先生の教えを忘れるな
先生がいたから、今の自分がある。短大のあのときの記憶は、絶対に忘れるな。
私には児童文学作家の先生がいた。その先生が執筆における私のすべてだった。
書くことを認めた先生の教えと、エッセイへの視線と信念を忘れちゃならない。
書くことを否定され続けてきた中、短大で出会った児童文学作家の先生。
「僕と一緒にエッセイを書いてみない?」
この言葉が、今の私を作っている。
これから誰かを師事するか、正直分からない。未来は見えないから。
でも、あんなににこやかに話しかけて、この道に導いてくれた先生の存在を、死ぬ瞬間まで忘れてはならないのだ。
先生は出会った当時、既におじいちゃんだった。高齢で、短大で教鞭をとっていたときの記憶がかなり薄れている。そのため、私のことはあまりよく覚えていない。
それでも恩師は彼なのだ。
彼が私にエッセイの道を与えてくれた。なにもなくただ陰湿に縮こまるばかりの私に、書く道を示してくれた。
先生は、基本的な文章の書き方だとか、封筒の書き方を教えてくれた。それは今でも生きている。大事にしなければならない基礎だ。
そして先生は、私が生涯大事にしなければならない言葉も、あのとき授けてくれている。
「人を傷つける言葉は、絶対に使っちゃいけない。特定の人を傷つける言葉を、力がある人が文字にして使うと、相手の命を奪いかねない。人を殺す文章を書く力があることを自覚して、エッセイを書きなさい」
私の中で今もなお息をする、情けなくもどうしようもない狂気。過去の出来事に足を取られ、力を持った今、過去の不快な出来事に対して気持ちを乗せて書こうとする愚行。
エッセイは、ありのままを書かねばならない。偽ってはならないのだ。
しかし、被害者だったことだけを書いていいわけでもない。加害者は、最初から加害者ではないかもしれない。それに、お前は自分が被害者だと思っているだけで、相手は特に加害してないかもしれないじゃないか。
被害妄想に囚われて、あいつが悪かったんだと声高らかに文字を突き刺す。
物書きとしてこれ以上の恥はない。
過去の嫌な出来事を、ただの嫌だったこととしてしか見られていないうちは、文章に起こしてはいけないのだ。字を書いて生きていく人間だからこそ、これだけは忘れちゃいけない。
己の言葉で己のことを書く。己の手で、物語を作る。一時創作で戦う以上、人を傷つける言葉を使ってはいけない。
人から傷つけられたとしても、刃をむいてはならない。自分が持つ刃の切れ味が分かってないのだ。相手を殺してからでは取り返しがつかないだろう。
お前はお前が持つ言葉の威力を分かってない。多分、今後も分からない。
一生使う言葉に気を使い続けろ。「分からなかった」と「悪気はなかった」は、通用しない。それはお前が文章を書いて生きていく人間だから。逃げ場なんて最初からないと思って書け。先生に恥をかかせるな。
いつまでも鮮明に思い出せ。先生のような朗らかな人になれるその日まで。




