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解剖台の継承者 ――殺された解剖医は、胃の中に最後の証拠を残した  作者: 二条理|アコンプリス


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第八章 まだ、死なない

 最初に気づいたのは、音だった。

 搬送口へ続く半屋内の中継スペースは、夜になると空気の流れ方が変わる。昼間は台車の車輪音や、荷捌き用の扉が開閉する金属音が平らに散る。だが夜は違う。床と壁と天井の距離が、音を少し遅らせる。自分の靴音が一拍あとから戻る。いつもの便なら、その遅れは一定だ。だから、そこへ別の靴音がひとつ混じるとすぐ分かる。

 九条雅紀は立ち止まらなかった。

 止まると、相手にこちらが気づいたことまで渡る。気づいていないふりをしたまま、歩幅だけを少し変える。右手に持ったファイルを脇へ寄せ、通路の中央ではなく壁寄りを選ぶ。壁側のほうが、死角が一方向で済む。逃げる時に測るべき角が減る。そういう種類の動きは、考えてやるのではなくもう癖になっていた。

 中継スペースは、港湾施設そのものというより、その手前に置かれた制度の裏口だった。搬送用エレベータが一基。医療搬送コンテナを一時待機させるための白い区画線。塗装の剥げた灰色の壁。保管扉には番号だけがあり、用途名は剥がされて久しい。照明は白いが均一ではない。三本あるうちの一本が少しだけちらつき、そこだけ床のコンクリートが濡れているように見える。遠くで船の低い唸りがした。水の近い場所特有の、空気の重さがあった。

 九条は歩いたまま、ファイルの端を指先で押さえた。

 入っているのは搬送記録の写しと、港湾側の接岸ログの抜き出し、それから拘置所死亡案件の照会控えの断片だ。全部ではない。全部を持ち歩くほど不用意ではない。だが、ここまで揃えば線は見える。拘置所内の死亡として処理された案件の搬送時刻と、港湾側で動いた補助便の時刻が噛み合っていない。公式の移送経路に載っていない枝番がある。死体が死体として扱われる前に、一度別の場所を通っている可能性が高い。九条はその線に触れてしまった。

 誰がその線を握っているのかまでは、まだ断定できていない。だが少なくとも、医務院の内部にそれを知っている人間がいる。知っていて、知らない顔で処理してきた人間がいる。

 靴音がもう一度した。

 今度は隠さなかった。

「どこまで見た」

 声だった。

 九条はそこで初めて振り向いた。搬送用エレベータの影から、相手が出てくる。濃い色のコートの下に、衿元だけがきれいに整っている。顔色も声も、日中と変わらない。変わらないことが、逆に少し異様だった。

「何の話ですか」

 九条は答えた。問い返す時間を稼ぐためではない。本当に、最初の返答としてはそれが最も情報を渡さないからだ。

 相手は目を細めもしなかった。ただ、九条の手元のファイルへ一瞬だけ視線を落とした。

「誰に話した」

「話していません」

「何を持っている」

「まだ確信していないことです」

 相手の口元が、そこでわずかに動いた。笑ったのではない。困ったように、あるいは失望したように見える、ごく薄い動きだった。

「お前は優秀だ」

 静かな声だった。

「だから黙っていられると思っていた」

 教師が聞き分けのいい生徒に向けるような口ぶりだった。叱責ではない。怒鳴りでもない。残念だ、と言う前の顔だ。その気味の悪さに、九条はようやく相手の覚悟の位置を測った。これは牽制でも脅しでもない。回収のために来ている。話していないか、どこへ置いたか、何をどこまで持っているか。それだけを確認し、必要なら消すために来ている。

「その言い方をする時点で、もう答え合わせですよ」

 相手は近づいた。足音は静かだった。むしろ静かすぎた。こういう人間は、怒りで踏み込む時より、手順を守っている時のほうが怖い。九条はファイルを左手へ持ち替え、右足を半歩引いた。出口までの距離。エレベータ横の非常扉まで七歩。保管扉の脇にある警報ボタンまでは四歩だが、相手の間合いを切らずに届く距離ではない。自分と相手の間は、いま二メートルもない。

