第六章 嫉妬と羨望
二階堂壮也は、自分がいま腹を立てている理由を、ちゃんと知っていた。
だから余計に始末が悪かった。
スマートフォンの画面には、真壁からの返信が一行だけ残っている。
後で話す
拒絶ではない。突き放した文でもない。だが、今この瞬間には何も渡さないという意味だけは、いやにはっきりしていた。
腹が立つ。
その短さに腹が立つ。内容がないことに腹が立つ。自分が外に置かれていることを、言葉の長さだけで悟らされることにも腹が立つ。そして次に、そんなことで腹を立てている自分にも腹が立った。
子どもかよ、と思う。
思うのに、そこで冷めない。むしろ自覚したぶんだけ熱が芯へ落ちる。
二階堂はそういう自分をよく知っていた。怒鳴るほうが楽だ。だが本当に厄介なのは、怒鳴らないまま頭のいい部分だけが先に働く時だ。いまがそうだった。
情報の中身より、情報の配られ方が気になる。誰に先に行ったか。誰にだけ行かなかったか。誰が知っていて、誰が知らない顔をしているか。二階堂は、そういう温度差を読むのが得意だった。得意だから、嫌でも分かってしまう。真壁は何かを抱えている。しかも、今の段階では自分に言わないと決めている。
廊下の自販機の前で足を止め、缶コーヒーのボタンを押した。落ちてきた缶は温かかった。プルタブを開けて一口飲む。苦い。甘い。温度も分かる。だがそれだけだった。落ち着くために飲んだはずなのに、喉を通ったあとに残るのは、自分の内側がますます忙しいという感覚だけだった。
こういう時間は、誰かと食べる約束が流れた夜ほど目立つ。
二階堂は一人で食べること自体が嫌いなわけではない。コンビニの弁当だって食えるし、深夜の牛丼屋にも入れる。だが、好きではない。食卓は、腹を満たす場所というより、自分の席があることを確認する場所だったからだ。
家にはいつも誰かがいた。
両親、祖父母、姉が三人。十八までいた家は、とにかく人数が多かった。誰かが帰ってきて、誰かが風呂へ入り、誰かがテレビの音量を上げ、誰かが台所で皿を鳴らす。夕食の時間ともなれば、食卓は最初から少し狭い。鍋が真ん中にあり、皿が寄せられ、誰かが「それ取って」と言う。自分の話を最後まで聞かれないことも普通にある。それでも席だけはある。座る場所があり、箸と茶碗があり、「おかわりいる?」と誰かが言う。席があること自体を疑わずに済む場所だった。
大学で家を出て、一人暮らしを始めた最初の夜、二階堂は妙に腹が減らなかった。スーパーで買った惣菜を並べても、食べる気になれなかった。自分の前に置かれた皿が、自分のためだけに静かすぎたからだ。そこには誰の肘も当たらないし、鍋の湯気で眼鏡が曇ることもない。自分がいることを、ほかの誰の気配も保証してくれない。
その感覚だけが、ずっと残った。
だから二階堂は、人と食べるのが好きだ。向かいに人がいて、箸の音や会話の切れ目があって、自分の席がそこに一つ含まれている状態が好きだった。
もちろん、誰でもいいわけではない。
ここが自分のいやなところだと、二階堂は分かっている。頭のいい相手が好きだった。会話の速度が合う相手がいい。言葉の省略が通じる相手がいい。何か一つ言えば三つ返してくる人間、あるいは三つのうち一つだけ拾って、あとの二つは黙って捨てる人間。そういう相手と食うと楽しい。逆に、話が遅い相手、肩書きだけでこちらを測ってくる相手とはすぐに飽きる。
冷たい見方だと思う。だが、それ以外の見方を最初から持っていたわけでもない。
三年前、医務院に若い監察医が来たと聞いた時も、最初に動いた理由は単純だった。若い医者なら、たぶん頭がいい。だったら一回くらい飯を食ってもいい。そう思った。
廊下で初めて見た九条雅紀は、いかにも近寄りにくそうな男だった。背が高く、白衣の中身まで整って見えた。髪は程よく長く、姿勢は余計な力が抜けていて、何より生活感が薄い。冷たそうだと思ったし、実際、初対面で距離を詰めてくる種類ではなかった。だが話してみると、感じが悪いわけではない。必要なことはちゃんと返す。ただ、近づける前に一枚だけ薄い膜を挟む。そんな印象だった。
