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解剖台の継承者 ――殺された解剖医は、胃の中に最後の証拠を残した  作者: 二条理|アコンプリス


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第九章 港へ向かう線

 午前の港は、夜よりも輪郭がはっきりしていた。

 海は青くも灰色でもなく、ただ光を返す板のように平たく見える。クレーンの金属音、フォークリフトの警告音、岸壁へ当たる水の細かな音。昨日と同じ場所のはずなのに、光が入るだけで、ここが本当に人間の死んだ場所だったのか一瞬だけ分からなくなる。

 真壁彰は規制線の手前で立ち止まり、白手袋を引き上げた。

 倉庫の前にはまだ所轄の人間が一人残り、簡易テントの下に鑑識のケースが積まれている。初動の騒がしさは消えていた。だが静かになった現場ほど、昨夜見えなかったものが浮いてくる。

「入りましょうか」

 木下が言う。声を落としているつもりなのだろうが、港の朝の空気の中では少しだけ硬く響いた。

 松本は短く頷き、先に倉庫の中へ入った。

 内部は昨夜より明るい。天井の抜けた部分から細い光が落ち、床のひびや、血の乾き方や、靴跡の途切れまで見える。夜は匂いが先だったが、朝は配置が先に見える。

 真壁は九条が最初に倒れた位置で立ち止まった。

 チョークで囲まれた輪郭。乾いた黒い血。そこから少し離れて、血の濃さが変わる。最初に崩れた場所と、そこから動いた場所が違う。昨夜も見たはずのものなのに、解剖所見を頭に入れた後だと意味が変わる。