「どこに置いた」

「何をですか」

「そこまで見たなら、自分が今どの線に乗っているか分かっているはずだ」

 九条は答えなかった。返事の代わりに、視線だけで相手の肩の高さと利き手の位置を見る。右。コートの前が少しだけ膨らんでいる。刃物か。あるいは別の硬いものか。足元はコンクリート。滑りは少ない。逃げるなら最初の半歩だけが勝負になる。

 相手が一歩近づく。

 来る。

 そう思った瞬間には、もう体が動いていた。

 九条は左へ切った。真正面ではなく、相手の利き手と逆方向へ体を逃がしながら距離を取る。その動きに合わせて腕が出た。閃きというほど速くはない。だがためらいがない。銀色が照明の下で短く走る。

 入った、と思った。

 痛い、より先に、その方向が分かった。刃の角度、入り方、抜かれ方。腹壁が遅れて理解し、熱が遅れて広がる。右の腹部。深い。横ではなく前から入り、斜めに抜けた。腸管か、腹腔内出血か、どちらにしても長くはもたない。致命傷かどうかを考えたのは反射だった。考えたくなくても、頭が先に数える。

 深い。

 だが、まだ倒れられない。

 九条は前へ崩れる体を無理に止めず、そのまま一歩だけ流した。倒れる方向を相手に読ませないためだ。刺された直後にその場でうずくまるのが最も悪い。次が来る。相手は殺すためだけでなく、回収するために来ている。倒れた瞬間に押さえ込まれる。

 二撃目は横から来た。刃ではなかった。九条が庇うように出した右手首を、相手が掴み、そのまま近くの鉄製の待機台へ打ちつける。乾いた音がした。骨が折れたか、少なくともどこかがずれた。指先から肘まで一瞬で熱が走り、そのあと逆に感覚が薄くなる。

 右手が死んだ。

 そう理解するのも早かった。

 九条は反撃しなかった。喉も目も狙えた。近い位置に相手の顔がある。だが手はそちらへ行かない。行かせない。相手を壊しに行くと、その一手で逃げる線が消える。生きるために使うべき筋力が、怒りへ流れる。九条はそれを選ばなかった。

 左腕で相手の肩を押し、体重だけを外へ逃がす。関節を切るのではなく、重心をずらす。それで十分だった。相手の足が半歩遅れる。九条はその隙に後退した。腹が熱い。いや、熱いというより、中に開いた穴へ液体が広がっていく感じだった。呼吸を深くすると痛みが遅れて膨らむ。浅く、短く。まず酸素。次に距離。

「逃げるのか」

 声がした。

 九条は答えない。答える酸素が惜しい。

 背中が壁へ当たる。そこから右へ、非常扉へ向けて動く。視界の端で相手が刃を持ち直すのが見えた。無駄のない動作だった。必要な位置へだけ力を入れる。人を殺すのに慣れているのではない。手順に慣れている。だから怖い。

 相手が間を詰める。

 九条は右へ逃げるふりをして、逆に一歩だけ内側へ入った。刃の直線を外すための動きだ。相手の肩がわずかにぶれ、そのぶれの外へ九条が抜ける。腹部の損傷がそこで大きく揺れ、視界が一瞬だけ白くなった。吐き気がせり上がる。だがまだ吐かない。吐けば前屈みになる。前屈みになれば、視界がふさがる。

 非常扉の近くまで来る。だが鍵がかかっていた。内側のバーを押した感触で分かる。通常時間外は封鎖。確認するまでもない運用だったのに、今はそれがひどく遠い知識に思えた。

 相手が追いつく。

「どこまで持ち出した」

 九条はバーから手を離し、そのまま壁沿いにずれた。返答の代わりに呼吸を数える。一、二。浅い。まだ意識は保てる。出血量は多いが、即時の失神まではいっていない。問題はこれ以上腹部に外力が入ることだ。腸管損傷なら腹膜刺激で動けなくなる。肝や脾なら速度が違う。刺入部の角度からいって、右寄り。なら――。

 腹へ蹴りが入った。

 考えが途中で切れた。息が音もなく抜ける。視界が下へ沈み、二、三歩よろけた。痛みより先に、腹の中が押し上げられる感覚が来る。吐く。そう体が言う。九条はそこで、あえて膝を折った。

 うずくまる。

 崩れたふりをする。

 腹を抱え、呼吸を失った人間の形へ自分を寄せる。実際に苦しい。視界も揺れている。だが完全には落ちない。まだ少し動ける。相手がここで確認したがるのは、自分の体ではなく持ち物だ。そこへ賭けるしかない。