「今度、飯でもどう?」
気軽に誘ったつもりだった。断られても傷にならない程度の軽さで。だが九条の返しは、その軽さより一段だけ丁寧だった。
「すみません。最近、少し立て込んでいて」
断り文句としては何も悪くない。露骨に嫌な顔もされていない。声も柔らかい。なのに妙に残った。こちらの顔を立てたまま、自分の距離は少しも譲らない。そういう断り方だったからだ。
その時はそこで終わった。
二年前、今度は警察庁から同い年のキャリアが来た。真壁彰。肩書きだけで言えば、最初から近寄るのが面倒な相手だった。だが、それでも二階堂は誘った。どうせ頭はいいだろうと思ったからだ。会ってみた真壁は、予想より静かな男だった。こちらの話は聞くが、自分のほうから余分に何かを出してはこない。
「今度、時間ある時に飯でも」
真壁もまた、やんわり断った。
「すみません。ちょっと用事があって」
嘘ではない、と思った。けれど説明もしない。必要以上を開示せず、相手を不快にさせない範囲で自分の線を守る。その感じが、九条と少し似ていた。
その夜、二階堂は広報の若手と居酒屋で軽く飲み、駅へ向かっていた。改札前の雑踏の向こう、背の高い男が二人並んで歩いていた。真壁と九条だと分かるまで、一秒もかからなかった。
会話の内容は聞こえない。
なのに分かってしまった。あいつらは、自分の入れない速度で話している。歩くテンポ、視線の渡し方、沈黙の使い方が、もう出来上がっている感じだった。
なんだよ、と思った。
俺の誘いは断ったくせに。
その一文が浮かんだ瞬間、自分がひどく幼いと分かった。分かったのに消えなかった。あいつらは、互いに選んでいる。能力でも肩書きでもなく、もっと前からある何かで。それが腹立たしかった。
後で幼馴染だと知った時、意外ではなかった。むしろ、やっぱりそうかと思った。たまに出るのだ。そういう断片が。
「お前、トウモロコシ駄目じゃん」
「炭酸飲めるようになったんだな」
そういう何気ない言い方の中に、他人が入れない年数が一瞬で出る。
そのたび、二階堂の腹の底では重たいものがゆっくり動いた。マグマみたいだと思ったことがある。表へ噴くわけではない。ただ深いところで熱く、重く、形を変え続ける。勝ちたい、とその時いつも思った。何に勝つのかは自分でも曖昧だ。ただ、二人の速度に並びたい。必要とされる位置を取りたい。仕事でなら入り込めるかもしれない。知性でなら参加できるかもしれない。
だが本当はもっと単純だったのかもしれない。
会話の相手が欲しかった。
食事の相手ではなく、速度の合う相手。省略が通じる相手。言葉を置いた瞬間に、その先を先回りしてくる相手。
九条は、唯一対等に会話ができる相手だった。
しかも、自分より数手先を読む相手だった。
あいつとは、会話の速度が合った。
合うのに、毎回一手負ける。
それが腹立たしくて、嬉しかった。
二階堂はそういう相手を、ほかに知らない。
だから努力した。会話で遅れないようにした。資料を読み、人の名前を覚え、広報も現場も医務院も、どの部署とも繋がるようにした。必要な場所に必要な顔で現れる。そうやって、自分の席を作ろうとした。
それなのに。
スマートフォンの画面をもう一度見る。
後で話す
たったそれだけで、自分が配布対象から外されていると分かる。情報そのものより、その配られ方で。二階堂はそういう痛みの感じ方をしてしまう人間だった。
だが本当に痛いのは、そこではなかった。
話せる相手だと思ったのに、すでに真壁がいた。
しかも、自分の入れない速度で話していた。
それがずっと、どこかで引っ掛かっている。
九条は、人を嫌わない。
けれど信用もしない。
その境目を、あの男は妙に正確に分ける。
二階堂は、その線の向こう側にいた。
排除されたわけではない。仕事では使う。話もする。情報も渡す。だが最後の最後で、自分の手元に何を残すかとなった時、九条は二階堂を選ばない。
