第一章 路地裏の契約
冷たい雨が打ち付ける深夜の路地裏。
水たまりの泥にまみれながら、彼は自身の喉を掻き毟り、絶望的な痛みにのたうち回っていた。
「がっ……あぁっ、ぐ……!」
数分前、極限の飢えと細胞の崩壊に耐えきれなくなった彼は、路地裏に迷い込んだ泥酔した男を背後から襲い、その首筋から血を啜った。
しかし、それが致命的な過ちだった。
彼の体は、非合法な医療実験によって作り変えられ、そして「失敗作」として廃棄された欠陥品だ。
他者の栄養を補給しなければ細胞が崩壊して死ぬにも関わらず、彼の肉体は通常の血液に含まれる「凝固作用」を全く受け付けない。
彼が飲み込んだ人間の血は、体内に入った瞬間に防御反応を引き起こし、太い血栓となって血管の中で急速に固まっていった。
「がはっ……げぶっ……!」
全身の血管を内側から引き裂かれるような激痛。彼はアスファルトに胃液と黒く固まった血の塊を激しく嘔吐した。
普通の血すら消化できない。ただ生きたいと願うことすら許されない。自分は本当に、生きる価値のない無惨なバケモノなのだ。
薄れゆく意識の中で、彼は冷たい雨に打たれながら自身の死を悟った。
だがその時。
激痛と雨の匂いに混じって、強烈な香りが彼の鼻腔を叩いた。
それは、先ほど吐き出したばかりの、すぐに固まって腐臭を放つ通常の血とは全く違う匂いだった。
粘り気を帯びた、ひどく重たくて甘い匂い。そして何より、彼の脳を焼くような強烈な刺激臭――「痛みの物質」の匂いが、雨風に乗って漂ってきたのだ。
(……なんだ、この血は……)
全身の激痛を忘れ、彼は本能のままに泥を這い、その匂いの源へと向かった。
路地裏のさらに奥、街灯の光すら届かないゴミ捨て場の影に、一人の女がうずくまっていた。
「……はぁ……はぁ……痛い……」
それは、過酷な労働で搾取され、心身ともに限界を迎えていた俺――いや、私だった。
連日の徹夜作業に加えて、月に一度の重い生理痛が私を襲っていた。子宮を強く収縮させる痛みの物質が過剰に分泌され、下腹部を万力で締め上げられるような地獄の苦しみ。
終電を逃し、歩くことすらできなくなった私は、この暗く冷たい路地裏で「このまま誰にも見つけられずに死ぬのも悪くない」と、半ば本気で絶望していた。
そこに、彼が現れたのだ。
泥にまみれ、青白い顔をした美しい男。
男は朦朧とした瞳で私を見下ろすと、まるで神にすがるような手つきで私の足元に跪き、震える両手で私の太ももを掴んだ。
「ひっ……な、に……」
逃げようにも、激痛で声も体も動かない。
男は私の衣服を強引に引き剥がすと、そのまま足の間に顔を埋め、私の体内から流れ出していた赤黒い血を、狂ったように啜り始めた。
チュプ……ジュルルルルッ……。
生々しい水音が雨音に混じる。私は恐怖で目を閉じた。
しかし次の瞬間、信じられないことが起きた。
彼が私の血を吸い上げるたびに、あれほど私を苦しめていた下腹部の激痛が、嘘のようにスーッと引いていったのだ。
彼が貪るように飲んでいたのは、ただの血ではない。私の子宮を収縮させ、痛みを引き起こしていた化学物質そのものを、彼が血と一緒に私の体内から抜き取ってくれていた。
「……あ……」
地獄のような痛みが消え、私の口から安堵の吐息が漏れる。
一方の彼もまた、歓喜に打ち震えていた。
酵素をたっぷりと含んだその血は、彼の体内で決して固まることがなかった。それどころか、生命を育むはずだった「子宮内膜の細胞」と「未受精卵」が溶け込んだその濃密な命のスープは、彼の崩壊しかけていた細胞の隅々にまで染み渡り、滑らかに肉体を修復していったのだ。
「ああ……これなら、生きられる……っ」
男は口の周りを真っ赤に染めながら、涙を流して私を見上げた。
その瞳は、怪物のそれではなく、ようやく救いを見つけた迷子の子供のように澄んでいた。
「あなたが、私の痛みを……食べてくれたの……?」
「君のこの血だけが……俺を繋ぎ止めてくれる……」
社会から見捨てられ、搾取されるだけだった底辺の女。
実験に利用され、普通の血すら飲めない欠陥品の怪物。
冷たい雨の降る路地裏で、私たちは互いの「欠陥」と「不要なもの」を補い合うように、強く抱きしめ合った。
それが、私たちが結んだ、決して誰にも理解されない共依存の契約の始まりだった。




