表していた。
(本当に選ばれた人間で、なにをやっても許されるのであれば、どうして今の俺を誰も助けてくれないのだろう?)
そんな疑問が湧いてきて、徐々に今まで常識だと信じていた考えが崩れ始めた。
少しずつだが確実に、新しい教師の教えが理解出来る様になってきた。
それでも、結局、父はヘンリーを後継者から外す決断をした。
理由は、『騒動のせいで、婚約者が見付からないから』。
確かに、爵位を継ぐのであれば、妻を迎えて子を成すのも義務ではある。
元凶となった騒動を起こしたのも、自分自身だと分かってはいるが───。
ここ最近の自分の努力とは無関係な部分で失脚が決定してしまった事に、どこか納得いかない気持ちになった。
『異母弟に負けるな!』
『後継の座を死守しなさい』
幼い頃から繰り返された母の命令も、結局は守れなかった。
母の指示通り、ずっと勉強ばかりを頑張っていたのに、その結果がこれだなんて……。
領地に向かう馬車の中で、自分の人生について考えていたヘンリーは、虚しさに襲われた。
全てが無駄だったなんて思いたくない。
なんとかして返り咲けないだろうか?
(───シェリルがいれば)
そうだ。シェリルだ。
彼女が再び婚約を結んでくれれば、問題は解決するのではないか?
あの時、ヴィンセントに求婚されていたが、未だに正式な婚約を結んだと言う話は聞かない。
もしかしたら、あの話は白紙になったのではないだろうか。
再婚約が無理だとしても、和解さえ出来れば、今は地に落ちているヘンリーの評価も多少はマシになるかもしれない。
そうすれば、新しい婚約者が見付かる可能性も……。
(とにかく、シェリルに会わなければ)
そんな身勝手な考えの元、ヘンリーは移動の休憩の隙をついて逃げ出した。
手持ちの現金に加え、身に付けていた宝飾品、服のボタンやハンカチまで売り払って、なんとかハサウェイ伯爵領に辿り着いた。
盗賊などの被害に遭わなかったのは奇跡だ。
しかし、そんな苦労の末に漸く面会が叶ったシェリルには、冷たく拒絶された。
「和解する事になにか利点があるのかと聞いています」
そんなシェリルの言葉と、新しい教師の言葉が重なる。
『片方にとって不利益しかない関係はいつか必ず破綻します』
(そう言われてみれば、俺はこれまで自分の利益しか考えていなかったかもな……)
それに気付いてしまったら、なにも言葉が出なくなった。
その後、父に依頼を受けていた衛兵に拘束されてしまい、ベンサム侯爵領に強制送還される羽目になった。
結局は、苦労して遠回りして、シェリルを不快にさせただけ。
その現状に、自嘲の笑みが零れる。
ガタガタと揺れる馬車の中で、ヘンリーは先程のシェリルとの再会を思い出していた。
久し振りに見た彼女は、記憶の中よりも明るい表情をしていた。
特に、ヴィンセントが登場した時の、あの顔は───。
(あんな可愛い表情、俺といた時は見せなかったくせに)
一瞬だけ浮かんだ考えを振り払う様に、ヘンリーはブンブンと強く頭を振った。
違う。
可愛くなんかない。
シェリルが可愛いなんて、ある訳がない。
多分、彼女が他人の手に渡ってしまったから、ほんの少し惜しくなっただけだ。
そう言い聞かせて、ヘンリーは自分の心に蓋をした。
だって、今更気付いた所で、なにもかも取り戻せないのだから。