 九条は左手からファイルを落とした。

 紙が広がり、クリアポケットが床を滑る。内ポケットに入れていた細いケースも、わざと取り落とす。金属音がした。胸ポケットのペンライトまで転がる。自分で落とした荷物が、自分の周囲へ散っていく。

 相手の視線がそちらへ動いた。

 それだけで十分だった。

「どこへやった」

 相手は九条の肩ではなく、落ちたファイルへ手を伸ばした。ページを荒く繰り、ケースを開け、ポケットをまさぐる。まだ発想は、外にある。持ち出した物は手荷物のどこかにあると思っている。

 九条はその隙に、喉を押し上げてきたものをそのまま外へ出した。

 最初の嘔吐は、ほとんど胃液だけだった。

 刺された痛みで胃がひっくり返り、酸の味が口いっぱいに広がる。空になりきっていない内容物が少し混じる。呼吸が切れ、胸郭が勝手に縮む。腹へひどい痛みが走る。だが出す。今しかない。ここで一度空にする。そうしないと、飲んだあとにすぐ戻る。

 喉が焼ける。鼻の奥まで酸が回る。目が滲む。

 それでも九条は二度、三度とえずき、胃の底をできるだけ軽くした。

 相手はまだ荷物を見ていた。

「違う……これじゃない」

 低く舌打ちするような声だった。九条が持っていた紙の断片は見つかる。だが相手が本当に欲しいのは、それではない。どこかへ残される起点、もしくは名前へ届く線だ。見つからない。その焦りが、まだ外側だけで回っている。

 九条は吐瀉の酸で濡れた唇を閉じ、左手をポケットへ滑らせた。左のポケットの中で、硬いものが指先に当たる。

 ラミネート片。

 薄い、人工的な硬さだった。便の半券。飲み込むにはちょうどいい大きさに加工したものがそこにある。念のために持っていた。記録をそのまま持ち出すより、最低限の起点だけを残すための保険として。

 その瞬間、数日前の自分の手元が脳裏に戻る。

 昼休みの終わり、港の外れの小さなドラッグストア。店内は狭く、医療用テープと胃腸薬と船酔い止めが同じ棚に並んでいた。九条は制酸剤を三箱、胃薬を二種、防水のチャック袋、小型の熱圧着フィルムを買った。レジの店員は何も聞かなかった。客の買うものに意味を見ない種類の店員だった。九条も説明しなかった。胃を空けておく必要がある時がある。水へ落ちても最低限は守りたい紙がある。持ち物を持ち物のままでは置けない線に触れた時、最後に残るのは体内かもしれない。考えたくない前提だった。だが、前提にしないと間に合わない種類の線でもあった。

 さらにその前の日には、港湾倉庫街の外周を一周している。正規の搬送路。夜間に人が減る角。半屋内の通路。保税倉庫の並び。監視カメラの死角。九条は現場を歩きながら、実際に誰かを追うつもりだったわけではない。ただ、死体がどこを通らされるかを想像していただけだ。死体は証拠を隠す場所ではない。死体は真実を残す最後の場所だ。あの一行は、他人へ言った教訓ではなく、自分が線を越えた時のための心得でもあったのだと、今なら分かる。

 相手が散らばった紙束を蹴る。手がバッグへ移る。

 間に合うのは、いまだけだ。

 九条はラミネート片を取り出した。白い光の下で、膜が鈍く光る。今ならまだ書ける。

 右手では無理だった。指が閉じない。だから、口でキャップを開ける。血で滑る。壁へ半券を押しつけ、膝を台にして書こうとしたが、腹圧がかかった瞬間に息が途切れた。九条は姿勢を変え、床に近い位置でラミネート片を左腿へ押し当てた。揺れる。視界も揺れる。ペン先が最初の一画で滑った。透明な膜の上を黒が細く走り、余計な線が入る。

 それでも止めない。

 真。

 壁。

 に。

 渡。

 し。

 て。

 字は乱れた。大きさも揃わない。線は震え、最後の「て」は半分潰れた。だが語順は迷わなかった。真壁へ、ではない。真壁宛、でもない。渡して。命令の形で残す。感傷ではなく指示として置く。九条が最後まで順番を作る人間であることを、その一行だけで証明するみたいで、少し可笑しかった。