嫌われていないのに、信用されていない。
その半端な位置が、単純な拒絶よりよほど深く刺さる。
資料室の前の廊下へ視線をやった。真壁は中にいるらしい。灯りがついている。九条の件に決まっている。そこまでは分かる。だが、どの層の情報に触れているのかは分からない。
血文字の“ほ”が頭をよぎる。
本当に“ほ”なのか。
鑑識の写真はまだ揺れている。崩れた字なら別の読みも立つ。最初から固有名詞を指した一文字ではなく、書こうとして途切れたものの可能性もある。だが上はもう“ほ”として扱いたがっている。噂もそういう形で回り始めている。そこで、別の考えがわずかに首をもたげた。
真壁は、何を先に知った。
その問いが浮かんだ瞬間、二階堂は自分でぞっとした。何を考えてる、と思う。真壁だぞ。頭も、仕事の組み方も、変なところで腹が据わってるところも、ちゃんと認めているだろ。なのに、外された痛みが先に来た途端、そっちへ行くのか。
だが頭は止まらない。
血文字の“ほ”は本当に犯人を指しているのか。真壁は何かを先に知ったから、自分への返信がああいう長さになったのではないか。副院長は何を誰にどう渡した。九条は最後に誰を見ていた。
一緒に動いているこいつが犯人かもしれない、というほど単純な疑いではない。もっと汚い。こいつは何かを抱えたまま、自分だけに遅れて配る気なんじゃないか、という疑いだ。信じている相手を、信じきれない位置に一瞬だけ落とす考え。その一瞬に、自分の醜さがよく出る。
二階堂は昔から、人を分類して見る癖があった。キャリア。医者。若手。広報。現場上がり。使えるか、面倒か、話が速いか、遅いか。最初にそういうタグが頭へ浮かぶ。便利だからそうしているだけだ。肩書きで人を測り、能力で距離を決める。そのほうが外さないし、痛みも少ない。だが、その見方でしか人と接していない自分の醜さも、どこかでは分かっている。
九条は、たぶんとっくに見抜いていた。
あの男は、人の性格を饒舌には言わない。だが、見ていないわけでもない。だから最後に選ばれなかったのかもしれない。拾えないと思われたのではなく、拾っても自分の都合で並べ替えると見抜かれたのかもしれない。そう考えた瞬間、二階堂の喉の奥が妙に乾いた。
資料室の扉が開いた。
真壁が出てくる。表情はいつもと大きく変わらない。だが、変わらないということ自体が怪しく見える夜だった。
二階堂は内側を見せないように、先に口角だけ上げた。
「こんな時間まで熱心だな」
軽く言う。軽さの角度は、こういう時ほど大事だ。
真壁は一瞬だけ視線を上げた。その一瞬が遅かった。
「お前もだろ」
「俺は呼ばれたらどこでも行くタイプなんで」
「知ってる」
そこで会話は切れそうになった。普段なら、どちらかがもう一段何かを足す。九条がいれば、横から要らない一言を差し込むこともあった。だが今日はその余白がない。
二階堂は言った。
「何か掴んだ?」
真壁の返事は、ほんの半拍遅れた。
「……まだ」
その半拍で十分だった。二階堂は嘘の匂いを嗅ぎ取った。完全な嘘ではない。何も掴んでいないのではなく、言う段階じゃないものを掴んでいる時の遅れだ。真壁は昔からそういう嘘をつく。事実を全部隠すためではなく、順番が来るまで出さないための嘘。
二階堂は笑った。
「だよな。こっちも“ほ”で揉めてるだけだし」
「上が食いついてるってやつだろ」
「妙に」
そこで止めた。広報がどう見るか、どこを止めるか、そういう話はいくらでも出来る。だが今それを長くすると、自分がもう傷より職務へ逃げている感じがした。
「何だ」
「いや、別に。ただ、お前が何見てるのか少し腹立つだけ」
真壁はそれに答えなかった。答えないこと自体が、いまの二人の距離だった。
「じゃ、俺もう帰るわ」
二階堂はそう言った。
「真壁、お前も寝ろよ。顔死んでるぞ」
「お前に言われたくない」
「ひど」