「ここで刺されて、すぐには止まってないですね」

 木下が言った。

 真壁は頷いた。

「腹をやられてからも動いてる」

 床に残る擦れは一方向ではない。這った跡、体勢を変えた跡、壁際へ寄った跡。九条はその場で倒れきらなかった。意識を失うまでの時間を、ただ失血で潰したのではない。

 松本が少し離れた位置から言う。

「血文字の位置も、最初の倒れた場所じゃない」

 床の一角に残る、崩れた血の線。

 “ま”にも“ほ”にも見える一画は、倒れた直後ではなく、移動した後に残されている。

 真壁はそこへしゃがみ込んだ。

 昨夜より乾いている。

 だが乾いたからこそ、指先で引いたと分かる線の浅さが見える。最後の力で書いたというより、最後まで意図して残した線だ。

「これもだな」

 松本が言う。

「助けを求めた字じゃない」

 真壁は返事をしなかった。

 字そのものより、そこへ来るまでに九条が何を守っていたかのほうが、今は重い。

 木下が倉庫の奥から声をかける。

「真壁さん、こっちです」

 搬出口側だった。

 真壁と松本がそちらへ行くと、木下は半屋外へ抜ける細い窓の下を見ていた。外には岸壁寄りの砂混じりの地面があり、その一角に鑑識のマーカーがまだ立っている。

「凶器の発見位置」

 木下が言う。

 ナイフは倉庫の中ではなく、外で見つかっている。昨夜の段階では、それがまず異様だった。普通ならその場に落ちる。だがこれは外へ出ている。

 真壁は窓の高さを見た。

 人が立って腕を振れば十分届く位置だ。だが、力任せに投げたのではない。窓枠に当たった痕がない。角度も素直すぎる。

 松本が窓の下を覗き込みながら言う。

「周囲の地面、鑑識のメモ見たか」

「見ました」

 木下が答える。

「刺さったんじゃなく、一回弾んでる。土の削れ方と、横の擦過痕がそうです」

 真壁は無言で聞いていた。

 ナイフが落ちたのではなく、投げられた。しかも、ただ捨てたのではなく、倉庫の外へ出す意図があった。

「柄も出てたな」

 松本が言う。

 真壁は短く頷いた。

「九条の左手」

 それがいま一番重い。

 柄から検出されたのは、九条の左手の、血の付いた指紋だった。逆手だけではない。順手でも握り直している。さらに刃の部分からも血痕が出ている。

 木下が窓の外を見たまま言う。

「……九条先生が投げたんですかね」

 言葉はまだ仮説の形だった。

 真壁は少し間を置いてから答えた。

「その可能性が高い」

 自分を刺した凶器を奪い、外へ出した。そう読むのがいちばん自然だった。

 松本が窓の下から視線を戻した。

「荷物の散り方も見とくか」

 三人はもう一度、九条が倒れていた位置の周辺へ戻った。

 床には鑑識のマーカー番号が残っている。財布。身分証。ペンライトの位置。

 だが、昨夜は血と死体に視線を持っていかれていた分、抜けていたものがある。

 ないものだ。

 真壁は床に視線を落としたまま言った。

「財布はある」

 木下が続ける。

「身分証も」

 松本は周囲を一度見渡してから言う。

「だが、それ以外が足りない」

 携帯端末。手帳。鍵束。鞄の中身の一部。

 現場に散っていておかしくないはずのものが、きれいに抜けている。

 木下が低く言った。

「物取り、じゃないですね」

 松本が答える。

「財布がある時点でな」

 真壁は、床に残る荷物の位置と、血の流れと、窓の外へ出たナイフの線を頭の中で重ねた。

 犯人は九条を殺した。

 そして、九条の体か、持ち物のどちらかにある何かを探した。

 それでも見つからなかった。

 だから腹をやった。吐かせようとした。

 そして、なお見つからなかったものがある。

 倉庫の中に、朝の港の音が薄く入り込む。

 クレーンの金属音。遠い汽笛。人の仕事の音。

 九条雅紀はここで死んだ。

 だが、その死に方はまだ終わっていない。

 真壁は床の崩れた血の一画を見た。

 次に進むための順番だけが、もう置かれている気がした。

      *

 午後一時の対策本部会議は、午前の現場よりも静かだった。

 静かだが、その静けさは落ち着きではない。情報が揃い始めた時だけ生まれる種類の張り詰め方だった。

 壁のホワイトボードには現場図と遺留品一覧が貼られ、中央の机には写真封筒と鑑識メモが重ねられている。

 真壁は席につく前に、一度だけ全員の顔を見た。

 松本。木下。神明。二階堂。そして本部側の人間。

 九条が死んでからまだ一日も経っていないのに、事件はもう“整理されるべき情報”として机の上に並び始めている。

 神明が封筒を開いた。

「先に鑑識と解剖の情報を確認します」

 部屋の空気が少しだけ締まる。

「凶器はナイフ。現場外、搬出口脇の岸壁寄り地面で発見」

 ホワイトボードの現場図に、赤い印がひとつ付いている。

「周囲の地面の痕跡と、ナイフ本体の傷の具合から、落下ではなく投擲と見るのが自然です」

 神明は言葉を切らずに続けた。

「柄から、被害者・九条雅紀の左手の血液付き指紋が逆手および順手で検出されています」

 木下が小さく息を呑む。

「刃部からも血痕を確認。刺創後に被害者が凶器を奪取、もしくは一時保持した可能性が高い」

 松本が低く言った。

「つまり、九条が奪って外へ投げた線か」

「はい」

 神明は頷く。

「現時点では、その可能性が最も高いと考えます」

 会議室の中に短い沈黙が落ちた。

 自分を刺した凶器を奪い、外へ投げた。

 それはやりすぎに見えるほど九条らしい。だが、らしさで読める段階ではもうない。痕跡がそう示している。

 神明は次の紙をめくった。

「次に、所持品です」

 ホワイトボードの一覧に視線が集まる。

「現場で確認されたのは、財布と身分証。一方で、携帯端末、手帳、鍵束、鞄の中身の一部が見当たりません」

 木下が言う。

「なくなってる」

 松本がすぐに訂正した。

「いや、なくなったって言い方だと弱いな」

 真壁が続ける。

「選んで抜かれている」

 財布と身分証は残っている。

 物取りではない。必要なものだけが消えている。

 二階堂が口を開く。

「外に出していい情報じゃないですね」

 それは広報として正しい反応だった。

 松本が頷く。

「出したら一気に“隠蔽”と“ダイイングメッセージ”で遊ばれる」

 神明は構わず次へ進んだ。

「次に解剖の続報です」

 紙を一枚、机の中央へ置く。

「胃内容物から異物が検出されています」

 木下が顔を上げる。

「異物」

 神明は透明な証拠袋を机の上に置いた。

 中にあるのは、小さなラミネート片の写真だった。

 人工物だと一目で分かる硬さと光り方をしている。

「胃の中にあったものです」

 会議室が一瞬だけ、ひどく静かになった。