 左手だけで口元へ運ぶ。

 折らない。折ると角で喉を傷つける。膜の端を舌で確かめ、そのまま奥へ押し込む。異物感が強い。咽頭が拒絶する。さっき吐いたばかりの胃が、反射でまた逆流しようとする。だが左手で奥まで押し込み、飲み込む。水はない。唾も足りない。喉の筋肉だけで、異物を押し込む。喉が拒む。血と吐き気でうまく通らない。二度目でようやく飲み込む。医者としてなら絶対に勧めない行為を、自分の体へやる。

 喉がひどく痛んだ。

 膜の感触が食道を擦って落ちていく。

 そこで相手が見た。

 一瞬、何が起きたのか理解できない顔をした。次の瞬間、顔色が変わる。

「お前……」

 声が掠れた。

「その手があったか」

 焦りが、初めて剥き出しになった。

「やられた……!」

 足音が乱れる。荷物へ向いていた意識が、一気に九条の腹へ向く。もう外ではない。中だ。体内へ逃がされたと分かった瞬間の、遅すぎる理解だった。

 九条は答えない。答える代わりに、喉を一度だけ鳴らした。まだ胃まで落ち切っていない。ここで吐かされれば終わる。だから次の数十秒だけが勝負になる。

 相手が踏み込んだ。

 蹴りが腹へ入る。

 今度は明確だった。殺すためではない。出させるための一撃だ。みぞおちの下から胃を押し上げる角度で入ってくる。九条は咄嗟に左腕を腹へ巻き込み、体を斜めに倒して正面の圧力を逃がした。だが内臓はそれでも揺れる。喉まで酸がせり上がる。

「吐け」

 相手が言った。

 普段の声ではなかった。回収者の声だった。日常時の命令と、人の中から物を出させる時の命令は、同じ短さでも質が違う。九条はその違いを、今、自分の喉で受けている。

 膝がもう一度入る。

 腹腔の熱が一気に跳ねた。刺創が内側から裂けるような痛みが走る。肺の残りが潰れ、胃液が喉へ押し戻される。吐く。もう抑えきれない。九条は顎を引き、歯を食いしばり、吐瀉を喉の奥で止めた。鼻の奥へ酸が回る。目が滲む。体が前へ折れようとする。そこを左腕で自分の腹へ巻き込むように支えた。

 守る。

 傷口ではない。中だ。中にある順番を守る。

 相手はそれを見た。見たから、さらに確信する。腹だ。胃だ。吐かせれば出る。そういう読みへ暴力が集まり始める。

「何を飲んだ」

 九条は息の隙間で笑った。笑う余裕などない。だが喉の奥でかすれた空気がそう鳴った。

「あなたが、教えてくれたんでしょう」

「ふざけるな」

 相手が本気で怒鳴ったのはその時が初めてだった。怒声は狭い中継スペースで跳ね返り、かえって外へ届かない。制度の裏口に置かれた怒りは、どこまでも内輪の響きしかしない。

 手が前頸部へ入った。親指が顎の下へ、残りの指が喉頭の横へかかる。咳反射を誘う位置だった。やり方を知っている。知っているから、容赦がない。

 九条の体が大きく痙攣した。胃液がまた上がる。目の前が滲む。耳鳴りが混ざる。

 吐くな。

 吐けば終わる。

 頭の中で、その二文だけが繰り返される。言葉というより、筋肉の号令だ。腹へ巻きつけた左腕をさらに強く締める。体を丸めれば相手の狙い通りになる。だが丸めないと守れない。矛盾の中で、九条は少しだけ斜めに倒れた。正面からの圧迫を逃がし、喉の角度を変える。反射だけで選んだ姿勢だった。

 指が喉の奥へ入りかける。

 九条は頭を振って外し、左肩ごと相手の胸へぶつけた。力で勝つのではない。位置をずらすだけでいい。重心が半歩ぶれた隙に、九条は床を這うように横へ逃げた。コンクリートのざらつきが掌へ食い込む。右手は使えない。指を開こうとすると、骨のどこかが遅れて軋んだ。無視するしかない。

「戻せ」

 戻せるものではないと分かっていながら、そう言うしかない声だった。

 九条は答えない。代わりに、相手の足元を見る。革靴。今日は黒。踵の減り方は左右で違う。右がわずかに外へ流れている。踏み込みの癖だ。次に来るなら右足。重心は前。なら、その軸を外す。