軽口の形で終える。真壁もほんの少しだけ口元を動かした。だが、その動きは二階堂を安心させない。ここで余計な波を立てたくないから合わせただけだと分かるからだ。
すれ違う瞬間、二階堂は真壁のジャケットの内側がわずかに膨らんでいるのを見た。手帳か、封筒か、何か薄いもの。視線は一瞬で逸らした。見たと意識した時点で、自分がいやになる。ポケットのふくらみまで気にして。
真壁の足音が遠ざかる。二階堂はしばらくその場に立っていた。追えばまだ追える。だが追わない。追ったところで、今の真壁は渡さない。渡さないと決めている相手を追い詰めても、残るのは別の傷だけだ。
ただ、その膨らみは頭に残った。薄い紙か封筒。副院長からの呼び出し。血文字の一文字。腹部への執拗な暴行。吐かせようとした痕。異常な死体。これらが別々の箱に入らなくなっていく。
九条は何を体内へ入れていたか。
犯人は何を吐かせようとしていたのか。
副院長が何かを見つけ、真壁にだけ渡したのではないか。
そう考えることはできる。できるのに、二階堂は自分のその推理に吐き気を覚えた。外された瞬間から、頭がそんなふうに組み始めること自体が、九条に選ばれなかった理由に思えたからだ。
結局、庁舎を出たのはそれから三十分後だった。
夜風は冷たかった。空腹はある。何も食べずに帰るのはよくないと思い、駅前の定食屋へ入った。チェーンではない、小さな店だ。遅い時間でも開いていて、一人客の扱いが雑すぎないので、たまに使う。カウンターではなく、二人掛けのテーブルに座った。店員が水を置く。メニューを見るまでもなく、生姜焼き定食を頼む。迷う気力がない時は、それでいい。
向かいの席は空いていた。
当たり前だ。二人掛けなのだから、ひとりで座れば片側は空く。そんなことは分かっている。だが今日の空き方は、妙に正確だった。食卓は席を確認する場所だと自分で知っているから、空いた向かいが余計に目立つ。
スマートフォンをテーブルに伏せたまま、水を飲む。通知は来ない。厨房から油の弾ける音がする。生姜の匂い。味噌汁の湯気。店内テレビでは深夜ニュースが流れ、音量は低い。いつもの夜だ。自分が変に刺さっているだけで、店のほうは何も変わっていない。
料理が来た。豚肉、千切りキャベツ、味噌汁、漬物、ご飯。箸を取る。肉を一枚つかみ、口へ入れる。味は分かった。塩も、油も、熱も分かった。分かるのに、食事にならなかった。
向かいに誰もいないからではない。
九条の最後の線の中に、自分がいないことだけが、妙に正確だった。
スマートフォンの画面を上に向ける。真壁からの新しい連絡はない。自分から送る気にもなれない。送ればいいのだ。さっきの「まだ」って何だよ、と軽く返せばいい。だが、そういう言い方をすると、本当に欲しいものが露骨になる。お前の中心に入れろ。情報だけじゃない、お前らの速度に乗せろ。そう言っているのと同じになる。
自分で自分が面倒くさい。
九条はそういう二階堂を、たぶん好かなかっただろう。
だから選ばれなかったのか。
その問いは、思った以上に効いた。捜査の中心から遅れたとか、そういう実務上の痛みだけではない。九条の最後の一行に、自分は必要ないと判断されたのではないか。拾う力がないのではなく、拾った先で自分の都合を混ぜると見抜かれたのではないか。そう思うと、食事の味がさらに薄くなった。
箸を置く。スマートフォンの画面には、短いやり取りだけが残る。
後で話す
それが真壁の言葉なのか、九条の判断そのものなのか、もう二階堂には区別がつかなかった。
解剖所見の断片が頭の中で戻る。
腹部への執拗な暴行。刺創後の打撃。吐かせようとした痕。
吐かせようとした。
その言葉だけが、食卓の向かいに誰かいるみたいに、いつまでも席を立たなかった。
二階堂はそこで、ふと別の記憶に触れた。九条は昨日、医務院の食堂で昼食をほとんど残していた。珍しいことではない。検案が続けば食欲なんて飛ぶ。だが昨日は、食欲がないというより、意図して胃を空けている感じがあった。味噌汁だけ飲み、固形物を押しやるように皿の端へ寄せていた。
