第七章 広報として守る
広報課の朝は、事件の翌日でも机の並びを変えない。電話の赤いランプだけがいつもより早く点き、まだ誰も触れていない新聞が、九条雅紀の名前を紙面の端で静かに広げていた。
午前七時半の広報室は、本来なら始業前の薄い静けさを残している時間だ。だがその朝だけは違った。机の上のモニターがいくつも光り、若い職員が二人、画面を見ながら声を潜めて話している。誰も大声は出していない。だが、静かな焦りだけが部屋のあちこちへ広がっていた。
「二階堂主任」
気づいた一人がすぐ立ち上がった。
「九条先生の件、かなりまずいです」
「何が」
「個人情報です。名前と所属だけじゃなく、大学時代の写真まで上がってます。卒業アルバムっぽいのとか、医務院のサイトから抜いた写真とか」
「どこだ」
「まとめサイトとSNSです。あと匿名掲示板の転載。医務院の名簿を抜いたみたいな投稿もあります」
もう一人が別の画面を指した。
「“若き監察医惨殺”“港湾倉庫で死亡”“血文字の相手は誰だ”って形で拡散してます。“血文字のまは真壁のまでは”ってまとめも伸びてます」
「それだけじゃなくて」
最初の職員が言葉を継いだ。
「女性関係とか、港湾関係とか、内部告発とか、いろいろ勝手に混ぜられてます。“正義感が強すぎて消された”“いや痴情説だ”とか、もう滅茶苦茶です」
別の机で電話を取っていた女性職員が受話器を押さえて振り向いた。
「主任、週刊誌系です。被害者の交際関係と、真壁警部補との私的関係について確認したいと」
「断れ」
二階堂は画面を一瞥した。投稿の流れは早い。断片的な事実と、まったくの憶測が同じ速度で並んでいる。九条雅紀という人間が、死体より先に素材へ解体されていく。顔。年齢。経歴。噂。血。文字。港。どれも、まだ何一つ確定していないのに、確定している顔で流れていく。
広報室の蛍光灯は白かった。だが画面の光はもっと浅く、もっと軽い。軽い光の下で人はすぐ人間を食べる。二階堂はそのことを、仕事として嫌というほど知っていた。
「削除要請」
短く言う。
「個人情報の該当投稿は全部拾え。大学名、卒業写真、住所推測、家族情報、医務院名簿らしき断片、全部だ。媒体ごとに危険性を書け」
「はい」
「記者クラブ向けに注意喚起を回す。被害者の私生活に関する未確認情報は拾うな。医務院への照会窓口は一本化。関係者への直接取材は断れ」
「医務院にも連絡ですね」
「すぐ入れろ。担当部署の広報に繋いで、職員名簿と当直表の扱いを再確認させる。関係者への直通照会は全部こっちへ寄こせ」
若い職員がメモを取りながら顔を上げた。
「SNS監視班にも共有しますか」
「する。“血文字”“体内異物”“港湾”“真壁”で監視ワードを増やせ。伸びてる投稿から先に潰す」
言い終えたところで、女性職員がまだ受話器を押さえたまま言った。
「主任、どう答えます。かなり食いついてます」
「繋げ」
受話器を取る。
「警察広報の二階堂です」
『朝早くに失礼します。被害者の交際歴について確認したいのですが』
「確認されていない私生活情報には回答しません」
『ただ、女性関係のもつれを指摘する投稿が相当数あります。港湾倉庫付近で会っていた女性がいたという話も』
「未確認情報です」
『真壁警部補と被害者の私的関係は』
「個別職員の私的関係には答えません」
『では、その種の関係性が動機に関与した可能性は』
「可能性の列挙には応じません」
短く切って受話器を置く。
そのやり取りを聞いていた若い職員が、少しだけ困った顔をした。
「主任、かなり強めに切りましたね」
「切らないと増える」
「でも、止めすぎると逆に“何かある”って言われます」
二階堂は一拍だけ考えた。
「言わせとけ。今は燃やすな」
職員たちが一瞬だけ黙った。傍から見れば、自分に不利なものを消しているようにも見えるだろうと、二階堂自身も分かっていた。だが、それでも今は止めなければならない。