 次の蹴りが来る寸前、九条は体を横へ転がした。腹が裂けるような痛みが走り、胃の中のものがまた喉まで上がる。だが外へは出さない。コンクリートの床へ肩が当たり、そのまま保管扉の影へ滑る。ここは照明が少し死角になる。視界が悪くなるぶん、相手の刃の線も一瞬だけ読みづらくなる。だが読むしかない。

「どうして黙っていられなかった」

 声がした。

 九条は笑いそうになった。笑えはしない。喉が焼けている。だが、その問いの形が妙に滑稽だった。黙っていればよかった。黙っていれば処理の輪に残れた。そういうふうに相手は本気で思っている。管理の内側にいた人間が、線を越えたことを惜しんでいる。自分のしたことを悔いているのではない。秩序の維持に不都合が生じたことを惜しんでいるだけだ。

 九条は立ち上がろうとした。膝が裏切る。だが完全には落ちない。壁に左肩を預け、半身だけ起こす。視界の中央に黒い点が出始めている。失血の速度が上がっている。腹腔内か、腹壁内か、どちらにしても残り時間は減っている。監察医としての知識が、こういう時ほど残酷だった。どこがやられたか、あと何分動けるか、自分で見積もれてしまう。知らなければ、希望だけで動ける。知っていると、希望の長さまで数えてしまう。

 それでも、まだ助かる線はある。

 外へ出る。人目。音。通報。水際の警備でも、搬送の待機員でもいい。人がいれば相手は日常の顔へ戻る。その一瞬の変化だけで十分だ。九条はその一点へ思考を絞った。

 左へ、壁沿いに進む。

 コンクリートは乾ききっていて、爪の先へ灰色の粒が入った。進むたび、爪の裏に白い粉と細い破片が噛む。みっともないと思う余裕はない。進んでいるかどうかも分からないまま、進むしかない。背中で壁を感じ、次に手で床を探る。右手は使えない。左手と両膝、それから靴のつま先だけで前へ出る。

 呼吸が浅い。

 吐き気は周期で来る。大きい波が来る前に、少しずつ吐くまいと喉を閉じる。唾すら飲み込むのが難しい。腹が上下するだけで中の熱がずれる。自分の出血が、自分の内側を滑っている感じがした。

 相手は黙ってついてきた。急がない。急がないのが怖かった。確実に動きを削ぎ、どこかで止めればいいと分かっている人間の足取りだ。九条が喉や目を狙ってこないことも、もう理解しているのかもしれない。相手を壊しに来ないなら、暴力の読み方は単純になる。

 不気味だと、相手は感じているだろう。殺されかけている人間なら、普通は喉へ爪を立てる。目を突く。噛みつく。だが九条はしない。生きようとはする。逃げる。距離を取る。体重を外す。這う。吐き気を押し戻す。そこには強い生への執着がある。あるのに、憎悪へ流れない。その歪さが、たぶん相手には恐ろしい。

 保管扉を二枚越えた先に、通路が少しだけ開ける。そこから先は半屋外へ接続する搬出口だ。昼ならシャッターが上がり、人や台車が出入りする。今は半分だけ閉じている。下部に夜気のすきまがある。そこから風が入る。塩ではない。もっと薄い、水の匂いだ。遠くで船のエンジンが低く鳴った。港だと説明されなくても、身体が先に知る音だった。

 九条はそこへ向かった。

 あと数メートル。立てないなら這う。這ってでも、あの冷たい外気へ触れれば、音が変わる。音が変われば、人のいる範囲へ近づく。ここはまだ制度の裏口だ。だが裏口にも、表へ続く線はある。

 背中の襟元を掴まれた。

 九条は反射で肩を抜いた。布が引かれ、体勢が崩れる。その崩れに乗って前へ倒れる。膝と左手で受ける。腹が悲鳴を上げる。視界が白く飛ぶ。けれど、その一瞬の前進で頬に外気が触れた。ほんの少し。冷たい。外は近い。

 苛立ちを初めて隠さない声が落ちる。

「まだ死なないなんて、お前本当に人間か」

 その声には、普段の彼ではなく、怯えた人間の熱が混じっていた。

 もう九条は答えなかった。答える代わりに、呼吸だけを続けた。人間かどうかなんて、今はどうでもいい。生きているかどうかだけが問題だ。まだ意識は切れていない。まだ視界は戻る。まだ足は少しだけ動く。