「珍しいな。調子悪いのか?」
軽く言った時、九条は少しだけ目を上げた。
「胃は空けておいた方がいい時があります」
冗談にも説明にもならない返しだった。二階堂はその場で流した。今になって、その一言がいやに鮮明に戻る。
さらにもう一つある。港湾倉庫街の近くで九条を見かけた、と会計課の檜垣が話していた。偶然だろうと思った。検案関係で外へ出ることはいくらでもある。だがその時、檜垣は妙なことも言っていた。コンビニ袋の中に胃薬みたいな箱が何個も見えた、と。
胃薬を買う。胃を空ける。港へ行く。腹を殴られる。吐かせようとされる。
二階堂は箸を持ったまま、動きを止めた。
馬鹿げている、と思う。だが馬鹿げているものほど、本当らしい形で戻ってくる夜がある。九条は、自分の身体を最後の保管庫にしたのではないか。殺される可能性まで織り込んで、解剖されることまで計算に入れ、自分の胃の中へ何かを隠したのではないか。
その推理に辿り着いた瞬間、二階堂の背中を冷たいものが通った。
編集された情報ではない。広報が整えた言葉でもない。死体そのものが残した順番だ。そういうことを九条ならやりかねない。やりかねないから恐ろしい。
そして同時に、二階堂はそこでようやく別のことにも気づいた。
九条は人を選ぶ時、頼る相手と、刺激する相手を分けていた。
真壁は前者だ。
あいつは指名されれば動く。選ばれたことそのものを責任に変える。だから九条は、最後の受取人に真壁の名を書く。
では自分はどうか。
二階堂はそこで、苦い笑いを飲み込んだ。
自分は書かれない方が動く。
名指しされた瞬間に役割へ自分をはめる。だが外された時だけ、役割より先に感情が走る。そこから食らいつく。そこから勝手に考える。
九条はそれを知っていたのかもしれない。
信用していないから外したのではなく、外した方が動く人間として読んでいたのかもしれない。
そう思った瞬間、屈辱と納得が同時に来た。
向かいの空席が、そこでさらに深くなった気がした。あの席には、本来なら誰が座るはずだったのか。九条か。真壁か。あるいは、自分が含まれているはずだった何かそのものか。答えはない。ないのに、食器の並びだけがいやに整って見える。
二階堂はスマートフォンを取り上げ、九条との過去のやり取りを開いた。数は多くない。連絡事項、短い照会、資料受領の確認、たまに業務外の店の話が一往復。そこへ埋もれるように、半年ほど前のメッセージが一つ出てきた。
港側の記録って、紙の保管年限どこまでですか
それに対して二階堂は、
部署による。何で?
と返している。九条からの返事はない。その時は気にしなかった。単に業務の確認だと思った。今見ると違う。こいつはその時、もう港を見ていたのかもしれない。しかも誰にも説明せずに。
二階堂はスマートフォンを伏せた。
ふざけるな、と思う。
真壁に対してではない。九条に対してだ。どうして一人でやる。どうして人を使わない。どうして最後まで、拾える相手だけを選別する。そういうやり方は美しいかもしれない。だが残される側にとっては残酷だ。選ばれなかった者は、仕事の外で自分の価値を測り直す羽目になる。
怒っても結論は変わらない。変わらないのに、怒らずにはいられない。
店のテレビでは、地方港の物流停滞について短いニュースが流れ始めた。コンテナの映像。夜の岸壁。クレーンの赤い灯。何の関係もない一般ニュースだ。なのに、脳のほうが勝手に港の匂いを思い出す。潮と油と鉄。倉庫街の薄暗さ。解剖所見の断片。血文字の崩れた一画。
ほ、にも見える。
ま、にも見える。
もし九条が最初から多義的に残したのなら、そこにも意地がある。人名へ飛ぶ者がいる。場所へ飛ぶ者がいる。会社へ飛ぶ者がいる。自分の幼馴染の名へ飛ぶ者もいる。その飛び方自体が、その人間の立っている位置を暴く。
二階堂はそのことに気づき、箸を持つ手を少しだけ強くした。
自分は何へ飛んだ。