職員が削除依頼文を打ち始め、別の職員が記者クラブ宛ての文案を開く。キーボードの音が急に強くなり、空調の低い唸りがその下へ沈む。
「文言を整理する」
二階堂は自分の机へ戻り、ノートパソコンを開いた。
「“血文字”は断定させるな。“判読可能な文字と確認された事実はない”で止める。“ダイイングメッセージ”という単語は使うな。“体内異物”にも触れるな」
若い職員が顔を上げた。
「異物、もう出てるんですか」
「問い合わせがありました。地方紙から、“死者からのメッセージとして体内異物が回収されたという話は事実か”って」
二階堂はキーボードから指を離した。
「そこまで漏れてるのか」
思わずそう言っていた。
九条の死はまだ解剖台の白さの上にあるはずなのに、もう外では“証拠を飲み込んだ若き監察医”として語られ始めている。常軌を逸した最期。警察は隠蔽か。死者からのメッセージ。そういう見出しが、いまこの瞬間にも作られているのだろう。
モニターの一つに、新しい投稿が流れた。
〈死者からのメッセージ〉
〈若き監察医、証拠を飲み込んでいた?〉
〈常軌を逸した最期〉
〈警察は内容を隠蔽か?〉
どれも短い。短いのに、人一人を雑に使うには十分な長さだった。
九条は、そんなふうに食われるために死んだわけではない。
その当たり前のことが、広報室の青白い光の中では、ひどく遠く見えた。
「主任」
別の内線が鳴る。
「全国紙です。かなり大手です」
「繋げ」
受話器を取る。
「警察広報の二階堂です」
『確認です。現場に残された血痕について、何らかの意思表示の可能性はありますか』
「現時点で断定できる事実はありません」
『港湾倉庫との関連は』
「捜査中の個別事項です」
『被害者は過去の拘置所内死亡案件に関心を持っていたという話がありますが』
「確認中です」
『被害者は内部告発をしようとしていたのでは、という見方も出ています』
「根拠の確認されていない見方についてコメントはしません」
『正義感の強い監察医だったと聞きます。職務に起因する危険に巻き込まれた可能性は』
「被害者像を現時点で一つの方向へ固定することはしません」
受話器を置くと、若い職員が感心したように言った。
「今の、きれいでしたね」
「何が」
「被害者像を固定しない、って返し方です。美談にも噂にも乗らないで」
二階堂は苦笑しかけてやめた。きれいな返し方ほど人を死後に処理する。そのことを、広報にいる人間は知っている。
メールの受信音が続けて鳴る。テレビ局、地方紙、通信社、週刊誌。件名の並びだけで質問の種類が分かる。
【血痕の形状について】
【被害者の人物像について】
【港湾倉庫との接点について】
【私生活上のトラブルの有無】
【真壁警部補との関係】
二階堂は一つずつ開いた。文面は違う。だが欲しがっているものは同じだ。九条雅紀という死を、一番食べやすい形へ翻訳したいのだ。英雄でもいい。恋愛でもいい。怨恨でもいい。陰謀でもいい。何でもいいから、人がすぐ口にできる言葉へ落としたい。
そこに、九条本人の嫌悪が浮かんだ。あの男は人を雑に話題へ乗せるのが嫌いだった。医務院の休憩室で誰かの交際の噂が出た時も、必要な返事だけして席を立つ。興味がないのではない。そこに時間を使うこと自体が、自分の職務を汚すと知っている顔だった。
だからこそ、こういう問い方をされるたびに腹が立つ。
なのに今、九条はその噂話の中心にいる。
守らなければならないのは、捜査だけではない。死者の尊厳だ。だが尊厳という語を出した瞬間、今度は“高潔な若き監察医”という消費が始まる。それも違う。美談も俗情も、どちらも死者を削る。削らないまま語る方法は、広報文書の中にはない。
「主任、会見想定、もう一段詰めますか」
女性職員が紙を持ってくる。二階堂は受け取り、赤ペンで項目を斜線に変えた。
「“血文字”は薄める。使うなら“現場痕跡の一部に関する情報”までだ。“体内異物”は出すな。“内部告発”も出すな。“私的関係”は全部保留。港湾関係の照会はこっちへ集約。記者が医務院へ直接当たる導線を切れ」