 財布と身分証はある。必要なものだけが抜かれている。腹部は執拗にやられている。そして体内から異物が出た。

 松本が椅子にもたれたまま言った。

「なるほどな」

 声は低かった。

「物取りじゃない。犯人はこいつを探してた」

 真壁は一瞬、自分の左胸に触れた。

 神明が言う。

「現段階で断定はしません。ただ、凶器の扱い、腹部への集中打撃、所持品の欠落、体内異物。この四点は一本の線として読むべきです」

 木下が乾いた声で言った。

「犯人は、ラミネート片を奪おうとした」

 松本が続ける。

「見つからなかった」

 真壁が言葉を継いだ。

「だから体の中を疑った」

 二階堂は透明袋の中のラミネート片の写真を見たまま、何も言わなかった。

 広報としては、最悪の情報だ。

 だが、広報である前に、これは九条雅紀の死に方そのものだった。

 神明が静かに言った。

「そして九条先生は、それを守った」

 会議室の空気が、そこで一段だけ重くなった。

 真壁はホワイトボードの現場図を見た。

 倒れた位置。這った跡。血の一画。外へ出たナイフ。抜かれた持ち物。そして、胃の中の異物。

 九条はもういない。

 だが、死んでからのほうがよほど強く捜査を動かしていた。

 その沈黙を破ったのは、二階堂だった。

「九条なら、ここまでやる」

 言い方は静かだったが、迷いはなかった。

「持ち物に置けば消される。机に置いても駄目。端末も駄目。だったら体内に入れる。解剖される前提で残す。そう読むのがいちばん自然です」

 真壁はそちらを見た。

 言っていることは正しい。自分もそう読んでいる。だが、それをこの場で先に言われると、妙に腹が立つ。

 受け取ったのは自分のはずなのに、九条の設計そのものを読む速さでは二階堂も遅れていない。その事実に、真壁は胸の奥で小さく舌打ちしたくなった。

 だが表情には出さない。

 松本がその張りを見逃さず、しかし何も言わなかった。

      *

 資料室の空調は、夜になると昼より音が大きく聞こえる。人の気配が減り、紙の擦れる音やコピー機の低い唸りが、部屋の温度みたいに居座るからだ。

 真壁彰は、机の上に広げた搬送記録の束から目を離さずにいた。拘置所内死亡、留置中急変、収容下での死亡確認。件名の違う紙が、少しずつ形を変えながら並んでいる。発見時刻、搬送要請時刻、開始時刻、到着時刻、立会者、引継者、備考。どの欄も埋まっている。埋まっているからこそ、見えなくなるものがある。

 一件ずつ見ていると、違和感はすぐ紙の中に沈む。数分のズレは道路事情で説明できる。記載の揺れも担当者の癖で済む。それでも手が止まらないのは、九条が死ぬ前に見ていたものが、この紙のどこかにまだ残っている気がするからだった。

 入口のドアが開き、夜気が一瞬だけ室内の乾いた匂いを押しのけた。松本が分厚い封筒を抱えて入ってくる。コートは肩にかけたまま、片手でドアを閉めた。

「まだいたか」

「松本警部こそ」

 真壁が言うと、松本は鼻で笑った。

「おまえの顔見たら、自分が元気かどうか分からなくなるな」

 封筒を机に置く。中から出てきたのは、港湾管理側の補助便記録の写しだった。表紙に港湾局の受付印がある。

「取れたんですか」

「正式ルートじゃない。だから正式な顔で見んな」

 松本は椅子を引き、真壁の正面に腰を下ろした。封筒から数枚抜いて机へ広げる。

「港の補助便記録。で、こっちがおまえの拘置所死亡案件の搬送ログ」

「突き合わせたんですか」

「おまえが一件ずつ睨んでる間にな」

 松本は指先で二つの書類を叩いた。

「見るのは車両番号じゃない。時刻のぴったり一致でもない。そこに引っ張られると負ける」

 真壁は何も言わず、松本の指の動きを追った。松本は三件の書類を横並びにし、備考欄の横の小さな記号を丸で囲んだ。

「これだ。枝番」

 数字とアルファベットが一つずつ違うだけの記載だった。公式搬送ルートにない補助便の枝番が、拘置所死亡案件の周辺日だけに出ている。単独で見れば誤記にしか見えない。

「一件なら誤記で済む」

 真壁が言うと、松本は頷いた。

「二件でも担当のミスで片づく。三件目からは流石に顔を上げる」

「四件ある」

 真壁は書類を引き寄せた。拘置所内死亡が二件、留置中急変が一件、収容下での死亡確認が一件。発生時期はばらついている。だが、いずれも搬送ログの周辺にだけ港湾補助便の枝番が出る。通常案件にはない。偏りは偶然より先に仕組みを疑わせる。

「死体が処理に乗る前に、別ルートを通ってた可能性がある」

 口に出すと、その言葉は思ったより重かった。

 九条が追っていたのは、犯人の顔ではなかったのかもしれない。誰が刺したか、その先ではなく、その前から流れていた処理の線。人が死んだあと、どこへ流され、どう薄められるか。その流れだ。

 あいつは正義感で動いたんじゃない。見えてしまったから止まれなかっただけだ。

 真壁はそう思った。九条を聖人にする気はない。ただ、見えたものを見なかったことにできない人間だった。

「港へ行ってた理由が、ようやく線になるな」

 松本は黙って次の紙を差し出した。港湾側の補助便記録には、検体、雑貨、再配送、要確認と、曖昧な用途が並んでいる。読み流すための言葉ばかりだ。だが、曖昧なくせに整いすぎていた。

「綺麗すぎるな」

 真壁が言うと、松本は短く笑った。

「汚いやつは、たいてい綺麗に見せる」

 資料室の時計は日付が変わる直前を指していた。真壁はコピー機の横で冷めた缶コーヒーを取り、机へ戻る。飲んでも苦味しか残らない。

 松本が別の紙を見ていた。

「これ、医務院側からの引継記録だな」

「ええ」

「個人名はまだ出ない」

「まだ、だ」

「まだ、で済ませる顔してるな」

 真壁は缶を置いた。

「今はまだ行かない」

「分かってる」

 松本は紙を揃えた。

「交点はあとでいい。先に線を増やせ」

 真壁は頷いた。交点へ飛びつけば、そこへ向かう線の意味を取りこぼす。九条が見ていたのが流れなら、真壁もまだ流れを追うしかない。

 机の上に、四件の枝番が並ぶ。たったそれだけで、監察医殺害は個別の凶行ではなくなり始めていた。

      *

 同じ頃、庁舎の別の階では蛍光灯の白さが少し違って見えた。広報フロアは日中の人声が消えると、机も壁も急に冷たくなる。

 二階堂壮也は、会議準備室の長机に過去案件の会見録と配布資料を並べていた。紙の束は薄く見えるくせに、触ると指に重い。自分が関わった文面だからだった。

 拘置所死亡案件。留置場内急変。収容者死亡。件名だけで息苦しくなる。今夜の二階堂は、犯人を探すためではなく、順番を確かめるために資料を見ていた。広報文言、記者配布資料、初報記事の公開時刻。普通なら前後はしても、骨格まで同じにはならない。

