35 共感してくれる人
連行されるヘンリー様の背中を見送った私は、急激な虚脱感に襲われた。
「疲れただろ? 少し顔色が悪いな。中に入って座った方が良い」
ヴィンス様が気遣ってくれたので、ありがたく同意した。
扉越しだったから身体的な被害や恐怖感は全くなかったけど、人と言い争うのって思った以上に精神が削られる。
そう考えると、アイリーンのあの喧嘩っ早さは尊敬に値するわね。
談話室へ移動して、ソファーにグッタリと体を預ける。
ニコラが用意してくれた果実水を一口飲んで、ホッと息を吐いた。
「衛兵を呼んでくださったのは、ヴィンス様ですか?」
「ああ。門に向かう前に、手近にいた使用人に頼んでおいた。思ったより早く到着してくれて良かったよ」
「ありがとうございます」
「ヘンリー・ベンサムは、衛兵の手によって速やかに領地に強制送還されるだろう。
ただ……、おそらく、のたれ死ぬ事はないと思うけど、シェリルはそれで良い?」
ニヤリと笑うヴィンス様にそう聞かれて、一瞬何の事かと首を傾げたけれど、次の瞬間、過去に吐いた自分の言葉を思い出した。
『あのクソ野郎!』
『のたれ死ねば良い』
『生まれてきた事を後悔させてやりたい!』
言った。確かに言った。
でも、あんなの酔っ払いの戯れ事じゃないか。
揶揄われているのだと分かってムウッと頬を膨らませると、ヴィンス様は益々楽しそうに笑った。
「なんなら、今からでも可能だけど。
のたれ死にさせる事も、生まれてきた事を後悔させる事も」
不穏な事を平然とした顔で言うの、やめて欲しい。
「うーん、一応謝ってはくれましたけど、正直今でもスッキリはしていません。
ずっと私を傷付けてきたくせに、継承権を剥奪されたくらいで被害者面して泣き言を言うなって思いましたし」
心が狭いって思われるかもしれないと若干不安になって、ヴィンス様の顔色を窺うが、当然だと言わんばかりの表情で深く頷いている。
ヘンリー様と婚約していた頃の嫌な記憶は簡単には消えない。
でも今は、そんな私の怒りを理解して、一緒に怒ってくれる人が隣にいる。
そう実感したら、さっきまで心の奥に残っていたモヤモヤが少し晴れた。
「でも、もう忘れようと思います。
あんなくだらない男のことを考える時間が勿体無いなって。
それに、放って置いても多分一生後悔する事になると思いますから、簡単に死なれるより、その方が良いです」
今日の件は、お兄様に頼んで正式な抗議文を出してもらうが、それ以上の制裁を加えるつもりはない。
ベンサム侯爵が自分達に不利な事業提携を提案してまで、ヘンリー様をしがない伯爵家の令嬢と婚約させたのは、多分、王太子殿下に気に入られているお兄様との縁を結びたかったからだ。
だが、現在は侯爵の思惑とは真逆の状況になってしまった。
お兄様が当主となるハサウェイ伯爵家。
ヴィンス様が継ぐ予定のグレンフェル伯爵家と、生家であるマクブライド公爵家。
それから、下位貴族だが穀物生産の要所であり、社交界の華と呼ばれる叔母様が嫁いだフレッカー子爵家。
こんなにも多くの家に睨まれたなら、社交界での居場所は確実になくなる。
しかも今回の騒動は、女性の立場を改善しようとしている王太子夫妻からも厳しい目で見られているのだ。
そんなヘンリー様達に、『可哀想だから』と言う理由だけで、手を差し伸べる酔狂な人間なんていない。
貴族の世界は、そんなに甘くない。
下手に庇えば自分にまで火の粉が降りかかってしまうという事を、皆良く分かっている。
侯爵家の危機は、現侯爵が当主の座に座っている限りは続くだろうし、不仲だった異母弟が引き継いだら、ヘンリー様の扱いが更に悪くなるのは想像に難くない。
そんな現実を、本人は現時点でどれだけ理解しているのだろう?
流石にのたれ死にはしないだろうけど、後悔ばかりの人生になる事は、ほぼ確定している。
相手は既に、社会的に死んだも同然なのだ。
死体を蹴る趣味はない。
だからこれ以上手を出す必要なんかない。
ただ、転落し続けるのを遠巻きに眺めるだけで充分だ。
性格悪いって?
自分でもそう思う。
でも良いの。これが私だから。
今は、お父様やヘンリー様の目を気にせず、自分らしい自分でいられるのが嬉しい。
「そうだね。
アイツの事を考える時間があるなら、僕のことを考えてくれた方が嬉しいな」
「照れもせずに、よくそんな事言えますね」
前から思ってたけど、ヴィンス様は油断してると直ぐに甘い台詞をぶっ込んでくる。
ほら、またニコラがニヨニヨと笑ってるじゃないか。
先程までのピリピリした空気が嘘みたいに、甘くて生温かい空気が流れている。
穏やかな日常が戻ってきた。
ヘンリー様の問題も解決したので、二日後にはヴィンス様がハサウェイ伯爵領を発った。
グレンフェル伯爵領に寄って数日滞在した後、王都へ戻る予定だと言う。
私とお兄様の休暇も残り少なくなり、ヴィンス様を見送った数日後には、私達も王都へ帰還した。
休暇が終わって二月後には、私とヴィンス様の婚約パーティーが控えている。
まだまだ、やる事は山積みだ。