「主任」
若い職員が少し眉を寄せた。
「ここまで切ると、隠してるって取られませんか」
「取られる」
二階堂は即答した。
「でも、いまはそこを取られるほうがましだ。散らばるほうがまずい」
職員は頷いたが、完全には納得していない顔だった。無理もない。血文字関連の文言は薄める。真壁警部補との私的関係に触れる問い合わせは保留。港湾関係の照会履歴は集約。医務院関係者への直接取材は断る。広報としては火消しの基本だ。だが、その火が自分の足元まで伸びている人間がやれば、別の意味を帯びる。
電話が鳴る。今度はテレビ局だった。生放送前のディレクターらしい、急いだ息遣いが最初から乗っている。
『被害者はかなり女性から人気があったそうですが、交際トラブルの線は』
「確認されていない私生活情報で被害者像を作るのは控えてください」
『では、真壁警部補と被害者の関係は。旧知、同郷という情報があります』
「個別職員の私的情報には答えません」
『SNSでは同性間の特別な関係を示唆する投稿もあります。警察は把握していますか』
二階堂は一瞬だけ黙った。
「被害者の尊厳に関わる憶測に、警察として答えることはありません」
『否定もしない、という理解で』
「憶測への応答はしません」
そこで切った。
受話器を置くと、手のひらにうっすら汗が残っていた。職員たちは仕事を続けている。モニターに向かい、ログを打ち、削除依頼を送り、問い合わせの一覧を更新している。誰も悪くない。ここにいる人間はみな、火を消すために動いている。それでも、九条という人間は、その作業の中で少しずつ要素へ分解されていく。
血文字。
体内異物。
港湾。
旧知。
女性関係。
単語だけになった瞬間、人間はもう人間ではなくなる。
そのことが、たまらなく嫌だった。
「主任」
女性職員が紙を差し出す。
「午前の想定問答、これでいけますか」
二階堂は目を通した。
第一問、血痕が文字のように見えるとの情報について。
第二問、被害者が体内に何らかの異物を保持していたとの情報について。
第三問、港湾施設との関連について。
第四問、被害者の私生活上のトラブルについて。
第五問、警察職員との私的関係について。
第六問、過去案件との接点について。
よくまとまっている。だが、まとまっているぶんだけ九条が削られていた。死んだ人間を、世間が飲み込みやすい六項目へ割り付ける。その作業を、自分がいま監督している。
赤ペンを持つ手が、一瞬だけ止まった。
「主任?」
「……ああ」
線を引く。
「第四問と第五問は順番を後ろに回せ。先にそこへ行くと全部そっちへ持っていかれる。第一問は“断定できない”で止める。第二問は“捜査中につき回答しない”。第三問は“関連を含め確認中”。第六問も同じだ」
「殉職性の質問は入れませんか」
「入れない」
「でも来ますよね」
「来る。けど、先に用意しない」
女性職員は少しだけ不思議そうな顔をした。二階堂は説明しなかった。用意した文言は、その時点で使える見出しになる。“殉職に近い性質”“正義感の強い監察医”。そういう言葉は善意で人を薄くする。九条はきっと、そんな語で片づけられるのを嫌う。
「主任、地方局から追加です」
若い職員がメモを読む。
「被害者は内部告発をしようとしていたのではないか。正義感の強い人物だったのではないか。殉職に近い性質の事件ではないか。あと、真壁警部補との関係を背景にした怨恨の可能性はないか」
「まとめて返す」
二階堂は口頭で言った。
「現時点で特定の背景事情を示す事実は確認されていない。被害者像を一つの方向へ固定することもしない。個別職員の私的関係には答えない。以上」
職員が打ち込みながら言う。
「冷たく見えませんか」
「見えるよ」
二階堂はモニターから目を離さずに答えた。
「でも、今は温度を足すな。足した分だけ誰かが勝手に意味を付ける」
若い職員は「はい」とだけ言った。