 最初は気のせいだと思った。二件目で嫌な感じがした。三件目で手が止まった。問題は時刻そのものではない。記事の骨格が、広報文言に近すぎることだった。

 死因は確認中。

 事件性を含め捜査中。

 現時点で不適切な対応は確認されていない。

 その並び、その曖昧さの残し方。しかも嫌なことに、それを整えた癖が文に残っている。句読点の位置。主語を落とす場所。断定を避けつつ印象だけ固定する語尾。

 二階堂は一枚の資料を持ち上げた。自分が赤字を入れた修正版のコピーだ。ペンの色は褪せているが、修正の癖は今と変わっていない。削る。柔らかくする。曖昧にする。遺族刺激を避け、現場の混乱を抑え、上に通しやすくする。当時の自分は、それを仕事だと思っていた。組織を持たせるための言葉選びだった。

 だが今見返すと、整えた文面の外側に、別の何かが隠れていた気がする。整えること自体が、結果として見えなくする外郭を作っていたのではないか。

「ふざけるなよ……」

 二階堂は独り言のように呟いた。誰に向けた怒りか、自分でも分からない。

 九条の顔が浮かぶ。どうして一人で行く。どうして人を使わない。どうして言わない。怒りの形をしているが、その奥には別の苛立ちがあった。九条は人を選んで使うくせに、最後のところで誰にも寄りかからない。結果として死んだ人間に、今さら文句を言っても仕方がない。それでも言いたくなる。

 二階堂は過去記事の公開時刻を時系列で並べ直した。会見前、配布前、あるいは文言確定の直前に、すでに記事の骨格が出来ている。混乱ではない。先に流れていたのだ。しかも記事にしやすい形で。

 情報の流れを触れる人間は、事件の向きを触れる。

 自分の頭の中で出た言葉に、二階堂は無意識に手を止めた。広報の机に一人で座っていると、その言葉は馬鹿にできなかった。

 自分はその流れを触ってきた。文面を整え、順番を作り、どこまで言うかを決めてきた。現場を守るため、組織を持たせるため。そういう理屈は今でも成り立つ。だが、その成り立ち方が嫌だった。

 九条はこれを見ていたのか。いや、見ていたのはもっと先だろう。記事が早いとか文言が冷たいとか、そんな表面ではない。その流れが何を守り、何を通し、何を死体ごと別の線へ運んでいたか。そこまで行ったから殺されたのか。

 二階堂は資料を一枚伏せた。紙の白さが目に刺さる。

「おまえは、どこまで行った」

 返事はない。蛍光灯の音だけが細く続く。

 死因は確認中。

 事件性を含め捜査中。

 現時点で不適切な対応は確認されていない。

 冷たいのは言葉ではない。その言葉を何も感じず整えられた、自分の手つきのほうだった。

      *

 木下は、捜査しているつもりの時より、そうでない時のほうがよく物を拾う。聞き込みのように構えると相手が固くなる。雑談の延長でいると、人は案外どうでもいいことを喋る。そして、その中に後で効いてくるものが混じる。

 会計課の前でコピー待ちをしていた時だった。木下は伝票を抱えたまま、課員の男性と他愛ない話をしていた。名札には檜垣とある。

「九条先生って、最近外で買い物多かったんですね」

 相手は伝票の束を繰りながら言った。

「珍しいんですか」

「経費で落ちるものと私費で買うものをきっちり分ける人でしたから。なのにこの前、港のほうのドラッグストアのレシートが何枚か混じっていて」

「港のほう?」

「出張でもないのにと思って。私費だから関係ないんですけどね」

「何買ってたんですか」

「薬。胃薬とか、制酸剤とか。あと、袋とかフィルムとか」

 木下の喉が鳴る。

「フィルム……!」

「熱圧着って書いてあったと思います。ラミネートの資材のようなものですね。医務院で使うなら経費で落とせばいいのに」

「そのレシートの写し、ください!」

 木下の勢いに檜垣は目を丸くする。

 別の場所では、警備員が缶コーヒーを飲みながら言った。

「九条先生、こないだ港側の通用門のほう歩いてましたよ。珍しいっすよね、あっち」

「一人でですか」

「たぶん。透明な袋みたいなの持ってた。書類かと思ったけど、薄い感じの」

 食堂の調理担当はもっと具体的だった。

「三日続けて、汁ものしか頼まなかった日もありましたよ。普段から大食いではないけど、あそこまで食べないのは珍しかったです。体調でも悪かったのかなって」

 港湾近くのドラッグストア店員からは、もう少し具体的な話が出た。

「白衣じゃなかったですけど、たぶんその人だと思います。胃薬と制酸剤、あと食品保存のコーナーにしばらくいて、防水のチャック袋と、文具売場でラミネートっぽいの見てました。珍しい組み合わせだから覚えてて」