 次の一撃が来る。

 蹴りではなく、爪先で抉るような角度だった。九条は咄嗟に左前腕を巻き込み、腹の前に盾を作った。衝撃が骨へ直接響く。吐き気が一気に跳ねる。喉の奥でせり上がったものが口腔まで届きかけ、九条は首を横へ捻ってそれを戻した。

 吐くまいとする行為そのものが、今は戦いだった。

 吸う。

 止める。

上がってくるものを使って、ラミネート片を流す。

 上がってきたものを胃へ返す。

 また来る。

 相手はそこを見ている。九条が腹を庇うたび、狙いはさらに集中した。

「吐け」

 低い声だった。

「今ならまだ戻る」

 九条はそこで、ようやく短く言った。

「もう、戻りません」

 相手の顔が歪む。

 理解してしまった者の顔だった。ラミネート片がもう胃へ落ちたこと、その胃をここで空にさせなければいけないこと、そのためには腹へさらに暴力を集めるしかないこと。その手順が、今の自分をどれほど露骨な犯人にするかまで、たぶん全部分かっていた。分かっていながら止まれない。

 手が再び喉へ入る。咳反射が強く起きる。胃液が逆流し、鼻の奥まで焼ける。だが異物は上がってこない。九条はそれを感触で知った。落ちた。もう胃の底へ行った。ここから先は吐いても、すぐには出ない。

 その瞬間、九条の中で何かが静かになった。

 助かるかどうかはまだ分からない。だが、終わり方だけはもう決まった。死体は証拠を隠す場所ではない。死体は真実を残す最後の場所だ。その一行が、自分の体の中で初めて実体になる。

 通路の向こうで金属の鳴る音がした。遠い。だが人のいる音だ。搬出口のどこかで、鎖か何かが触れた。九条の意識がそこへ向く。相手も一瞬だけ顔を上げる。

 その一拍で十分だった。

 九条は喉への手を外し、体ごと横へ滑った。コンクリートに肩を擦りつけ、這う。腹が裂ける。だが進む。シャッター下のすきまから入る夜気が、先ほどよりも鮮明に頬へ当たる。外は数メートル先だ。数メートル。たったそれだけが、今は遠い。

 そこで、九条の左手が、襲い来る相手の右腕に触れた。

 正面から奪うには力が足りない。

 だから狙うのは、握力ではなく、支点だった。

 右手首の少し上。骨と腱のあいだ。

 九条はためらわず、そこへ短く指を落とした。

 叩くのではない。押し込むように、トンと一点だけを落とす。

 刹那、相手の右手がわずかに緩む。

 その半拍を逃さず、九条は左手で柄を引き抜いた。

 刃物の重さが掌に来る。

 右手はもう使えない。左だけで握る。

 すぐに反撃へ振ることもできた。喉も顔も、近い。

相手の顔が引き攣る。来ないと思っていた反撃への恐怖だ。

 だが九条はそうしなかった。

 立ち上がりきれないまま、半身だけを起こす。

 搬出口脇の細い窓。その向こうに黒い海気の気配がある。

 そこへ向けて、左腕の残り全部を使った。

 強く、外へ投げる。

 銀色が一度、照明を弾いた。

 本当はもっと遠くまで飛ばしたかった。海まで届くのが一番よかった。届けば音もしない。見つかるまで時間がかかる。だが、腹の傷と失血で体幹にもう力が入らない。刃物は窓を抜けたあと、大きな放物線を描く前に失速した。暗がりの向こう、岸壁寄りのどこかへ落ちる。海までは行かない。

 それでも外へ出た。

 それだけで十分だった。

 相手の顔が、そこで初めて本当に変わった。

 腹の中身ではなく、手元から刃が消えたことに対する狼狽。

 九条はその表情を見て、少しだけ息を吐いた。

 吐けば終わるのに、今のは違う。

 ただの、浅い満足だった。

「お前は何がしたい」

 相手が掠れた声で言う。

 九条は答えない。

 今ここで理由を渡す気はなかった。

 奪い返したのに反撃に使わず、外へ投げる。

 その不自然さだけが、あとで残る。

 それでいい。

 相手が踏み込んでくる。

 もう刃はない。

 だから暴力は、さらに露骨に腹へ集まる。

 相手の靴が九条の指先を踏みつけた。骨が軋む。九条は声を出さなかった。出す酸素がないのもある。だが、それ以上に、まだ一画だけ残したかった。

 九条は指先を床の血へ入れた。いつから流れていたのかも分からない、自分の血だった。半券は飲んだ。順番の本体は、もう胃へ落ちている。ならば次に残すのは起点だ。全部ではない。一文字。読みが割れる一文字でいい。拾える相手が、次へ行ける一文字。