その返事の素直さが、少し痛かった。自分はいま、若い部下に、死者へ温度を足すなと言っている。正しい。広報としては正しい。だが、職務として正しいことが、そのまま人間としてきれいとは限らない。
メールの返信を打つ。
〈個別職員の私的関係については回答しておりません〉
〈被害者の私生活に関する未確認情報にはコメントしません〉
〈現時点で特定の背景事情を示す事実は確認されていません〉
〈捜査中の個別事項については回答を差し控えます〉
短い文ばかりが増えていく。短い言葉は便利だ。切り返しとしては強い。だが強い言葉ほど、何も救わない。
「主任」
また別の内線が鳴る。
「記者クラブ、代表社からです」
「繋げ」
『確認です。血痕が“ま”と読めるという件について、警察としてどう見ていますか』
「判読可能な文字として断定できる段階ではありません」
『ただ、被害者と真壁警部補が同郷、旧知との情報が出ています』
「その件についてはコメントできません」
『港湾関係の照会を広報へ集約しているそうですが、何か隠していることがあるんですか』
「取材窓口の一本化は、関係者保護と情報の錯綜防止のためです」
『つまり、関係はある』
「そうは言っていません」
そこでようやく切れた。
受話器を置いたあと、二階堂はしばらく動かなかった。いまの返答は正しい。広報としてはほとんど満点に近い。だが、読者めいた第三者の目で見ればどう見えるかも分かる。真壁関連の問い合わせだけ返答が硬い。港湾関連をこちらへ集約させる。血文字の文言を極端に薄める。必要以上に切る。そう見えれば、二階堂自身が容疑者に見えたって不思議ではない。
そこに妙な笑いが込み上げかけて、すぐ消えた。自分が疑われること自体はどうでもいい。どうでもいいはずなのに、ひどく疲れる。九条を守るために切っているのか、自分に不利なものを消すために切っているのか、その境目が言葉の上ではほとんど同じだからだ。
モニターに流れる投稿の中に、一枚の写真が混じった。大学時代の九条らしい。白衣ではない。私服で、講義棟の前に立っている。視線が合っていないところを見ると、隠し撮りに近い画像だと推測できる。若い。いまより少しだけ輪郭が柔らかい。だが目つきはもう今の九条に近い。笑ってはいない。笑っていないのに、見る者のほうが勝手に意味をつけたくなる顔だ。
削除要請の対象だと分かっている。分かっているのに、二階堂はその画像からすぐ目を離せなかった。
死んだあとに、こんなふうに掘り返されるのか。
九条は生きているあいだ、自分のことをほとんど話さなかった。出身地も、家族のことも、大学時代のことも、誰かに聞かれれば必要な分だけ答えるが、自分から広げない。人に知られたくないというより、他人に渡して使われることに興味がない人間だった。
それが死んだ途端、全部が他人のものになる。
「主任」
女性職員が静かに言った。
「画像、落としますか」
「ああ。肖像と個人情報の侵害でまとめて行け」
職員はすぐに作業へ戻った。その背中を見ながら、二階堂は思う。落とす。消す。止める。集約する。広報の動詞は、その朝どれも暗い。
携帯が震えた。業務用だ。表示された番号は非通知。こういう時間の非通知は、だいたい良くない。
「二階堂です」
『すみません、確認だけ。被害者が胃の中に何かを隠していた、という情報は事実ですか』
「どちらですか」
『回答者の匿名性を条件に、港湾関係者から話を聞いています』
その言い方が気に障った。匿名性を条件にしているのは向こうだ。情報を餌に優位に立ちたいだけの声だった。
「確認されていない情報には答えません」
『では否定はしないと』
「憶測には答えません」
『死者からのメッセージ、という理解でよろしいですか』
「答えません」
切った。
そこまで漏れている。しかも港湾関係者の口を借りる形で。九条が港へ通っていた事実。現場が港湾倉庫付近であること。血文字めいた痕跡。真壁の名前。体内の異物。いくつもの断片が、真実の中心には届いていないのに、外形だけは一部をかすっている。