「詳しく」

「熱で閉じるやつです。小さいサイズもありました」

 どれも小さい。だが、この数日の九条の動線が着実に浮き上がっていた。

 木下はメモ帳に断片を書きつけた。

 港方面で目撃。

 胃薬複数。

 制酸剤。

 透明な小袋。

 防水チャック袋。

 熱圧着フィルム。

 ラミネート資材。

 食堂で食べていない。

 汁もの中心。

 外で買っている。

 単語の並びが、不自然なくらい一つの方角へ傾いている。

 木下はそのメモを折りたたみ、真壁たちのいる資料室へ向かった。

      *

 真壁が九条の私費購入履歴を見たのは、先ほど立ち寄った会計課で受け取った薄い封筒を机へ持ち帰ってからだった。

「さっき木下さんからも聞かれましたよ」

 対応してくれた男性職員の名札には檜垣とあっただろうか。

 封筒の中には、カード利用明細の写しとレシートの控えが入っていた。真壁は蛍光灯の下で一枚ずつめくった。

 最初に目についたのは制酸剤だった。胃腸薬もある。ひと月に一度二度なら珍しくない。だが死ぬ前の数週間に偏っている。

「胃を悪くしてたのか、飲む準備をしていたのか」

 独り言のように言って、次の紙を見る。

 防水チャック袋。大小サイズ違いで複数。

 日用品としてはあり得る。だが九条の生活を考えると妙だった。さらに次をめくる。

 熱圧着フィルム。

 ラミネートパウチ。

 細い油性ペン。

 そこで真壁の手が止まった。紙の端を持つ指に、嫌な感覚がじわじわ上がってくる。

「認めたくないんだがなぁ……」

 九条の顔が浮かぶ。普通はやらない。だが、あいつは普通の物差しでははかれない。そんな奴だ。

 胃薬。制酸剤。防水袋。熱圧着フィルム。ラミネート。細い油性ペン。品目が並ぶだけで、意図が浮いてくる。だが真壁は一気にそこへ行きたくなかった。行けば、九条が死ぬ前から準備していたことを認めることになる。

 そこへ木下が入ってきた。ドアを開けた瞬間、自分が場違いなものを持ってきたと気づいた顔をしている。

「あの、これ、関係あるか分からないんですけど」

 真壁はレシートを伏せた。

「今は忙しい」

「すみません。でも、会計課とか警備とかで聞いた話で……」

 木下の手には小さなメモ帳がある。松本が後ろから顔を出し、木下の様子を見るなり言った。

「そういうのが一番効く。言え」

 木下は真壁と松本の顔を見比べ、それから一気に喋った。

「九条先生、港のほうで何回か見かけられてます。胃薬と制酸剤をまとめて買ってた話。透明な小袋みたいなの持ってたって話。防水チャック袋と熱圧着フィルム、ラミネート資材を外で買ってたって話。あと食堂で最近あまり食べてなかったって。昨日話した通り、私も九条先生が亡くなる前日の昼、見ましたし」

「味噌汁の話か」

「ええ、そうです」

 真壁は途中から、もう苛立っては聞いていなかった。机に伏せたレシートへ視線が戻る。

 松本が先に反応した。

「順番に言え。港、胃薬、制酸剤、小袋、防水袋、フィルム、ラミネート、食事量低下。以上か」

「はい。これでだいぶ九条先生の行動が読めます」

「でかしたぞ、木下」

 松本は木下のメモを受け取り、真壁の机に伏せられた明細へ目を向けた。

「おい」

 真壁は黙ってレシートを表に返した。木下が覗き込み、声を失う。

「同じだ……」

 制酸剤、胃腸薬、防水チャック袋、熱圧着フィルム、ラミネートパウチ、細い油性ペン。

 小さな断片が、ようやく一つの机の上に乗った。誰もすぐには喋らない。喋れば形が固まる。その形をまだ受け止めたくないのは、真壁だけではない気がした。

 木下が恐る恐る言う。

「これ、九条先生、準備をしていたってことですよね……」

 真壁は答えなかった。松本が代わりに言う。

「まだそこは言うな」

「すみません」

「謝るな」

 木下は黙った。空気を読むことだけは早い。

 真壁はレシートの一番下にあった油性ペンの品番を見つめた。細字。耐水性。黒。九条らしいと思ってしまう。余計な装飾を嫌い、必要な機能だけ選ぶ。

 松本が低く言った。

「胃薬だけなら体調不良で済む。防水袋だけなら癖で済む。ラミネートだけなら仕事の都合で済む」

 真壁は黙って聞いた。

「だが、全部が同じ時期に並ぶと意味が変わる」

 木下が小さく息を呑む。

「胃の中のメッセージの準備をしていた、ってことですよね」

 今度は誰もすぐには止めなかった。止めなくても、その言葉が机の上へ落ちてしまったからだ。

 真壁は明細の端に指を置いたまま、ゆっくり言った。

「まだ断定はしない」

 声が少し低かった。

「でも、可能性としては一番強い」

 木下はもう一度レシートを見る。日付の並び。店の場所。品目。自分が拾ってきた雑談の断片が、紙の上で急に重くなったのが分かる顔だった。

 真壁はそこで、急に昔の別件の現場を思い出した。誤認逮捕に近い案件だった。被疑者は自白しかけていた。現場は真壁に数字を求め、上は早く終わらせたがっていた。だが九条の解剖所見が時間のズレを持ってきた。傷の反応、胃内容、皮下出血の性状。身体の事実が、真壁の見立てをひっくり返した。