最初は堀島だと思った。次に北界。次に保税倉庫。そこで、本郷へ飛んだ。だが、真壁を疑った一瞬も確かにあった。つまり九条は、死に際のたった一文字で、自分たちの位置まで試している。そういう残し方をする男だ。
生姜焼きは半分以上残った。店員に悪いと思いながら、二階堂は箸を置いた。食えないものを無理に詰め込むと、その夜の自分が余計に嫌いになる。
会計を済ませ、外へ出る。冷たい夜気が顔に当たる。駅前の人通りは少ない。タクシーが一台、客待ちで停まり、遠くで酔った笑い声が短く響いて消える。普通の夜だ。だが二階堂の中では、普通に戻る回路だけがまだ繋がらない。
歩道橋の上で、二階堂は一度だけ立ち止まった。下に線路が見える。終電間際の電車が入ってくる。白い光。短いブレーキ音。乗り降りする人影。誰にも選ばれずに流れていく人の群れを見ていると、自分の悔しさが少しだけ均される気がした。均されるだけで、消えはしないが。
真壁に今すぐ電話することもできた。やめた。問い詰めても、たぶん何も変わらない。むしろ九条が引いた線を、自分自身が汚すだけだ。
それでも一つだけ、送ろうかと思う文面があった。
俺を外してもいい。でも順番だけは間違えるな。
頭の中で作って、消した。重い。そんなことを送れば、自分がどれだけ今夜傷ついているかを相手に渡すことになる。それはしたくない。
家へ帰り着いたのは一時を回ってからだった。鍵を開け、暗い部屋へ入る。誰もいない。冷蔵庫の低い音だけがある。ジャケットを脱ぎ、椅子へ掛け、ネクタイを緩める。そこでようやく、今日一日ずっと自分の肩に余計な力が入っていたことに気づいた。
洗面台で顔を洗う。冷たい水が額を流れ、目の周りを締める。鏡の中の顔は、思ったより疲れていた。だが疲労より先に出ているのは、選ばれなかった人間の顔だった。そう見えたことに、自分で少しだけ笑いそうになった。大げさだ。だが、まるで違うとも言い切れない。
シャワーを浴び、寝室へ入っても、すぐには横になれなかった。ベッド脇の小机にスマートフォンを置き、灯りを消す。暗くなると、昼間より頭はよく働く。働くくせに、役に立つことは少ない。
九条の白衣。真壁の遅れた半拍。副院長の平らな声。現場の血文字。腹部の暴行。吐かせようとした痕。港湾の線。自分が選ばれなかったこと。全部が別々に浮かんでは沈む。
そして最後に残ったのは、やはり同じ言葉だった。
吐かせようとした。
犯人は、何かが胃の中にあると思っていた。
思っていたから、あそこまで腹をやった。喉をやった。吐かせようとした。だとしたら九条は、それを守った。自分の命より先に。
そこまで考えると、二階堂の中で怒りと敬意が、区別のつかない形で混ざった。
あいつは本当に、死んでからも順番を押しつけてくる。
眠れないまま、二階堂は天井を見た。真っ暗な天井には何も映らない。だが脳の裏では、崩れた血文字だけがいつまでも消えない。ほ。ま。人にも場所にも会社にも読める一画。その一画の中に、自分の立っている位置まで含まれている気がした。
選ばれなかった側にも、まだやることはある。
それは慰めではなかった。中心ではない。九条の最後の一行の中に自分の名はない。だが、順番の外にいるわけでもない。外された傷を抱えたまま、自分の位置で動くしかない。
二階堂は暗闇の中で、ようやくそこへ辿り着いた。
九条は自分を信用しなかったのかもしれない。
あるいは、信用したうえで最後の受取人にはしなかったのかもしれない。
どちらでもいい。
どちらでも、いま夜の底で自分の中に残っているものは同じだった。
悔しい。
腹が立つ。
勝ちたい。
選ばれたい。
それでも、一番認めている。
尊敬していた。悔しかった。腹が立った。
たぶん、それ全部まとめて、好きだった。
そこまで認めたところで、ようやく二階堂は少しだけ笑った。
「……ほんと嫌な奴だな」
声に出すと、少しだけ楽になった。
嫌な奴だ。
だが、だからこそ忘れられない。
選ばなかったことを、後悔させてやる。