そのかすり方が、余計に厄介だった。
真壁と九条には、たしかに特別な信頼があった。だが痴情ではない。近さはある。だが、それは他人が消費できる形の近さではない。噂は全部ずれている。ずれているのに、侮辱としては刺さる。だから二階堂は余計に腹が立った。何も分かっていない連中が、分かっていないまま、九条を壊していく。
しかも真壁と九条の関係は、自分が入れなかった速度の話だ。
それを外から雑な関係性へ落とされるのが、耐えがたかった。
そして、その壊れ方を一番近くで見ているのが自分だ。
広報室の時計は、始業一時間前を指している。職員の一人が紙コップのインスタントスープを机に置いた。誰かが給湯室を使い、安いコンソメの匂いが一瞬だけ漂う。こういう早朝の庁舎の匂いが、二階堂は昔から嫌いではなかった。誰も少し疲れていて、それでも手は止まらない。仕事だけが人間を前へ押す。感情は後ろから遅れてくる。
今朝もそうだと思っていた。だが遅れてくるはずの感情が、いつまでも追いついてこない。代わりにあるのは、九条を語るたびに削っているという手触りだけだった。
守るための広報。
傷を広げないための広報。
捜査を邪魔させないための広報。
全部ほんとうだ。だが同時に、被害者を“処理可能な形”へ整える作業でもある。書きすぎれば燃える。語れば削れる。語らなければもっと雑に食われる。正解がない。なのに、そのなかで最も傷の浅い言葉を選び続けるのが、自分の仕事だ。
真壁には別の苦しさがあるのだろう。受け取る側の苦しさ。九条が残したものを、辿らされる苦しさ。二階堂にはそれがない。代わりにあるのは、九条を言葉へ切り分ける苦しさだ。比べる話ではない。ただ役割が違う。そして、その違いが妙に苦かった。
「主任、昨日寝ましたか?」
女性職員が言った。
「顔色よくないです」
「大丈夫」
「コーヒー淹れます」
「いらない」
言ってから、少しだけ悪かったと思った。口調が硬い。だが謝らなかった。謝ると、今度は余計な気遣いが増える。
職員は黙って自分の席へ戻った。気まずさをごまかすように、キーボードの音が少しだけ強くなる。
二階堂は椅子にもたれ、天井を見た。九条が昔、解剖室の片隅でふと口にしたことがある。
――胃は、空けておいた方がいい時があります。
あの時は、ただの職業的な冗談だと思った。だが今は違う意味で耳に残る。腹部への執拗な暴行。体内から異物が検出されたとの問い合わせ。何かを、飲み込んだ。そして誰かが、それを吐かせようとした。
真壁は今、その何かへ触れている。
そして自分は触れていない。
それでいいのだろう、と二階堂は思った。
九条が誰かに託すなら、真壁だ。
九条が誰かを外に置くなら、自分だ。
順番としては、きれいすぎるほどきれいだった。
だが、そのきれいさが腹立たしい。自分が広報としてここにいること、真壁が捜査側として受け取ること、九条がそれを見越していたかもしれないこと。全部が役割として美しくはまりすぎている。人間の感情には無神経なくせに、構造としては正しい。九条はそういう嫌な賢さを持っていた。
もしあいつが、そこまで読んでいたとしても。
それでも、いま自分に出来ることは一つしかない。
九条を雑に食わせないことだ。
自分が受け取る側ではなくても、それだけは出来る。いや、語る側にいるからこそ、それだけは出来る。
画面の投稿がまた流れる。
〈血文字の意味〉
〈真壁警部補説〉
〈医務院内部説〉
〈港湾ルートとの接点〉
〈死者からのメッセージ〉
〈警察は何を隠している〉
二階堂はマウスを動かし、その窓を閉じた。閉じたところで消えたわけではない。ただ視界から外れただけだ。それもまた、広報の仕事に少し似ていた。消せるものは少ない。大半は、見える位置からずらすだけだ。
「主任、最後にこれだけ確認を」
女性職員がメモを持ってきた。
「午前以降、医務院関係の照会履歴は全部こちらで管理。港湾関係も同じ。真壁警部補関連は個別回答せず、統一文言で処理。血文字関連の問い合わせは断定回避。これで回します」