 その時、真壁は初めて知った。死体が嘘をつかないのではない。嘘をつかせようとする側がいる中で、身体だけが別の事実を持ちこたえるのだと。

 あの時、真壁は救われた。だから今、九条自身が身体を使って何かを残そうとしていた可能性は、推理の興奮では受け止められなかった。もっと個人的で、遅れてくる痛みだった。

 あいつは、自分の身体まで証拠にしたのか。

 真壁はその考えを途中で止めた。言葉にすると、もう戻れない気がしたからだ。

 だが机の上の紙は止まらない。制酸剤。胃腸薬。防水袋。熱圧着フィルム。ラミネート。耐水性の細字ペン。そこに木下の拾ってきた食事量低下が重なる。胃を空ける。刺激を抑える。小さく包む。水分から守る。書く。封じる。順番が出来てしまう。

 真壁は椅子から立ち上がった。

「松本警部」

「何だ」

「港湾補助便の枝番と、この購入日の照合を頼みます」

「やってる」

「木下は、港側の目撃をもう一度。聞き込みじゃなくていい。誰が何を見たかだけ拾え」

「はい」

「食堂の件も時期を絞れ。いつから減ったか、何を避けてたか、飲み物だけの日があったかも確認しろ」

「はい」

「あと、薬の購入店ももう一回。制酸剤と胃薬が同じ日か、別日か。まとめ買いか、段階的か」

「分かりました」

 木下はすぐメモを書き直した。推理ではなく作業として渡されると、むしろ落ち着く顔をする。

 真壁は明細を封筒へ戻しかけて、やめた。戻すと見えなくなる。今はまだ机の上に出しておきたかった。見ていたくないのに、隠したくもなかった。

      *

 午前一時を過ぎた頃、四人は庁舎の端にある小さな打ち合わせスペースへ集まった。自販機の光がガラスに反射し、使われていない机が薄く白んでいる。

 真壁、松本、木下、二階堂。全員が疲れていた。疲れている人間同士の会話は短い。

 真壁がまず、拘置所死亡案件の搬送ログと港湾補助便記録の照合結果を机へ並べた。枝番の一致。偏り。通常案件には出ず、拘置所内死亡や留置・収容下死亡の周辺日にだけ繰り返される不自然さ。