 ま。ほ。に。き。

 どうとも読めるような崩れ方を、九条は頭のどこかで計算した。それぞれの頭文字を含む人名。北界運輸。保税倉庫。保管庫。人にも場所にも会社にも開く起点。断定を拒み、だが読む者の位置を暴く一画。

 指が床を擦る。痛みで線がぶれる。払いが崩れる。だが、それでいい。綺麗な字では意味が狭すぎる。

 相手がそれに気づいた。

「やめろ」

 声に初めて焦りが出た。

 九条は指をもう一度動かす。線は歪み、血は薄れ、形は崩れる。だが意志は残る。これで足りる。足りるはずだ。真壁なら拾う。二階堂は散らすだろう。だが散らされた意味のなかからでも、真壁は芯を掴む。そういう順番だった。

 靴が九条の指先を踏みつけた。骨が軋む。九条は声を出さなかった。ほとんど爪だけで床を引っ掻く。コンクリートの灰色が爪裏へ強く噛む。血と粉が混ざる。視界が下がる。もう長くは持たない。監察医としての自分が冷静にそれを言う。あと三分。いや、もう少し短い。出血と腹圧のかかり方からして、立ち上がるのは無理だ。

 襟元を掴み上げられる。

「どこに渡すつもりだ」

 その問いに、九条は初めて答えた。

「渡すんじゃない」

 喉が焼けて、声にならない。だが相手には届いた。

「残すんです」

 相手の顔が、そこでわずかに崩れた。怒りでも悲しみでもない。理解してしまった者の顔だ。もう回収しきれない、と。胃へ落ちたものも、床に残る一画も、ここから先の解剖も、全部が自分へ戻ってくると、ようやく分かったのだろう。

 その理解のあとで来た暴力は、少しだけ乱れていた。腹へもう一撃。喉へ押し込み。だが手順の乱れは手遅れの印でもある。九条はその乱れを感じながら、意識の最後の層で別のことを考えていた。

 誰が開くにしても、胃を見る。

 誰も自分の思い通りには動かないだろうが、それでも次はもう置かれている。自分がここで終わっても、止まらない線が一本だけ外へ伸びた。そのことだけが、急に静かな確信として胸に落ちた。

 九条は目を細めた。照明が滲む。白い光の輪が二重になる。遠くで船の唸りがまだある。港だ。水の匂いもある。あの外気へは届かなかった。助かる線はたぶん、もう切れている。だが、完全な失敗ではない。ここまでくれば、あとは誰かの順番だ。

「本当に……」

 声が途切れる。喉に血が絡む。もう一度、小さく息を吸う。

「さよならだ……」

 大仰ではない。告別の演説でもない。ただ、呼吸の間に置いた言葉だった。犯人への別れでもある。自分の身体への別れでもある。生きている側の世界への別れでもある。けれど同時に、もう順番は置いた、という確認でもあった。

 九条はそこで目を閉じた。

 安心したような表情にも見えた。

 犯人は動かなかった。数秒なのか、もっと長かったのか分からない。時間の感覚が崩れていた。目の前の男が本当に意識を落としたのか、それともまだこちらを見ているのか、犯人には判別できなかったのだろう。涙はもう止まっていたが、その頬には乾く前の線が残っている。

 ゆっくりと、犯人はしゃがんだ。九条の喉元を見る。口元を見る。床を見る。血はある。咳き込んだ痕もある。だが吐瀉物らしいものがない。ラミネートの切れ端も、紙片も、何も出ていない。腹部へどれだけ外力をかけても、喉へ指を入れようとしても、咳を誘っても、出なかった。