二階堂はメモを受け取り、数秒見たあと頷いた。
「それでいい」
「了解です」
職員が戻っていく。たったそれだけの確認に、奇妙な疲労があった。守るために切る。切るために整える。整えるほど、九条が“広報案件”になる。
九条はそんなふうに扱われることを望まなかったはずだ。だが望む望まないでは済まない。死んだあとも、社会は人を処理する。見出しで、会見で、統一文言で。二階堂はその工程の真ん中にいる。
それでも、雑に食わせるよりはましだと思うしかなかった。
広報室の外の廊下は静かだった。朝が進むと、庁舎は人より機械の音が先に満ちる。プリンターの排紙音、空調の低い唸り、遠くのエレベーターの開閉。誰かがもう起きて働いている気配だけが、壁の向こうに薄く残る。
二階堂はスマートフォンをもう一度見た。真壁からの返信は増えていない。
後で話す。
たったそれだけの言葉が、昨日よりも少し違って見えた。外された、という痛みはまだある。あるが、それだけではなかった。真壁には受け取る順番があり、自分には語る順番がある。その違いが、ようやく少しだけ骨の位置へ落ちた。
だからといって納得はしない。納得する話ではない。自分は外にいるし、真壁は中にいる。九条が最後にどちらを選んだかも、ほとんど答えは出ている。分かっている。それでも腹は立つし、悔しい。
だが今朝の二階堂は、もうそれを嫉妬だけで片づけられなかった。
九条を語らなければならない屈辱。
語れば語るほど九条が削られる苦さ。
守るための広報が、同時に九条を処理してしまう自己嫌悪。
それでも自分がやるしかないという職務感。
真壁への感情も、もう単純な敵意ではなかった。うらやましいのではない。役割が違う。その違いが苦いのだ。受け取る役と、語って薄める役。どちらも楽ではない。だが、薄める役のほうが少しだけ惨めだと、その朝の二階堂は思った。
それでも、九条を守る側に立つのはこっちだ。
少なくとも今は、それでよかった。
「主任」
若い職員が、帰り際ではなく交代前のような声で言った。
「もう少しで一巡します。あとは監視だけです」
「分かった」
「主任はどうします」
「残る」
職員は頷いた。止めなかった。止めても無駄だと分かっているのだろう。
広報室のモニターは相変わらず青白かった。そこに映る九条は、どれも九条ではなかった。若き監察医。正義感の強い人物。血文字を残した被害者。真壁警部補と関係のあった男。証拠を飲み込んだ異常な死者。どれも一部をなぞっている。だが全部違う。全部違うまま、どれも拡散する。
二階堂はその青白い光の中で、ふと確かなことを一つだけ思った。
今日もまた、自分は立つ。
電話を取り、文言を切り、削除を回し、記者に答え、九条を雑に食わせないために、別の雑さへ整える。
たぶんそれしかできない。
だが今、その“それしかできない”は、逃げではなかった。
自分は選ばれなかったのかもしれない。だとしても、ここで九条を守る手段はまだ自分の手の中にある。完璧には守れない。削らずに守る方法もない。それでも、何もしないよりはずっとましだ。
机の上の想定問答を裏返す。そこに書かれた短い言葉の列を、今は見たくなかった。見なくても、数時間後にはまた使う。使ってしまう。そのことを知っている。
広報室のガラスに、自分の顔が薄く映っていた。疲れている。少し険しい。だが、それだけだった。犯人の顔ではない。善人の顔でもない。ただ、職務に押し込められた顔だと思った。
それでも、その顔のまま九条を守るしかない。
二階堂は小さく息を吐いた。
嫌な役だな、と思う。
けれど、その嫌さごと引き受けなければ、九条はもっと雑に食われる。
青白いモニターの光の中で、二階堂はもう一度だけ画面を閉じた。消したわけではない。ただ、これ以上、あの顔を素材として眺めたくなかった。
今日も、また守る。
削りながらでも守る。
それがいま、自分に出来る一歩だった。