 二階堂は紙を見下ろし、代わりに自分の持ってきた会見録と初報記事の時刻一覧を横へ置く。

「こっちは広報と記事の距離が近すぎる案件」

 松本が眉を上げる。

「近すぎる?」

「初報記事の骨格が、広報文言より先に出来てる。偶然にしては整いすぎてる」

「つまり、流れてた」

「そういうことになる」

 二階堂の声はいつもより低かった。だが、それを隠す気配はなかった。

 木下は最初黙っていたが、真壁に促されてメモを開示する。

 真壁はそこで私費購入履歴を出した。

 二階堂の目が一瞬だけ鋭くなった。

「何だよ、これ」

 真壁は答えない。代わりに松本が言った。

「まだ一本じゃない」

「でも寄ってる」

 二階堂の言い方には感情より先に、職業的な鋭さがあった。

「港。拘置所死亡案件。補助便。広報前の記事。胃薬。防水。ラミネート。寄りすぎだろ」

「寄りすぎてるからこそ、一気に決めるな」

 松本が返す。

「一本に見える時ほど、まだ混線してる」

 二階堂は椅子に深く腰を預けた。

「見えてきたな」

 その言葉は誰に向けたものでもなかった。だが全員が聞いた。

 木下が口を開く。

「九条先生、死ぬ前から準備しています」

 真壁は顔を上げなかった。

 二階堂がすぐに続ける。

「死ぬつもりだった、って意味じゃない」

 それは誰に対する訂正でもあり、自分に対する拒絶でもあった。

「でも、死ぬ可能性まで入れてたなら」

 その先は、誰も継がなかった。

 自販機のモーター音が妙に大きい。

 松本が紙を揃えた。

「構造だな」

 静かな断定だった。

「犯人が個人でも、本体はそっちじゃない。拘置所死亡案件の処理、港の補助便、情報の流れ。別々に見れば見落とす。重ねた時だけ形になる」

 二階堂は机に肘をつき、指先でこめかみを押した。

「俺はその情報の流れを触ってた」

 木下が思わず顔を上げる。二階堂は気にしない。

「文言を整えてた」

「おまえが作ったわけじゃない」

 真壁が初めて口を開いた。

「だが、触ってた」

「触ってたのはみんな同じだ」

 松本が言う。

「現場も、医務院も、広報も、搬送も。誰か一人で出来る流れじゃない」

 二階堂はその言葉に少しだけ救われた顔をしたが、すぐ消えた。

「だから何だ。全員が少しずつ触ってたなら、逆に誰も止められない」

 真壁はそこで、ようやく視線を上げた。

「止めようとしたのが九条だ」

 言ってから、胸の奥がわずかに軋んだ。九条を主語にすると、その不在が急に現実になる。

「港のルートに触れた。拘置所死亡案件と補助便が繋がってると気づいた」

「広報の流れも見てたかもしれない。だから殺された」

「それだけか」

 二階堂の問いは鋭かった。

「それだけじゃない顔してるぞ、おまえ」

 真壁は沈黙した。木下が息を殺すのが分かる。松本は黙っている。

 真壁は明細の上に指を置いた。否定はしなかった。

 その沈黙が、ほとんど答えになった。

「九条は、自分が死ぬ可能性まで計算に入れてた」

 言い切った瞬間、言葉の重さが遅れて落ちてきた。

 木下が黙る。二階堂も何も言わない。松本だけが視線を逸らさず、机上の紙を見ている。

 その一文を口にした時、真壁は初めて本当の意味で内側を抉られる感じがした。九条は絶望していたわけではない。投げていたわけでもない。むしろ逆だった。現実的すぎるほど現実的に、自分が殺される可能性まで職務の中に入れていた。

 あいつはそこまで一人で行っていた。

 松本がそこでようやく言った。

「食事量低下の意味が加わったな」

「はい」

「スペースの問題だけじゃない。一度飲んだラミネート片が戻らないようにした」

 木下の顔色が少し変わる。そこまで具体的に想像してしまった顔だった。

「吐かされるところまで考えてたんですか」

 真壁は少し間を置いた。

「たぶん、考えてた」

 その答えに、自販機の低い駆動音だけが重なる。

 九条は劇的に備えたのではない。必要なものを、必要な順に揃えただけだ。

 松本が資料の束を整えながら言う。

「ここで大事なのは、九条が何を見つけたかと同じくらい、何を恐れたかだ」

 真壁は顔を上げた。

「奪われること、ですか」

「違う。消されることだ」

 松本の声は静かだった。

「見つけた事実そのものより、見つけた事実が処理の流れに回収されることを恐れた。だから流れの外に置かなきゃいけなかった」

 二階堂が口の中だけで短く笑う。

「ひどい話だな」

「ひどい」

 真壁は答えた。

「でも、あいつならやる」

 その言葉は、信頼なのか怒りなのか、自分でも分からなかった。

 松本が話を前へ進めた。

「次だ。準備の事実が見えてきたなら、あとは中身だ」

「何を封じたか」

 二階堂が言う。

「そうだ」

 松本が頷く。

「港のルート、拘置所死亡案件、補助便。これらが示すその奥にあるもの」

 木下がメモしながら言う。

「洗います」

「頼む」

 二階堂が会見録をまとめながら言う。

「広報と記事の線は俺が続ける。九条が見てた構造に触るには、そこも外せない」

 松本が短く頷く。

「それでいい。今夜は線を太くする」

 机の上には、四人が別々の場所から拾ってきた断片が並んでいる。拘置所死亡案件の搬送ログのズレ。港湾補助便の枝番。広報発表と初報記事の異様な近さ。港での目撃。胃薬。制酸剤。防水袋。ラミネート。食事量低下。

 まだ一本ではない。だが、全部が同じ方角へ傾いている。誰か一人の悪意だけでは作れない流れ。その流れに触れた九条は、死ぬ可能性まで計算の中へ入れた。

 二階堂が最後に低く言った。

「情報の流れを握れるやつがいる」

 誰のことを言っているのか、名指しはしなかった。だが、その目の鋭さだけで十分だった。

 真壁は答えないまま、品目名の列を見つめ続けた。

 九条雅紀は、死ぬことで何かを残したのではない。死ぬつもりだったのでもない。死ぬ可能性に備えたのだ。

 その確信が、今夜初めて、血の気の引く静けさで真壁の中に降りた。

     *

 本郷が自宅へ戻った時には、もう日付が変わっていた。

 玄関の照明は人感式で、扉を閉めると遅れて消える。誰も待っていない家の明かりは、点く時より消える時のほうがよく目につく。靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。どれも毎日同じ動作のはずなのに、その夜はひとつひとつが妙に重かった。

 ダイニングの椅子に腰を下ろし、本郷剛史はしばらくそのまま動かなかった。冷蔵庫の低い音だけが台所の奥で鳴っている。時計の針が進む音はしない。ずっと前に電池を替えるのをやめた壁時計が、十時十三分を指したまま止まっていた。

 テーブルの端には、古い湯呑みが二つ並んでいる。片方はもう使っていない。捨てる理由もなく、かといって使う相手もいないから、ただそこに残っている。

 本郷は戸棚からウイスキーを出し、氷も入れずに少しだけグラスへ注いだ。一口飲む。喉が焼けるほどではない。むしろ薄く感じた。その薄さが嫌で、もう一口飲む。それでも足りなかった。

「……雅紀」

 声に出した瞬間、自分で少し驚いた。

 医務院では九条と呼ぶ。公の場ではそうする。呼び捨てにすることもない。必要な時は九条君、あるいは九条先生だ。だがこの家で思い出す時だけは、どうしても名前が先に出た。

 雅紀。

 あの男が初めて医務院へ来た頃、本郷はまだ解剖の主担当だった。若い医師は何人もいたが、最初に刃の向こう側を怖がらなかったのが九条だった。平気だったわけではない。ただ、怖がっていることを仕事の外へ逃がさなかった。手元に落とした。そこが違った。

