第二章 二十八日の狂気と純愛
あの雨の夜から、私たちは古びたマンションの一室でひっそりと暮らしている。
彼は私のことを「ご主人様」とは呼ばない。だが、私たちの間には確かに『私が彼を飼っている』という絶対的な主従関係が存在していた。
「おはよう。今日の体調はどうだい? 貧血気味じゃないかな」
朝目覚めると、彼はすでに完璧な朝食をテーブルに並べて私を待っている。
鉄分を豊富に含むレバーのペースト、葉酸たっぷりのほうれん草のポタージュ、そして温かいハーブティー。
かつて非合法な実験施設で作られたという彼の肉体は、息を呑むほど美しく、そして残酷なほどに完璧な家事と管理能力を持っていた。
彼は、月に一度の「その日」以外の約三週間、水一滴、血一滴すら口にしない。
ただひたすらに静かな飢えに耐えながら、私の体を完璧に管理し、ストレスから遠ざけ、私の体内で極上の「命のスープ」が作られるのを待つのである。
かつてブラック企業でボロボロになっていた私はもういない。彼の徹底した庇護の下で、私はただ、月に一度彼に血を与えるためだけに美しく健康に生かされている。
「美味しい……。でも、あなたはずっと何も食べていないのに、辛くないの?」
私がポタージュを口に運びながら尋ねると、彼はふわりと微笑んだ。
「君が俺のために、極上の血を育ててくれている。その過程を見守るだけで、俺は満たされているんだよ」
穏やかな微笑み。しかし、生理の予定日が近づくにつれて、彼の眼光は徐々に野生味を帯び、隠しきれない狂気が漏れ出し始める。
予定日の三日前になると、彼は私の首筋に顔を埋め、微かな匂いを嗅ぎ取るだけで荒い息を吐くようになる。
「……あぁ、いい匂いだ。君の奥深くで、命のベッドが分厚く育ち、剥がれ落ちるのを待っているのがわかる」
彼の飢えと焦燥が限界に達していくのを見るたび、私の胸の奥に暗い優越感が広がる。
この恐ろしく美しい怪物を生かしているのは、私なのだ。
そして、運命の二十八日目。
下腹部に、あの重く鈍い痛みが走った。子宮を収縮させる痛みの物質、プロスタグランジンが分泌され始めた合図だ。
「……来たわ」
私がベッドの上で小さく呻くと、部屋の隅でうずくまっていた彼が、弾かれたように顔を上げた。
その瞳は完全に血走っている。彼は獣のような素早さでベッドに這い上がり、私の足元にひざまずいた。
「ああ……待っていた、ずっと、この日を……!」
彼は震える手で私の下着を引き下ろすと、太ももの間に深く顔を埋めた。
チュプ……ジュルルルルッ……。
生温かい粘着質な音が、静かな寝室に響き渡る。
彼が私の奥から血を吸い上げるたびに、下腹部を締め付けていた地獄のような痛みが、スーッと彼の口の中へと吸い込まれて消えていく。
「んっ……あぁ……」
私は快感にも似た安堵に包まれ、シーツを強く握りしめた。
「はぁっ……素晴らしい。君の血は、本当に……極上だ」
彼は口の周りをべっとりと赤く染め、恍惚とした表情で私を見上げた。
普通の血を飲めば、凝固作用によって体内で血栓ができ、全身を引き裂かれる激痛に襲われてしまう欠陥品の彼。
「普通の血は……ただの水分だ。すぐに固まって、俺の血管を詰まらせ、俺を内側から殺す」
彼は私の太ももに頬を擦り寄せながら、熱に浮かされたように囁く。
「だが、君のこの血は違う。プラスミンという酵素が、血を永遠に固まらせない。そして何より……」
彼が長い舌で、自身の唇についた粘り気のある赤い液体を舐め取った。
「これはただの血じゃない。君の体が新しく命を迎え入れるために作った『子宮内膜』の細胞と、役目を終えた『未受精卵』。命になるはずだった栄養の塊が、どろどろに溶け合わさった極上のフルコースだ。これだけが、崩壊していく俺の細胞を修復し、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる……!」
ジュプ……チュルルル、ネチャァ。
彼は再び顔を埋め、痛みの物質ごと、私の不要になった命の残骸を狂ったように貪り続ける。
直接的な性行為など存在しない。だが、自身の最も深い部分から流れ出るものを彼に直接啜らせ、彼を物理的に生かしているこの儀式は、どんな交わりよりも深く、生々しく、そして官能的だった。
私は彼の手を優しく撫でながら、暗い悦びに打ち震えていた。
彼には私しかいない。私がこの血を与えなければ、彼は干からびて死んでしまう。
この美しく哀れな怪物は、私が月に一度捨てる汚れた血にすがりつき、私の足元でひれ伏している。
(ずっと……ずっと、こうしてあなたを飼ってあげる)
窓の外には、青白い満月が浮かんでいる。
むせ返るような血と甘い鉄の匂いが充満する密室で、私たちだけの神聖で狂おしい儀式は、夜が明けるまで続いた。