 そこでようやく、犯人は理解した。

 吐かなかった。

 最後まで、出さなかった。

 喉も、口も、床も見たあとで、犯人はようやく分かった。何も出ていない。九条は最後まで、自分の中身を渡さなかった。

 その事実は、犯人の中で単純な失敗としては落ちなかった。回収に失敗した、では足りない。もっと深いところで負けたのだと分かってしまう。自分は死を制度へ戻す側にいた。

 九条は逆だった。

 死を制度へ戻さず、証拠へ変えた。

 自分の腹を保管庫にして、解剖される未来まで含めて順番を作った。

 犯人はその対立を、今この床の上で初めて真正面から見せつけられた気がした。

 外で金属の鳴る音がした。遅い。だが近い。誰かがシャッターの鎖に触れている。

 犯人の肩が微かに震えた。ここに留まれば、人が来る。逃げれば、現場を捨てる。どちらを選んでも、もう元には戻れない。

 犯人は床の血を見た。そこに九条の指が引いた線が残っている。崩れている。だが崩れているからこそ、読み手の位置を暴く。たった一字で、残された側の立ち位置まで試している。そう思った時、犯人はぞっとした。

 九条は死にかけてなお、自分たちを観察していたのだ。

 人が死ぬ瞬間にそこまで冷静でいられるはずがない、と昔なら思ったかもしれない。今は違う。九条は冷静なのではない。優しさでもない。性分として染みついている。だから恐ろしい。

 犯人はゆっくりと立ち上がった。膝が少しだけ笑う。普段ならありえないことだった。整った姿勢で人前に立つ身体が、今は自分の重さを信用できていない。

「九条雅紀」

 もう一度だけ名前を呼んだ。

 返事はない。

 だが腹へ巻きついた左腕の形だけは、その声を拒絶するみたいに固かった。そこにもう守るべき物は胃へ落ち切っている。それでも体はその姿勢を離さない。解剖台へ乗る未来まで込みで、自分の身体を最後の保管庫にした者の形だった。

 犯人は一歩だけ後ろへ下がった。そこへ冷たい外気が流れ込む。シャッターの下部が少し持ち上がったのだろう。誰かの靴音がする。人声も混ざる。もう時間切れだった。

 犯人は落とした刃物を拾おうとしかけて、やめた。触れば余計な痕跡が増える。そんな計算がまだ働く自分を、犯人はどこか遠くで嫌悪した。だが嫌悪している暇はない。

 かつて九条が言った「怪異ですから」が、遅れて胸の奥で響く。

 怪異。

 そんなはずがない。ただの人間だ。血も吐くし、痛みで膝もつく。死にもする。なのに、どうしてあの一言はこんなに残るのか。犯人には分かってしまう。自分が怪異にしたかったのだ。最後まで人間として見てしまうと、自分のしていることが保てないから。だが九条は怪異の仮面をわざとかぶり、その仮面の下で最後まで人間の順番だけを守った。それがいちばん残酷だった。

 シャッターの向こうから声が近づく。

「誰かいるのか」

 犯人は目を閉じなかった。閉じれば、次に開いた時にもう逃げ切れない気がしたからだ。

 目の前の男を見る。

これ以上ない敗北だった。

 シャッターがもう少し上がる。外の白い灯りが床へ細長く入り、九条の血の輪郭を照らした。誰かの影がその先に見える。

 犯人はようやく一歩、外の方へ向かって動いた。逃げるためではない。戻るためでもない。ただ、いつもの顔へ戻るためだ。もうそれしか残っていない。

 背後で、九条の呼吸は聞こえなかった。

 それでも、犯人にはまだ分からない。意識を失っただけなのか、本当に終わったのか。九条は最後までそういう曖昧さを残す。死んだと言い切るには、どこかでまだ生きている感じがある。生きていると言うには、血が多すぎる。その境目の不気味さまで、あの男は自分のものにしていた。

 人影が近づく。

 犯人はそこで、ようやく涙の跡を手の甲で拭った。遅すぎる動作だった。けれど、今さらそれ以上の体裁もなかった。

 もう何も出ないと思っていた喉の奥から、ひどく乾いた声が自分でも知らないうちに漏れた。

「……誰か来てくれ」

 助けを呼ぶ声だったのか、証人を呼ぶ声だったのか、犯人自身にも分からなかった。

 ただ一つだけ確かなのは、ここで終わっていないということだった。

 九条は吐かなかった。最後まで、出さなかった。

 だから次は、解剖室で始まる。


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