 一年前の春、本郷は解剖の主担当を九条へ譲った。

 正式な会議では、年齢、体力、当直負担、後進育成、いくらでもそれらしい理由を並べた。どれも嘘ではない。だが本当の理由はもっと単純だった。九条のほうが、もう先に見えていたからだ。

「後釜はお前だよ」

 あの日、本郷は解剖室の準備台の横でそう言った。九条は手袋の箱を棚へ戻しながら、少しだけ眉を寄せた。

「まだ早いでしょう」

「早くない」

「副院長がやればいい」

「肩書きで腹は開けられん」

 本郷がそう言うと、九条は黙った。

 あれは照れていたのではない。引き受ける重さを量っていたのだと、本郷はあとで思った。自信がないわけでも、謙遜しているわけでもない。ただ、役割の重さだけは軽く扱わない。そこが雅紀らしかった。

「お前ならできる」

 本郷はあの時、たしかにそう言った。

「出来るから言ってる」

 九条は少しだけ視線を落として、それから短く頷いた。

「分かりました」

 それだけだった。嬉しそうにも見せない。だが、その返事のあとの動きが少しだけ静かになったのを、本郷は見ていた。

 あれから一年。今は九条が主担当で、本郷が補助に回ることのほうが多かった。解剖室の中心にいる白衣は、もう自分ではなく九条のほうが似合っていた。悔しさがなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に安堵があった。自分がいなくなっても、あそこは持つ。そう思えたのは、九条が初めてだった。

 本郷はグラスを置き、目を閉じた。

「俺にもな、お前と同じくらいの息子がいたんだ」

 言ってから、誰に向かって話しているのか分からなくなる。九条に話しているようで、もうこの家には誰もいない。

 それでも言葉は止まらなかった。

「腎臓が悪かった。生まれつきな。俺も家内も合わなかった」

 その頃の記憶は、細部だけがやけに鮮明だ。病室の白いカーテン。ベッド柵の冷たさ。水を制限された子どもの唇の乾き。頑張れとは言えなかった。医者の言葉と父親の言葉が、いつも途中でぶつかった。

「今は墓の中だ」

 その一言は、思ったより軽く口から出た。何度も自分の中で繰り返しすぎて、重みだけが先に擦り切れてしまったのかもしれない。

「家内は、あいつが死んだ翌年に後を追うみたいに死んでしまったよ」

 病名は別だった。だが本郷にはずっと、あれは病気だけではないと思えている。人は、失った場所に長く立ち続けると、身体のほうが先に諦めることがある。

 雅紀は、その話を一度だけ聞いたことがある。

 珍しく解剖が長引いた夜だった。解剖室の片づけが終わり、二人で自販機のぬるいコーヒーを飲んでいた時、本郷は何の前触れもなくその話をした。自分でもなぜその夜だったのか分からない。ただ、黙って隣に立っていた九条の横顔が、妙に若かったからかもしれない。

「俺にもお前と同じくらいの息子がいてな」

 そう言うと、九条はすぐには何も返さなかった。

 軽い相槌も打たない。続きを待つ時の九条は、いつもそうだった。余計に慰めず、話す側が自分の速度で言葉を出せるように黙る。

 本郷が腎臓のことを話し、適合しなかったことを話し、墓のことを話し、家内のことを話し終えたあとで、九条はようやく低く言った。

「そうでしたか」

 たったそれだけだった。

 だが、本郷にはその返しがありがたかった。分かったふうな顔をされるより、何倍もよかった。分からないものは分からないまま受け取る、その不器用な正確さが、あの男にはあった。

 本郷はそこで、グラスを持つ手を止めた。

「一年ぶりの解剖は堪えたぞ。雅紀……」

 夜の静かな家でその名を呼ぶと、ようやく目の奥に熱が集まってくるのが分かった。本郷は片手で目頭を押さえた。泣くつもりではない。ただ、そこを押さえないと何かが崩れそうだった。

 解剖台の灯りの下で、久しぶりに主担当として立った時、自分の手が思ったより重かったことを本郷は思い出していた。切開の位置も、器具の重さも、手順も、身体はまだ覚えていた。覚えていたからこそ堪えた。隣に立つはずの男がいないという、その一点だけを身体が何度も探してしまったからだ。

 雅紀なら、ここでこう言う。

 雅紀なら、先にそこを見る。

 雅紀なら、無駄な言葉を足さない。

 そういう小さな空白が、刃を入れるたびに指先へ戻ってきた。

 本郷は目頭を押さえたまま、しばらく動かなかった。

 家は静かだった。医務院の白い廊下より、解剖室より、ずっと静かだ。その静けさの中でだけ、本郷は自分が九条をどれほどかわいがっていたのか、ようやく認めざるを得なかった。

 息子のように、という言い方はたぶん正確ではない。息子の代わりではないし、失ったものの埋め合わせでもない。だが、あの若い法医が解剖台の前に立つ後ろ姿を見るたび、本郷の中のどこかが、少しだけ救われていたのは事実だった。

 夜はまだ更けていく。

 止まったままの時計の針だけが、変わらず十時十三分を指していた。


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