15 謎の不快感
皆が王族への敬意を示して頭を垂れる中、空気が読めないヘンリーはなんとか立ち上がり、アイリーンに投げ飛ばされたと頑なに主張した。
王太子殿下が『なかった事にしたら?』という意味の提案をしているのに、それを汲み取ろうともせず、アイリーンの罪を認めさせようと躍起になっている。
アイリーン憎しで視野が狭くなっているせいなのか、それとも元々馬鹿なのか……。
(おそらくは後者だろうな。
こんな奴が将来侯爵家の当主になるって、正気か?)
ヴィンセントは思わず溜息を零した。
このままの主張を続ければ、ヘンリーはアイリーンに慰謝料を請求出来るだろう。
ヘンリーの方にも非がありそうだとは思うが、アイリーンの暴力行為が仮に従姉を守る為だったとしても、過剰防衛だとされる可能性が高い。
だが、そうなったとしてもヘンリーが得る物といえば僅かな金だけで、名誉は絶対に回復しない。
寧ろ騒げば騒ぐ程に、彼の名誉は失墜する。
まあ、既に地に落ちているかもしれないが、このままだと更に地底深くまで沈む。
ベンサム侯爵家は別に金に困っていないのだから、端金を得るより、少しでも名誉を守れる形にした方が良いに決まってるだろうに。
さて、どうしたもんかと考えていると、意外な人物が声を上げた。
「あら、ヘンリー様を投げ飛ばしたのは、アイリーンではなくてお兄様でしたでしょう?」
柔らかな微笑みを浮かべながら、シェリルはまるでヘンリーの方が勘違いしているとでも言いたげに、心底不思議そうに首を傾げた。
(頭の回転が速いな。婚約者とは大違いだ)
シェリルがアイリーンと比べられて、『地味』とか『平凡』とか言われているのは、ヴィンセントも度々耳にしていた。
これまで彼女とはほとんど接触した事がなかったが、改めて見ればシェリル漆黒の瞳には知性が宿っているし、王太子の意向を踏まえて瞬時に事実を書き換えた機転を見ても、噂通りの令嬢だとは思えない。
そんなシェリルを王太子も結構気に入ったらしい。彼女が発言した時、微かに口角が上がっていた。
気に入ったと言っても、恋愛的な意味ではない。王太子には相思相愛の妃がいるから。
結局、暴力事件に関しては、ほぼ王太子の意向通りの結末になった。
騒動によって茶会は中止になり、シェリル達には話し合いの席が設けられた。
「なあ、ヴィンセント。彼等の話し合いに、私達も同席しようじゃないか」
そう言った王太子を、ヴィンセントは最初、やんわりと止めようとした。
「これ以上、首を突っ込まない方が良いですよ」
「いや、なにかあった時の為に、目撃者がいた方が良い」
「…………それは、まあ、確かに」
頷いたのは、先程のヘンリーを見て、なにをやらかすか分からないと心配になったのだ。
物理的にはエイベルがいればなんとかなるだろうけど、王太子の側近とはいえ彼は伯爵令息で相手は侯爵令息。
後から変に言い掛かりをつけられたら、エイベルにとって面倒な事になるだろうし。
まあ、多分王太子の提案は、野次馬的な興味からだと分かっていたけど。
結果的に、その判断によってヴィンセントは大きな収穫を得る事になる。
「『性根の腐った女』『悪女』それから、なんでしたっけ……。
あぁ、そうそう。『地味だから価値がない』とも仰ってましたわね」
シェリルの口から実際にヘンリーから投げ付けられた暴言が出る度、部屋の空気が重くなる。
(コイツ、本物の馬鹿だな)
態々エイベルの逆鱗に触れる様な言動をするなんて……、そんな自殺行為、ヴィンセントなら絶対にしない。
ほんの少し抵抗を見せたヘンリーだが、エイベルの笑顔の圧力に負けて書類に記入を始めた。
最初から大人しく言う事を聞いていれば、シェリルに失言をバラされる事はなかったかもしれないのに。
続いてシェリルも記入を始める。
なにげなくその手元に視線を向けたヴィンセントは、思わず立ち上がった。
(『彼女』だ。あのメモ帳の文字の)
忘れよう。なかった事にしよう。そう思っていたはずなのに、ふとした瞬間に脳裏に文字が蘇り、気付けばどんな女性なのかと無意識に考えてしまう。
そんな事を、何度も繰り返していた。
エイベルの近くにいる女性。冷静に考えれば、妹であるシェリルが一番自然だ。
呆然と書類を見ていたヴィンセントは、エイベルに呼び掛けられて我に返った。
無意識の内にずっと探していた女性が、今、目の前にいる。
しかし、彼女には既に婚約者がいて、その婚約者から不当な扱いを受けていた。
以前エイベルからチラリと聞いた話によれば、父親もろくでもない奴らしい。
だが、今まさに、婚約者の方とは縁が切れそうになっている。
苦々しい気持ちの中に仄かな安堵感が混ざった様な、複雑な思いがヴィンセントの胸に広がった。
その後、書類の作成は滞りなく進み、ホクホク顔のエイベルがそれを回収した直後───。
「地味なお前なんて、誰からも愛されないのだからな!」
シェリルを侮辱するヘンリーの言葉で、頭に血が上ったヴィンセントは、反射的に彼女に求婚した。
その事自体は後悔していない。
思った通りシェリルとの会話は楽しいし、現ハサウェイ伯爵はクソ野郎だが、当主が代われば次代の伯爵家は安泰だろう。
総合的に見て、ハサウェイ伯爵家との縁が強固になったのは幸運だったと思う。
だけど───、
(どうして、あの時僕は、ヘンリー・ベンサムに対して、あれ程強い憤りを覚えたのだろう?)
その疑問の答えにヴィンセントが気付くのは、もう少しだけ後の話。




